エイドリアン・ゴンザレス(Adrian Gonzalez , 1982年5月8日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴ出身のプロ野球選手(一塁手)。左投左打。現在は、MLBのロサンゼルス・ドジャースに在籍している。両親はともにメキシコ人であり、ゴンザレス自身はアメリカ合衆国とメキシコの二重国籍保持者である。兄はエドガー・ゴンザレスで、からの2年間はサンディエゴ・パドレスでともにプレーした。アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴで1982年、メキシコ人の両親の間に生まれる。父はエアコン会社を経営する実業家で、若い時にはメキシコのナショナルチームで一塁手として活躍した人物でもあった。父の仕事の関係で、2歳のときに一家で国境を越えてメキシコ合衆国バハ・カリフォルニア州ティフアナに移住。4 - 5歳になったころ、父や2人の兄の影響から野球を始める。10年ほどのメキシコ暮らしの後に一家はサンディエゴに戻り、ゴンザレスは に進学する。初め、ベースボール・アメリカ誌の高校生有望株ランキングでゴンザレスは100人中26位にランクインされ、その後打率.645・13本塁打・34打点を記録したことで注目されるようになる。2000年のドラフトでは、1巡目全体1位でフロリダ・マーリンズがゴンザレスを指名。過去に高校生野手で全体1位指名を受けた選手には、ケン・グリフィー・ジュニアやチッパー・ジョーンズ、アレックス・ロドリゲスなど後のMVP受賞経験者が並んでおり、当時からゴンザレスがどれほどの高評価を得ていたかがわかる。ゴンザレスは「マネーの心配は一切しなかった。1巡目の、それもトップで指名されたのだから、それだけで十分だった」とマーリンズから提示された条件は度外視し、指名から1日後の6月6日に契約金300万ドルで入団を決めた。同年からマーリンズ傘下のマイナーリーグで試合に出場。にはA級ケーンカウンティ・クーガーズで17本塁打・103打点を記録し、ミッドウエストリーグMVPに選出された。もAA級ポートランドで17本塁打・96打点を記録。しかしシーズン終了後の12月に手首の手術を受けたため評価を下げることとなる。また、当時マーリンズの一塁にはデレク・リーがいた。7月11日、テキサス・レンジャーズにトレードで移籍した。2004年のシーズン開幕前に発表されたベースボール・アメリカ誌の有望株ランキングで、ゴンザレスはレンジャーズ傘下での最高評価を受け、その期待に応えるように4月18日にメジャーデビュー。しかしレンジャーズの一塁には強打者マーク・テシェイラがいたため、ゴンザレスの出場機会はここでも限られたものとなり、実力を発揮できないでいた。1月6日にゴンザレスはクリス・ヤング、ターメル・スレッジとともにトレードでサンディエゴ・パドレスに移籍。パドレスが放出したのが、ビリー・キリアン、アダム・イートン、大塚晶則といった3選手を放出したのに対し、レンジャーズの出した交換相手は若手主体だった。開幕前の3月には、第1回WBCのメキシコ代表に選出された。この大会では、チーム全6試合中5試合に出場した。シーズンでは、ここでも当初の扱いは控えの一塁手だった。しかし、レギュラーで起用される予定だったライアン・クレスコが左肩の故障で離脱したため、開幕から主軸として起用されることになった。4月3日の開幕戦には5番・一塁で先発出場。その後も出場を続け、月間打率は4月が.256、5月が.244と低迷したが、6月6日から6月26日にかけて17試合連続安打を記録し復調。打者に極めて不利とされるペトコ・パークを本拠地球場にしているにもかかわらず、最終的にはシーズン通算で打率.304・24本塁打・82打点の好成績を記録し、チーム二冠王(打率・本塁打)に輝いた。この活躍を受けてパドレスは、開幕直前の4月1日にゴンザレスとの契約をまで4年総額950万ドル(のオプションを含めると総額1,500万ドル)で延長している。開幕からクリーンアップで起用されたゴンザレスは、シーズン全162試合が終了した時点で打率.279・29本塁打・96打点という成績を残した。本来ならこの時点でレギュラーシーズン終了だが、この年はポストシーズン進出を争っていたパドレスとコロラド・ロッキーズが同率で並んでいたためにワンゲーム・プレーオフが開催されることに。チームは8-9で敗れてポストシーズン進出を逃したものの、成績がレギュラーシーズンに含まれるこの試合でゴンザレスは満塁本塁打を含む3安打を放ち、滑り込みで成績を30本塁打・100打点の大台に乗せた。30本塁打到達は、ペトコ・パーク移転後のパドレスでは史上初だった。は全162試合に出場し、打率.279・36本塁打・119打点・OPS.871と成績を伸ばした。