日本三大大仏(にほんさんだいだいぶつ)は、日本にある大仏の中から代表的な3尊を選んだものである。うち2尊は奈良県奈良市の東大寺にある奈良の大仏と神奈川県鎌倉市の高徳院にある鎌倉大仏が挙げられる。残る1尊は時代とともに変遷しており、戦後以降は富山県高岡市の大佛寺にある高岡大仏や岐阜県岐阜市の正法寺にある岐阜大仏などが挙げられることがある。日本三大仏とも。三大大仏の変遷は、京都府京都市の方広寺にあった京の大仏が3尊目に挙げられた江戸時代、兵庫県神戸市の能福寺にあった兵庫大仏が3尊目に挙げられた戦前、3尊目の定説はない戦後以降に大きく分けられる。奈良の大仏と鎌倉大仏は江戸時代以前から存在するが、当時三大大仏の概念があったという話は伝わっていない。初めて三大大仏の概念が大衆に普及した形で現れることを史実として確かめられるのは江戸時代に入ってからだが、豊臣秀吉によって造営された京の大仏が完成した江戸時代初期には同様の概念が既にあったと考えられる。豊臣秀吉による京の大仏は慶長元年7月13日(1596年9月5日)の慶長伏見地震によって開眼法要前に倒壊し、遺志を継いだ豊臣秀頼による2代目の京の大仏は、造営中の事故で溶解した。江戸時代の京の人々に長く親しまれることになる京の大仏は改めて造営された3代目のものである。しかし、3代目の京の大仏も寛文2年5月1日(1662年6月16日)の近江・山城地震によって損壊、解体され、銅は溶かされて貨幣(寛永通宝)に変えられた。新しく造営されたのは木造の大仏であったが、寛政10年(1798年)に落雷によって大仏殿もろとも焼失。その後天保年間に再建されるまでの間、京の大仏は姿を消した。なお、再建された大仏は非常に規模が小さいものであり、三大大仏に挙げられるようなものではなくなっていた。この大仏も昭和時代中期に火災によって焼失している。京の大仏が焼失したあと3尊目に挙げられたのは明治24年(1891年)に造営された兵庫大仏であった。その規模はかつての京の大仏には及ばないが、長らく空いていた3尊目の座を埋めるには十分であった。しかし、兵庫大仏は太平洋戦争中の昭和19年(1944年)に出された金属類回収令によって供出される。その後兵庫大仏は平成3年(1991年)になってようやく再建されたが、歴史の浅い2代目の兵庫大仏が三大大仏に挙げられるかどうかは異論がある。兵庫大仏が供出された昭和時代中期以降、三大大仏の3尊目に富山県高岡市の大佛寺にある高岡大仏や岐阜県岐阜市の正法寺にある岐阜大仏などが挙げられることがあるが、現状定説はない。岩波書店の『広辞苑』は「三大仏」の項に以下の2説を併記している。
出典:wikipedia
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