LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

春日野八千代

春日野 八千代(かすがの やちよ、1915年(大正4年)11月12日 - 2012年(平成24年)8月29日)は、宝塚歌劇団・専科に所属した男役。劇団名誉理事も務めた。元星組・雪組主演男役クラス。元雪組組長。本名、石井 吉子(いしい よしこ)。愛称、ヨッちゃん。兵庫県神戸市出身。芸名の「春日野」は琵琶歌の歌詞の一節から、「八千代」は「君が代」から取り命名。戦前、戦中、戦後にかけてさまざまな作品を残し、端整な美貌から「白薔薇のプリンス」「永遠の二枚目」の異名を取るなど、人気男役スターとして一世を風靡した伝説の二枚目男役。亡くなるまで、宝塚歌劇団の現役生徒(団員)であり続け、宝塚歌劇団の歴史上で最年長の生徒であった。1928年(昭和3年)宝塚音楽歌劇学校(当時、音楽学校と歌劇團は一体である)に入学、翌年の1929年(昭和4年)に「春のをどり」で初舞台。入団時の成績は51人中37番。宝塚歌劇団18期生。同期生には葦原邦子、冨士野高嶺(花柳祿春)ら、一期下には神代錦、園井恵子、桜緋紗子らがいる。入団当初娘役だったが身長(当時の日本人女性としては長身である)の問題などがあり早くに男役に転向した。月組、ダンス専科、月組を経て、1933年(昭和8年)に誕生した星組に移動。雪組、花組、雪組を経て、1940年(昭和15年)雪組副組長、1945年(昭和20年)雪組組長、1949年(昭和24年)歌劇団理事に就任し、天津乙女と共に「宝塚の至宝」と呼ばれる。1950年(昭和25年)より演劇専科に所属。歌劇団史上、珍しい全組在籍経験者でもある(4組体制時代)。相手役を演じた娘役としては、糸井しだれ、深緑夏代、月丘夢路、浅茅しのぶ、朝倉道子、新珠三千代、八千草薫、有馬稲子、鳳八千代、浜木綿子、扇千景、加茂さくら、梓真弓、上原まり、松本悠里等が挙げられるが、特に、乙羽信子とのコンビはゴールデンコンビと呼ばれる。淡島千景とは、淡島の現役生徒時代には、共演する機会がなかったが、1997年(平成9年)に「アデュー東京宝塚劇場」で初の共演を果たしている。男役としても活躍した、故里明美、明石照子、寿美花代、淀かほる、那智わたる等も女役として相手役を務めている。主演作品は多数あるが、1951年(昭和26年)に初演の「虞美人」の項羽と1952年(昭和27年)に初演の「源氏物語」の光源氏が最大の当たり役として挙げられる。なお、「源氏物語」の光源氏に対し、伊東深水は「最も源氏らしい源氏」、花柳章太郎は「春日野源氏」、長谷川一夫は「ヨッチャンの源氏には負けた」とそれぞれ評した。1956年(昭和31年)「ローサ・フラメンカ」、天覧公演となった1958年(昭和33年)「光明皇后」を初めとして演出も手がける。しかし、いろいろな面で演出を職業とすることにはネックがあり諦めたと、後日、本人が語っている。1939年(昭和14年)アメリカ公演、1966年(昭和41年)第4回ハワイ公演に参加するとともに、1961年(昭和36年)にはヨーロッパ演劇視察のため渡欧している。外部出演も多く、長谷川一夫、二代目尾上松緑、山田五十鈴らと共演しているが、女役が精神的に重荷であるため、1981年(昭和56年)以降は一切断っている。また、「花柳舞踊研究会」、「三世花柳壽輔襲名披露」、名古屋をどりなど日本舞踊の舞台にも出演している。1964年(昭和39年)兵庫県文化賞を受賞。1979年(昭和54年)紫綬褒章を受章。1984年(昭和59年)宝塚市文化功労賞を受賞。1986年(昭和61年)勲四等宝冠章を受勲。1999年(平成11年)宝塚市名誉市民に。2006年(平成18年)兵庫県高齢者特別賞を受賞。晩年まで祝典公演への特別出演と「宝塚舞踊会」を活動の中心としており、近年の宝塚舞踊会では、四世花柳壽輔(五世花柳芳次郎)振付による新作舞踊が披露されることが多かった。2004年(平成16年)5月2日の「飛翔無限」東京宝塚劇場公演千秋楽以降、体調を崩して舞台からは遠ざかっていたが、2006年(平成18年)10月20日に宝塚大劇場で行なわれた「第47回宝塚舞踊会」で約2年5ヶ月振りに舞台復帰し、大和楽「なみだ生島」を踊った。2007年(平成19年)は1月25日に宝塚大劇場で行われた「小林一三没後50年追悼スペシャル『清く正しく美しく』-その教え護り続けて-」に出演、10月19日には、宝塚大劇場で行われた「第48回宝塚舞踊会」に前年に引き続いて出演し、長唄「振袖菊」を踊った。