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南北国時代

南北国時代(なんぼくこくじだい、)は主に韓国で用いられる新しい歴史用語で、統一新羅(南)と渤海(北)の並立時代を指す。北朝鮮も同様に渤海を自国史に組み込むが、「南北国時代」なる用語は使わない。この用語は渤海を韓国の自民族史に組み込む意図で用いられており、渤海領土を継承する中国やロシア、歴史的に渤海研究を主導してきた日本では受け入れられていない。特に、中国では中国社会科学院を中心に、古朝鮮・高句麗・扶余・渤海まで歴史が一脈相通じる韓民族の歴史ではなく、古代中国の地方民族政権の歴史で、中国歴史であり「渤海建国の主導勢力は高句麗人ではなく靺鞨族で、渤海の建国者大祚榮は渤海初期に靺鞨を正式国号に採択した」と見ており、渤海を自国の古代国家と主張する韓国と激しく対立している。満洲南部から朝鮮半島北部にかけては高句麗が勢力を維持していたが、668年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされた。のちに唐は朝鮮半島から撤退し、新羅は高句麗故地の南部を占領した。これにより朝鮮半島が統一されたとして、以降の新羅は統一新羅と呼ばれる。一方、唐により営州(現在の遼寧省朝陽市)に移されていた高句麗遺民は、契丹の反乱に乗じて粟末靺鞨の首領のもと東遷し、震国を築いた。その後唐と和解して渤海郡王に冊封され、さらに渤海国王にすすめられた。これにより渤海と呼ばれる。渤海は満洲東部、ロシア沿海州から朝鮮半島北部にかけてを領土とした。渤海と新羅はほぼ全時代にわたって激しく対立した。渤海は926年に契丹に滅ぼされ、故地には東丹国がおかれたが後に南遷した。同じ頃、918年に朝鮮半島中部に高麗が興り、935年に新羅を征服した。渤海故地では混乱が続き、のちに女真族が勃興する。「南北国時代」論の歴史は非常に新しい。この議論の引き金を引いたのは、北朝鮮の朴時亨の論文「渤海史研究のために」(1962年)である。それまで北朝鮮の公的史観において、レーニンの民族論をベースにして、新羅の三国統一が朝鮮準民族(ナロードノスチ)形成の契機とされていた。朴時亭以後は、三国鼎立、南北両立、そして高麗による統合という新たな歴史観が北朝鮮の公的見解となった。これにあわせて「統一新羅」は「後期新羅」と呼ばれるようになった。ただし、北朝鮮では「南北国時代」なる用語は使わない。北朝鮮と正統性を争う韓国では、遅れて李佑成が「南北国時代と崔致遠」(1975年)を発表し、新羅と渤海の並立時代を「南北国時代」と規定した。この規定は民族主義的な韓国史学において受け入れられ、国定教科書に記述されるに至っている。ただし、北朝鮮と異なり「統一新羅」の呼称は引き続き用いられている。朴時亨の論文「渤海史研究のために」では、新羅時代にすでに「南北朝」という概念があったと主張しており、「南北朝」は「まさしく統一を実現しようとする同族の全体の一部である」している。韓東育は、「朴教授の学術理念を理解する上で役立つかもしれない。」として、朴時亨の学術理念をこう見る。 李氏朝鮮中期に、朴趾源は、漢朝の領土が鴨緑江の南に広がっていたという事実を否認した。そして、渤海を朝鮮史から除いた『三国史記』の著者金富軾を批判し、渤海は高句麗の子孫だと主張した。李圭景は、渤海の朝鮮史からの除外は「それが広大な領域を占めていた」ため、「重大な誤り」だと批判した。しかし、李氏朝鮮後期、渤海の創設者が朝鮮人とは考えられない靺鞨人であることを認めるにもかかわらず、渤海を朝鮮史に含める歴史家が増えた。18世紀には次のように意見が分かれていた。星湖と安鼎福は渤海を朝鮮史の一部にすること断固として拒否した。一方、と​​柳得恭は渤海を完全に朝鮮史に組み込んた。1世紀後、とは、新羅のような議論のない朝鮮の王朝と等しいものとして渤海を朝鮮史に組み込んだ。申采浩は、渤海や夫余を朝鮮史から除いたと『三国史記』の著者金富軾を批判した。申は、渤海が女真の金朝に敗れたことを「私たちの祖先檀君の古代の土地の半分を…900年以上の間失った」と解釈した。北朝鮮の学者、および最近の韓国の学者は、統一新羅が最初の朝鮮統一との見解に挑戦することにより、渤海の歴史を朝鮮史の不可欠な部分として組み込もうする。それによると、渤海が朝鮮半島北部の旧高句麗の領土を占めながらまだ存在していたから、高麗が最初の朝鮮統一だった。「南北国時代」論者は、南北国時代という用語の初出は新羅後期の崔致遠による『崔文昌侯全集』と主張する。崔致遠の唐への上表文では、渤海を指して「北国」と記している。しかし、渤海が新羅を「南国」と呼んだというのは史料の裏付けのない憶測に過ぎない。「南北国時代」論者は、ついで高麗時代の『三国史記』に見える「北国」用例をあげるが、都合の悪いことに、同じ『三国史記』にみえる「北朝」は北方の契丹を指している。そもそも『三国史記』には渤海関係記事はほとんどみえず、わずかに唐・新羅と渤海との紛争が記録されているにすぎない。李承休の『帝王韻紀』が歴代「東国君王」の一つとして渤海を取り上げている。李氏朝鮮の実学者柳得恭が『渤海考』の中で、「高麗は南方の新羅、北方の渤海をあわせて南北国史を編纂すべきだったのに、これをしなかったため渤海故地をえる根拠を失い弱国となった」と主張しており、「南北国時代」論者はこれを特筆する。