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回回砲

回回炮(かいかいほう)、もしくは西域炮、巨石炮、襄陽炮とは、投石機の一種である。西アジアの投石機であるトレビュシェットが、元軍によって中国に導入された時の名称である。回回とは西アジアの事であり、襄陽は地名であり、後述の通り襄陽・樊城の戦いにおいて実戦投入された事に由来する。モンゴル人がペルシアに遠征した時、この地に火砲があることを発見した。その砲身は木で造られ、用いる弾石は150斤、射程は400mほどあり、落ちた時も7尺もめり込み、威力は甚大だった。至元八年(1271年)、元世祖フビライはペルシアのイルハン朝王のアバカ(阿八哈)に使者を派遣し、砲匠の(、アラーウッディーン)と(、イスマイル)が徴発された。至元九年(1272年)十一月、阿老瓦丁は回回炮を制作し、大都の午門(正門)での試射が成功した。咸淳九年(1273年)、フビライは回回炮の砲匠を樊城と襄陽に派遣し、炮の制作と攻城をさせた。『集史』によれば、攻城に参加する回回炮手には、亦思馬因と阿老瓦丁以外にも二人のダマスカス人がいたという。元軍が長江を渡って南下してから、江南の戦場で、『元史·阿老瓦丁伝』によれば、回回炮は「毎戦これを用い、全てで効果があった(每戰用之,皆有功)」という。宋と元の襄陽・樊城の戦い中、元軍が使用した回回炮が襄陽の譙楼に命中し、「その音は雷のようであり、城中を震わせた。城中は騒がしくなり、多くの武将が城を逃げて降伏し(聲如雷霆,震城中。城中汹汹,諸將多踰城降者。)」、宋将の呂文煥は敵わないと知り、降伏した。至元十一年(1274年)、元朝は回回炮手総管府を置き、阿老瓦丁をその管軍総管と宣武将軍にした。至元二十二年(1285年)に回回炮手軍匠上万戸府と改名した。南宋も回回炮を模造しようと試み、『宋史·兵誌十一』によれば、「咸淳九年(1273年)、沿邊州郡因降式、制回回炮。有觸類巧思,別置炮遠出其上」という。宋人のは『』で「この回回炮法は、元々回回国から出た物だが、普通の砲より威力がある。(其回回炮法、本出回回國、甚猛於常炮)」とし、「この『回回砲』は、普通の砲より威力がある。これを用いて城に打ちいれば、寺院や道観や楼閣は、ことごとく砕ける。(其‘回回炮’甚猛于常炮,用之打入城,寺觀樓閣、盡為之碎)。」と記載する。この「普通の砲」とは三国時代に発案されたと伝わる霹靂車の事で、西欧におけるマンゴネルに相当する人力式の投石機である。宋人の徐霆は回回炮に対し、「回回の様々な職人の技術は精緻であるが、攻城の道具は最も精緻である(回回百工技藝極精,攻城之具尤精)」と評価したが、この「攻城之具」とはつまり回回炮である。

出典:wikipedia

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