2008年(平成20年)は10月24日に宝塚大劇場で行われた「第49回宝塚舞踊会」に出演し、自身のファンでありかつて宝塚舞踊会においても共演した三世花柳壽輔を追悼して清元「浜行平」を踊った。2009年(平成21年)4月、1929年(昭和4年)4月の初舞台から数えて、舞台生活80周年を迎えた。同年6月15日、宝塚大劇場で行われた『宝塚歌劇95周年記念・「歌劇」通巻1000号記念スペシャル 百年への道』のトークコーナーにスペシャルゲストで出演した。2012年(平成24年)8月29日、肺炎により96歳で大往生した。9月26日に宝塚市の宝塚バウホールにおいて春日野の歌劇団葬が営まれてファンや卒業生など約1000人が参列した。宝塚歌劇団が在籍中の生徒に対して歌劇団葬を執り行ったのは、1958年(昭和33年)に宝塚大劇場で行われた公演に出演中、着用していた衣装ドレスの裾がせりの駆動部分に巻き込まれて死亡した香月弘美と、1980年(昭和55年)に逝去した天津乙女に続いて3人目である。現代に続く宝塚二枚目男役の原点の一つを創り、男役を「藝」として確立させた存在であり、宝塚歌劇の長き歴史における最大のスター、そして最大の精神的主柱といえる。女性的な柔らかで品格のある顔立ちに、毅然・凛とした立ち姿、そして優男から男臭い熱血漢まで表現しかつハズレがない卓抜した演技力があり、演技以外では日舞(名取名:花柳祿八千代)、ダンスに秀でた男役でもあった。芸名の「春日野八千代」は、春日野の父が五つほど考えた中から、引田一郎(後の理事長)が選んだという(春日野の父は「敷島道子」がよいと言っていたが、春日野は「そんな煙草みたいな名前は厭だナ」と思っていたという)。入団当初は娘役であったが、男役志望であり、それを同期の冨士野高嶺(花柳祿春)に打ち明けたところ、「アンタが男役になったら天変地異が起こるわ」と返事をされたという。六代目尾上菊五郎は、1947年(昭和22年)の「宝塚をどり絵/ファインロマンス」日本劇場公演(戦後初の東京公演)を観た後、「あれは、うまい役者だね。日本物の若衆の時も二枚目の目をよく知っている。」と評している。英太郎は、1951年(昭和26年)公開の映画「情艶一代女」における演技が「情艶でない」と批評された際に、「色気ないとて気にするな 春日野八千代は男でござる」と名刺の裏にしたため、東宝に持参している。さらに、戦中・戦後の生徒数の激減期に雪組副組長・組長の職にあったこともあり、後輩の指導にも熱心であり、宝塚歌劇のみならず戦後の芸能界に対する、その功績は比肩するものがないほど大きい。乙羽信子は「人間的には大変いい方。しかし舞台のことは非常に厳しいのです。できないと何回でもやり直しをさせて、(私も不器用だから仕方なかったが)『あんたみたいなぶきっちょな相手役はじめてや』と怒られまして、厳しく仕込んで頂きました」と語っている(春日野は当時を振り返って、敗戦を知った時も初めて大役がついた乙羽を手取り足取り教えることで頭が一杯だったと語っている)。唐十郎は、1969年に春日野を主人公とした戯曲『少女仮面』を早稲田小劇場(鈴木忠志)のための書き下ろし、翌年に第15回岸田國士戯曲賞を受賞している。高木史朗は、1979年(昭和54年)の紫綬褒章受章パーティにおいて「ヨッチャンが宝塚を辞めずに頑張ったからこそ、この宝塚の伝統が続いた。」と挨拶している。山田五十鈴はその生前に春日野と外部出演時に共演した際、女役を演じる春日野に対し「女形的な色気のある芝居がうらやましい」と語っている。四世花柳壽輔は対談で「春日野さんは素材として面白いんですよ。なかなか今の方ではここまでの形ができないんです。芸に奥行きがある。引き出しも多い。身体を動かすだけではない深さが出るのです。少しだけの動きでも、型に忠実にこころをこめて踊られるから。」と語っている。春日野自身は、晩年まで「宝塚歌劇団は時代に呼応した不死鳥であり続けてほしい」と願い、「品格と舞台の上での行儀の良さと謙虚さ、この3つの事だけは、宝塚の生徒達にはどんなことがあっても守り続けて行ってほしい」と思っていた。晩年は、現役生徒・劇団関係者のみならずファンからも「春日野先生」「よっちゃん先生」などと呼ばれ敬愛されていた。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。