「ブルー・シャトウ」("Blue Chateau")は、ジャッキー吉川とブルー・コメッツが1967年にヒットさせた楽曲である。1967年3月15日に発売され、レコード売上150万枚の同グループ最大のヒット曲となり、第9回日本レコード大賞を受賞した。またこの曲は『第18回NHK紅白歌合戦』(1967年)の際の出場曲で、同時にグループとして2回目の出場曲でもある。橋本淳作詞、井上忠夫(当時。後に井上大輔)作曲、森岡賢一郎編曲。この曲はもともと、作曲者の井上忠夫が木の実ナナに提供する作品を書いているうちに出来たものである。カナダのレイクルイーズホテルに宿泊中作曲した。その後むしろ男性が歌うべきと考え、ブルー・コメッツの作品として発表したといわれる。ファとシを除いた「四七抜き(よなぬき)短音階」を基調とした日本風の曲であり、井上は発表当時「外国のリズムと日本のメロディーの新しい組み合わせを考えた」と語ったという。また、当時のレコードジャケットのライナーノーツには、この曲がわずか3分で出来たものであることと、発表前に関係者に聴かせたところ「この曲、何となく(童謡の)『月の沙漠』に似ている」と言われたことが記されている。しかし後年(1987年)、井上自身はこの曲が大ヒットしたことを、もともと洋楽っぽく格好いいもの、ひいては新しいものを目指してきたグループ・サウンズ(GS)というジャンルにとっては「悲劇だった」と振り返っている。「でも実は(『ブルー・シャトウ』を作ったことは)ジレンマでね。目標としてきた洋楽とは正反対のものを作っちゃったんだから。他のGSがそのまねをさせられ始めたのもつらかった。あの曲からGSの悲劇は始まったと思う」(井上)さらに井上は「新しい音楽をつくるつもりだったのに、結局は歌謡曲に飲み込まれてしまった」と、当時の悔いを口にしている。(実際にこの曲がヒットした後、「バラ色の雲」「長い髪の少女」など、「売れ線」として歌謡曲調の作品をGSが歌わされるケースが増え、それらは目論見どおりヒットしたため、洋楽に傾倒した作品はますます隅に追いやられる結果となった。因みにザ・スパイダースのかまやつひろしも、やはり後年になって、洋楽色が薄まった「夕陽が泣いている」のヒットについて、「曲が来た時に物凄く抵抗があったが、皮肉なもので当たってしまった」といった旨を語っている)その後井上は、シャネルズ(後のラッツ&スター)のデビュー作「ランナウェイ」を世に送ったが、この曲を作った時に「やっと決着がついた気がした。(GSの時代に本当に)やりたかったことをやっとやれたってね」と述懐している。一方で井上の死後、ジャッキー吉川は「GSブームはいい曲をたくさん残した。大ちゃん(井上)はそれを誇ってよかったんだ」と語っている。ブルー・コメッツの曲としては、先行する「青い瞳」・「青い渚」に続く「青い」シリーズの第三弾であり、前2作と同様に、橋本・井上のコンビの作品である。また、1976年7月にはB面を「マリアの泉」に差し替えて再リリースされ、更に1991年7月21日には8cmシングルCDとして再リリースされた。ただしカップリング(B面)は「青い瞳」(日本語・ステレオ音源バージョン)に変更され、両A面シングルとなっている。1a. 青い瞳(英語版) 1966年1b. 青い瞳(日本語版) 1966年2. 青い渚 1966年3.ブルー・シャトウ番外: 青い月夜(唄=奥村チヨ)以上の作品は全て橋本・井上コンビ。なお、このコンビによる色の名前のついた作品には他に「むらさき日記」(1970年、演奏=ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)もある。また井上は1967年に美空ひばりの「真赤な太陽」(吉岡治作詞・原信夫作曲)の編曲も手がけている。この曲がヒットした直後から、歌詞の各単語の語尾のところに「トンカツ」「ニンニク」「コンニャク」「テンプラ(テンドン)」などといった(主として)食べ物の名前を付けた替え歌が大流行し、一種の社会現象となった。『日清ちびっこのどじまん』で四方晴美が歌ったのが流行のきっかけとされる。また、タモリがアルバム「戦後日本歌謡史」のなかで、「ブルー・エンペラー」(演奏:ジャッキー佐藤とブルー・コメットさん)という替え歌を歌っていた。1989年に放送された常盤薬品工業の『パスビタンD』のCMの中でこの曲の替え歌が使用されていた。 他
出典:wikipedia
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