『CIRCUS TOWN』(サーカス・タウン)は、1976年12月25日に発売された、山下達郎初のソロ・スタジオ・アルバム。山下はシュガー・ベイブのメンバーとして1973年にプロ活動を始めたが、3年後の1976年に解散、仕方なくソロになったという。バンド解散による精神的ダメージと、シュガー・ベイブで目指した1960年代テイストやレコード・マニア的趣味性が当時の日本の音楽状況にまったく受け入れられなかったことへの挫折感から、自分がこの先どうすればいいか、まったくわからなかったという。ソロでやって行くにしても、どこか客観的な立場に一度身を置いて自身の音楽的力量を判断してみないことには前に進めない。これがソロ・アルバムを海外で録音しようと思い立った理由だった。音作りに関して、シュガー・ベイブは実質的に山下のワンマン・バンドだった。とはいえプロデュースだアレンジだといっても、小さな世界での観念的な言葉でしかなかった。山下自身もそうしたことに限界を感じていたことから、この初めてのソロ・アルバムでは曲作りと歌に専念して、プロデュースとアレンジを第三者に託してみようと考えていたという。自分が聴いて育ってきたアメリカン・ヒット・パレードの真ん中で自分の音を鳴らしたら、どんなものが出来上がるのか。プロデューサー、アレンジャー、ミュージシャンからスタジオやエンジニアまで自分で指定して、その上に自分の曲と歌を乗せてみたら自分の予測値と現実はどのくらいの誤差が生じるのか。そのため、録音場所は絶対にニューヨークで、プロデューサー・アレンジャーは1960年代も1970年代も等しく理解している人でなければならない。こうしたプランに基づいて何人かのアレンジャーやミュージシャンを想定し、当時ソロ・シンガーとして契約したいと声をかけてきたレコード会社数社に話したところ、当時は海外レコーディングはまだ特別な事柄で、ミュージシャンやスタジオの交渉など現地でのコーディネートも難しく、なにより山下のオーダーではスタジオやミュージシャンのランクが高過ぎて莫大な経費がかかり、当時の山下のセールス実績では採算が取れないと判断され、どのレコード会社も難色を示した。そんな中で1人だけ、RVCで制作ディレクターとしてのキャリアをスタートさせたばかりだった小杉理宇造が手を挙げた。RVCで日本のロックをやりたいと考えていた小杉は、マネジメント会社「アワ・ハウス」代表の牧村憲一に紹介されて行った、荻窪ロフトでのシュガー・ベイブ解散コンサートを見て、山下と契約したいと思ったという。その頃すでにCBSソニーとの契約が決まっていたが、まだ正式にはしていないらしい。ならばとにかく本人に会いたいということでRVCに来た山下に小杉は「君をやりたいんだけど」と申し出た。対して山下は「ニューヨーク・レコーディングをやりたいから、そのお膳立てをしてくれたらやってもいい」という事になり、正式なオファー・リストを山下からもらった小杉は、ニューヨークでの留学生活の経験を生かして単身渡米し、山下が指名したプロデューサー数人と直接交渉の結果、第一候補だったのOKを得て話を決めてきた。ただし、予算の関係でアルバム1枚全部をニューヨークでというのは不可能なので、ついては自分はロサンゼルスにならミュージシャンの友人がいて、彼らを紹介するので、半分をロスでお願いできないかという話で、その友人というのが、という、やのメンバーだったこともある、山下の大好きなミュージシャンだったというのも縁としかいいようがなく、かくしてRVCと契約する運びとなり、ソロ・デビュー・アルバムの準備が整った。レコーディングは最初、ニューヨークで2週間、その後ロサンゼルスに移動して1週間というスケジュールで行われた。初めての海外、それまでバンドの中でチマチマやっていたのがいきなりの他流試合。しかも相手は超一級のミュージシャン集団。ニューヨークでのセッションが始まると、緊張のあまりろくに声も出なかった。チャーリー・カレロはお世辞にもフレンドリーとは言えず、ミュージシャンもクセのある連中ばかり。わずかにドラムのとエンジニアのジョー・ヨルゲンセンが励ましてくれたおかげで何とか救われたようなものだったという。当時23才だった山下にとって、ニューヨークのスタジオでの人間関係は、金の話や人種差別といった不快な部分も含めてとてつもないカルチャーショックだったが、それでもスピーカーから出て来た音が自分が考えたイメージとほぼ同じだったことに安堵したという。それは何より自分の美意識が基本的には間違っていなかったことの証明であり、その後の音楽活動への大きな励みになった。ティー・ブレイクのとき、「好きなミュージシャンは誰か」とチャーリー・カレロに質問され、ここぞとばかりハル・ブレインやバディ・サルツマンの名を挙げたところ、たった一言「彼らは確かに1967年には一流だった」と言われたという。この言葉が、それまでのポップス・マニアだった山下の音楽的方向性に決定的な転換を与える結果となった。この時代のチャーリー・カレロと仕事をしたことで後に山下は、ロックン・ロールというものの時代を貫く普遍性が体感できたとし、「あの体験がなければ、新しいものには見向きもしないで、恐らく自分が十代に聴いて感動した音楽を追いかけて、オールディーズ少年をやっていただろうな。重要なのはそういうことじゃなくて、ドゥーワップ好きでもラップはできる、こんな感じかなって思った」と話している。ニューヨークでのセッションを終え、ロサンゼルスに移ってみると、ミュージシャンはフレンドリーだが機材は古臭いといった調子で、ニューヨークとはすべてが違っていた。ロスでのセッションが始まった途端、ジョン・サイターが連れてきたメンバーが山下の思った感じの音を全然出してくれないという事態が起こった。特にベーシストとギタリストが全くダメで、一日目を終えてすっかり落ち込んでしまった山下は、このまま続けても仕方ないからやめて帰ろうかとさえ考えた。しかし、ホテルに帰る車の中でジョン・サイターが「コーラスはケニー・アルトマンとジェリー・イエスターに頼む予定だ」と言い出したので、それを聞いた山下が「ちょっと待って。ケニー・アルトマンがLAにいるなら彼にベースを弾いてもらってよ」と提案、かくしてベースはケニー・アルトマンに交代、ギターはキーボーディストのジョン・ホッブスがバンド仲間のビリー・ウォーカーを連れてきたことで、綱渡りながらも残りの2日間で何とかリズム録りを終えることが出来たという。2002年、“山下達郎 RCA/AIRイヤーズ 1976-1982”として、『CIRCUS TOWN』から『FOR YOU』までの7タイトルが山下監修によるデジタル・リマスタリング、および、自身によるライナーノーツと曲解説。CDには各タイトル毎に未発表音源を含むボーナス・トラック収録にて再度リイシューされた。本作には未発表音源のカラオケ2曲をボーナス・トラックとして収録。また、本作を含むRCA/AIRイヤーズ対象商品7タイトル購入者に応募者全員への特典として、リマスター盤『COME ALONG』がプレゼントされた。
出典:wikipedia
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