鶴田浩二襲撃事件(つるたこうじしゅうげきじけん)は、1953年(昭和28年)1月6日に日本の俳優・鶴田浩二が暴力団・山口組三代目の組員に襲撃・暴行を受けた事件。この後、芸能界では「山口組・田岡一雄の機嫌を損ねるととんでもないことになる」と恐怖を植え付けることとなり、山口組が芸能界での勢力拡大と収益を上げていく大きな追い風を果たした。山口組三代目の組員・梶原清晴に指揮された同組組員・山本健一・清水光重・益田芳夫・尾崎彰春は午後7時すぎ、鶴田浩二の宿泊先・大阪市天王寺区大道町の旅館・備前屋で待ち伏せし、軒先に群がるファンらに「鶴田のサインをもらってきてあげる」と言って上がりこんだ。4人が桔梗の間に入ると、鶴田浩二や水の江滝子・高峰三枝子ら10名以上が夕食をとっていた。山本は彼らの面前で鶴田をウィスキー瓶やレンガで殴りつけた。。それから備前屋を飛び出し、黒塗りの乗用車に乗って逃亡。鶴田は救急車で近くの早石病院に搬送され、頭と手に11針を縫う重傷だった。警察では事件の背景として、前年(1952年)の秋に芸能プロモーターでもある田岡一雄が鶴田浩二のマネージャー・兼松廉吉に「美空ひばりと鶴田のジョイント公演」をオファーしたが断られ、その時の兼松のニベもない言動に田岡が不快感を露わにし、その報復と見せしめ(山口組を軽く見ると痛い目に遭う)として襲撃したと捜査していた。同年末に兼松は山口組を訪れ、翌1953年1月に大阪・千日前で行われる「百万ドルショー」の挨拶をし、当時の地元暴力団に対する慣例に従って田岡へ5万円と浅草のり一缶を渡した。しかし田岡は断ってきた時の兼松の横柄な態度が許せず、「いらん」と突き返した。兼松は田岡が怒ってることに気づかず「そら、どういうわけで?」と再び勧めるが、田岡「それはおまえがよう考えてみいや」、兼松「そんなことを言わずに」のやり取り後、田岡は「いらんと言うたらいらん」と言い放ち出ていった。1953年の2月から3月にかけて山本健一・清水光重・益田芳夫・尾崎彰春ら実行犯、直接の指揮者梶原清晴、4月2日には山口組興行部・西本一三らを逮捕。西本はヤクザでなく堅気であったことから、じわじわとした警察の取調べに「1月4日夕方に梶原とともに田岡一雄に呼び出され、直接襲撃の指令を受けたこと、西本は懸命に反対したが聞き入れなかったこと」を陳述した。調書に署名した後、西本は「自供したことが組に知られると、釈放されたあとに何をされるかわからない」と震えながら泣き出している。同年4月23日昼すぎ、田岡は山口組二代目・山口登の舎弟である興行師・永田貞雄に付き添われて天王寺警察署に出頭。田岡は「兼松が気に食わないで不快だ」と組員たちへ伝えていたことは認めたものの、自らの指示で襲撃させたということは頑として認めなかった。同年5月4日に田岡は処分保留のまま釈放された。西本も処分保留で釈放された。梶原・山本・清水・益田・尾崎は起訴され、山本は大阪地方裁判所にて同事件で懲役1年、執行猶予3年の判決を受けた。田岡一雄は自伝で「兼松が失礼だから怒鳴ったが、襲撃自体は指示しておらず、組員が勝手にやったこと」と述べているが、警察は西本一三の協力がなければ襲撃事件が成立せず、堅気の西本が功名心に駆られて襲撃事件を企画する動機がないのだから、とりもなおさず田岡の直接の指令があったことは間違いないとみていた。西本一三は山口組興行部を辞め、1956年1月に関西汽船・ひかり丸から海へ転落して不可解な死を遂げた。兼松廉吉は本事件の2年後、鎌倉稲村ガ崎防空壕跡にて服毒自殺した。鶴田浩二は事情も知らずに襲撃された為、田岡一雄と面会し釈明を求めて長く語り合った。話し合いの末二人は和解し、その後田岡は鶴田を支えていく事となった。
出典:wikipedia
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