しかし、李氏朝鮮におけるメインストリームの見解は、『東国通鑑』に「契丹之失信於渤海、何与於我(契丹が渤海を裏切ったことなど我が国と関係ない)」とあり、『東史綱目』に「渤海不当録于我史(渤海は我が国の歴史に記録するにあたらない)」とあるように、渤海を自国の歴史の一部とみなさないものであったが、現在の韓国や北朝鮮では「渤海は高句麗人が建国した国であり、高句麗の継承国で、韓国史の一部である」と統一した見方をしている。この考え方は、1784年に柳得恭『渤海考』が初めに発表し、1970年代になってこの研究が盛んになり、現在では、この時代を北は渤海、南では新羅が並立した自国の「南北国時代」として国定教科書にも記載し教育をおこなっている。朴チョルヒ京仁教育大学校教授は、このような韓国社会教科書について、過度に民族中心的に叙述され、「高句麗と渤海が多民族国家だったという事実が抜け落ちている。高句麗の領土拡大は異民族との併合過程であり、渤海は高句麗の遺民と靺鞨族が一緒に立てた国家だが、これについての言及が全く無い」「渤海は高句麗遊民と靺鞨族が共にたてた国家だというのが歴史常識だ。しかし国史を扱う小学校社会教科書には靺鞨族に対する内容は全くない。渤海は高句麗との連続線上だけで扱われている」と批判している。このように、渤海を自民族の歴史と位置付ける観念は弱いため、南北国時代論者は、より自民族としての観念が強固な高句麗に渤海を結びつけようとする。あたかも渤海に独自のものが何もなかったかのような言説が韓国では広がっている。その牽強付会ぶりは、自らそれを主導してきた宋基豪ですら「もし渤海人たちが聞いたら泣いてしまうだろう」と自嘲するほどである。戦前に高句麗史・渤海史の研究を行った南満洲鉄道株式会社東京支社内に設置された満鮮歴史地理調査部やその事業を東京帝国大学文科大学で移管調査した研究者(白鳥庫吉、箭内亙、松井等、稲葉岩吉、池内宏、津田左右吉、瀬野馬熊、和田清)は、高句麗人・渤海人は北方のツングース民族であり、今日の朝鮮民族の主流をなす韓族ではないと認識し、朝鮮古代史の中心を新羅と見て、満州を舞台に活動した高句麗や渤海等は「満州史」の一部である(ただし、高句麗は朝鮮史の一部でもある)という認識をしていた。朝鮮総督府の朝鮮史編纂事業によって刊行された『朝鮮史』には、渤海に関する記事はがほとんど収録されていない。その理由は、当時の日本人研究者の間において、渤海が朝鮮史ではなく満州史と認識されていたためである。朝鮮史編纂事業を行った朝鮮史編纂委員会の第1回編纂委員会で、その席上、李能和からの「渤海は何処へ這入りますか」という質問 に対して、稲葉岩吉は、「渤海に就きましては新羅を叙する処で渤海及び之に関聯した鉄利等の記事をも収載する積りであります」と回答している。今西龍は1930年8月22日に開かれた朝鮮史編修会第 4 回委員会の席上、崔南善からの質問に答えて「渤海も朝鮮史に関係ない限りは省きます」と発言している。また、戦前刊行された朝鮮通史である『世界歴史大系 第十一巻 朝鮮・満洲史』では、高句麗は朝鮮史と満州史の両方でとり上げられているのに対し、渤海は満州史でのみとり上げられ、朝鮮史ではほとんど記述されていない。戦後、満鮮史観を批判した旗田巍も渤海史を朝鮮史の一部と見做すことに疑義を持っていたことが知られている。田中俊明によると、南北国時代の歴史観では、渤海・新羅両国が同一民族によって構成され、同族として交渉していたとして、高句麗の旧領の大半は渤海が占めており、高句麗の旧領の一部を新羅が領有したことを挙げるが、渤海・新羅両国が互いに同族意識を持っていたかのかは疑問が多く、「渤海国を構成したのは粟末靺鞨が中心」であり、新羅辺境の靺鞨は自立していただろうという。そして、8世紀の唐の記録には、新羅人が新羅の東北境の住民のことを、黒毛で身を覆い、人を食らう長人、ととらえていたことをうかがわせる記述があるという。それら異人視は、渤海・新羅両国の没交渉からくる恐怖感であるが、それだけの異域であったことの証左であり、新羅の辺境であり、渤海の辺境地帯でもある地域住民に対して、これだけの異域観がみられることは、渤海・新羅両国の乖離した意識は明確であり、渤海・新羅の同族意識はうかがいようもないという。横田安司は韓国で渤海を朝鮮史の一部とみなし、朝鮮史に含める南北国時代論があらわれるようになったのは日本の植民地化での民族主義史学以降である事から、渤海を朝鮮史に含み古代朝鮮の活動範囲を満州にまで広げている韓国の歴史教科書を強烈な民族主義自意識の発露と指摘している。黄文雄は著書で、「満州族の先祖が築いた高句麗と渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」と高句麗と渤海を満州族の先祖としている。また、黄は「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」とし、高句麗と渤海を満州史としている。戦後になると石井正敏を初めとする研究者により当時の日本朝廷が国書において新羅と渤海を明確に区分していた事実が指摘されるなど更なる研究が進められ、南北国時代論の恣意的な史料解釈が批判されるなど、韓国史学会の述べる南北国時代論は日本においては定説とはなっていない。

出典:wikipedia

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