7月にはオールスター初選出・初出場を果たし、シーズン終了後にはゴールドグラブ賞も初受賞。エースのジェイク・ピービーが故障離脱したり、正遊撃手のカリル・グリーンが不振に陥ったり、さらにチームも地区最下位に沈んだなかでゴンザレスは腐ることなく活躍し続けた。開幕前の3月には、第2回WBCのメキシコ代表に選出され2大会連続2度目の選出を果たした。シーズンでは、160試合に出場し、打率.277、40本塁打、99打点、OPS.958を記録。昨年同様チームは低迷したが、成績はキャリアハイを記録し、2年連続のオールスター出場、またゴールドグラブを獲得した。昨年にも増して回りの打者が打てず、結果として四球が激増し、リーグトップの119個を記録した。も30本塁打、100打点、OPS.900をクリアするなど、貧打に苦しむチームの中で孤軍奮闘の活躍を見せた。パドレスはシーズン最終戦でジャイアンツに敗れてプレーオフ進出を逃した。2010年12月5日にケイシー・ケリーらマイナー有望株3名と後日指名選手1名の合計4選手とのトレードでボストン・レッドソックスに移籍した。7年契約で年俸総額は1億5400万ドル。は極端な打者不利とされているペトコ・パークから、打者有利と言われるフェンウェイ・パークに本拠地が移ったこともあり、打率.338、27本塁打、117打点の成績を残し打率と打点は自己最高の数字であった。年間を通して打線の核として働いたが、チームは9月以降大失速しプレーオフ進出も逃す結果になった。はオールスター終了時点で5本塁打、37打点と物足りない数字であったが、オールスター以降は好調を維持していた。しかしチームは前年以上に低迷し、ゴンザレス自身もこの年から監督に就任したボビー・バレンタインとの確執が噂されていた。2012年8月25日、ジョシュ・ベケット、カール・クロフォード、ニック・プントと金銭と共に、ジェームズ・ローニー、イバン・デヘスース、アレン・ウェブスターとのトレードでロサンゼルス・ドジャースへ移籍した。ドジャースからはさらに後日発表予定の2人の選手が移籍した。開幕前の3月に、第3回WBCのメキシコ代表に選出され3対会連続3度目の選出を果たした。シーズンでは、157試合に出場し打率.293・22本塁打・100打点という成績を記録。4年連続で100打点以上(6度目の100打点以上)をマークし、本塁打は2年ぶりに20本を超えた。2006年以降、毎年156試合以上に出場するタフさを発揮している。、2年ぶりとなる159試合に出場し、打率.276・27本塁打・116打点という打撃成績をマーク。シーズン終盤にマイアミ・マーリンズのジャンカルロ・スタントンが死球で故障離脱した事により、逆転して自身初の個人タイトルとなる打点王に輝いた。打率はレギュラー定着後で最低の数値だったが、3年ぶりに25本塁打のラインをクリア。守備面では6失策で守備率.996、守備防御点+12を記録し、引き続き高い守備力を発揮した。ナショナルリーグでは、自身初めてシルバースラッガー賞を一塁手部門で受賞した。は開幕3試合で5本塁打を記録と最高のスタートを切った。最終的には156試合に出場して打率.275・28本塁打・90打点の成績をマークした。打点は2009年以来6年ぶりに100打点を下回ったものの、DRS + 10と相変わらずのハイレベルな守備を含め、攻守に安定した成績でチームに貢献した。3月11日に第4回WBC予選のメキシコ代表に選出されたことが発表され、4大会連続4度目の選出となった。同大会ではメキシコ代表は本戦出場を決めている。左の中距離打者で、外角球にも逆らわず速く鋭い打球が飛ばせる、いわゆる広角打法が持ち味である。メジャーリーグでもっとも打者不利とされている本拠地ペトコ・パークによって打撃成績が大きく影響を受けている。パドレス在籍時の2006年から2010年までの成績は、ホームでは397試合57本塁打(162試合換算23本塁打)・打率.267・出塁率.367・長打率.442・OPS.808であるのに対し、ビジターでは402試合104本塁打(162試合換算42本塁打)・打率.307・出塁率.381・長打率.579・OPS.960である。当初は選球眼が良くなくボール球に手を出してしまうことも多いので三振も多かったが2009年はこの点が飛躍的に改善し、自身初めて四球が三振を上回り、出塁率も四割を突破した。一塁の守備には高い評価を与えられている。大柄な体型に似合わず守備範囲も広く、パドレスではウォーリー・ジョイナー以来の名手である。MLB球団首脳・監督へのアンケートの結果、ゴンザレスはフィラデルフィア・フィリーズのジェイソン・ワース(当時)と並んで、ナ・リーグで最も過小評価されている選手に選ばれた。
出典:wikipedia
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