服部 正就(はっとり まさなり、永禄8年(1565年) - 慶長20年5月7日(1615年6月3日)?)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。通称は半蔵(はんぞう)、あるいは源左衛門で、一般に服部半蔵の名で知られている服部正成の長男。正室は松平定勝(久松松平氏)の長女松尾、子は服部正幸、服部正辰。官位は石見守。父の死により、服部家の家督、服部半蔵の名と、伊賀同心200人の支配を引継いだ。しかし、正就は、徳川家から指揮権を預けられたに過ぎない配下の伊賀同心を、さながら自分の家来であるかのように扱った。そのため伊賀同心は反発し、慶長10年(1605年)12月、四谷長善寺(笹寺)に籠って正就の解任と与力への昇格を要求する騒ぎに至った。このため、正就は役を解かれた。正就は逆恨みし、伊賀同心の首謀者10名に死罪を要望。そのうち、逃亡した2名中1名を探し出して切り捨てたが、別人である事が分かり、完全に職を失うこととなった。そして正就は、妻の父である伏見藩の松平定勝の下に召し預けられた。その後、名誉挽回を狙い、松平忠輝の軍に属して大坂の陣に参加するも、行方不明となる(『寛政重修諸家譜』は天王寺口で討ち死にとする)。弟の服部正重が服部半蔵を襲名するが、岳父である大久保長安の大久保長安事件、またその後の不祥事により失脚。数藩を渡った後、桑名藩主・松平定綱(定勝の子)に召し抱えられて、桑名藩で服部半蔵家は存続する(大服部家)。一方、正就の妻は桑名藩主松平定綱の姉である事から、その子・正辰も桑名藩に仕えている。血統から藩主一族の扱いを受け、服部半蔵家(大服部家)以上に優遇されている(小服部家)。元・伊賀同心支配役(一般的には、伊賀忍者の頭領として知られる)が行方不明になった事から異説も生まれている。等の説がある。しかし、大きな合戦で戦死した武将の遺骸が行方不明になるのは珍しい事ではなく(例えば関ヶ原の戦いでの島清興や、同じ大阪の陣での豊臣方の明石全登)、不審というにはやや弱い。
出典:wikipedia
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