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天城 (赤城型空母)

天城(あまぎ)は、日本海軍の未成航空母艦。本艦は八八艦隊計画で建造された天城型巡洋戦艦のネームシップ(1番艦)である。1922年(大正11年)2月に締結されたワシントン海軍軍縮条約にともない、2番艦「赤城」と共に巡洋戦艦から航空母艦に改造することを予定していた。だが1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により大破、修理不能と判定され廃艦となった。天城型巡洋戦艦2番艦「赤城」はそのまま巡洋戦艦から空母に改造されたが、本艦の代艦として加賀型戦艦1番艦「加賀」が空母に改造された。八八艦隊計画の前段階である八四艦隊完成案で、巡洋戦艦の1隻(第四号巡洋戦艦)として計画された。八四艦隊完成案の予算は1917年(大正6年)7月20日に公布、本艦1隻の予算は24,691,480円と説明されている。1919年(大正8年)7月17日、今年度に着手すべき巡洋戦艦2隻のうち1番艦に「天城」、2番艦「赤城」の艦名が与えられる。同日附で長良型軽巡洋艦3隻(長良、五十鈴、名取)も命名され、5隻は同時に艦艇類別等級別表に加えられた。同年11月17日製造訓令、翌1920年(大正9年)12月16日(または12月6日)に横須賀海軍工廠で起工した。建造途中の1922年(大正11年)、ワシントン会議の結果ワシントン海軍軍縮条約が締結されたため廃艦が決まる。だが条約では建造途中の巡洋戦艦・戦艦を航空母艦に改装することは認められていたため、巡洋戦艦としてではなく航空母艦として完成させることが決まり、天城型2番艦(赤城)とともに航空母艦へと計画が変更された。この決定により割り当てられた排水量の大半を使ってしまったため、初代空母「翔鶴」(大正10年2月17日命名)の建造が中止された。なお巡洋戦艦としての建造は条約交渉の始まる前の1921年(大正10年)11月に中止したとする資料もある。またイギリス海軍とアメリカ海軍も日本と同様の経緯で大型巡洋艦(巡洋戦艦)を空母に改造し、グローリアス級航空母艦3隻(グローリアス、カレイジャス、フューリアス)とレキシントン級航空母艦2隻(レキシントン、サラトガ)が就役した。日本海軍は建造中止となった八八艦隊の各艦(天城型巡洋戦艦2隻《愛宕、高雄》、加賀型戦艦2隻《加賀、土佐》、紀伊型戦艦2隻《紀伊、尾張》)から資材を流用することにした。「天城」の場合は3隻(加賀、愛宕、尾張)である。本艦の空母改造工事は1923年(大正12年)1月18日に着手された。しかし、改造途中の同年9月1日に関東大震災が発生し、横須賀海軍工廠と本艦も大被害を受ける。盤木が倒れ、船台上で竜骨が脱落、船体が歪んだ。調査の結果修理による工事の再開は断念され、廃艦予定の加賀型戦艦1番艦「加賀」(当時、横須賀で繋留中)を急遽改造することになった。11月2日、「天城」の廃棄・解体が正式に決定された。11月12日、海軍省は「天城」廃艦と「加賀」の空母改造を公表し、諸外国に通達。11月17日、本艦の解体開始。11月19日、巡洋戦艦「赤城」と戦艦「加賀」の艦種変更と、空母「翔鶴」(初代)の除籍が通達される。翌1924年(大正13年)4月14日、天城型巡洋戦艦3隻(天城、愛宕、高雄)、加賀型戦艦2番艦「土佐」、紀伊型戦艦2隻(紀伊、尾張)の建造取り止めの令が通達される。同日附で6隻(土佐、紀伊、尾張、天城、高雄、愛宕)は戦艦・巡洋戦艦のそれぞれから削除・除籍された。「天城」は7月15日に解体が完了した。前述のように、本艦の代艦として、廃棄予定(標的艦および解体予定)であった戦艦「加賀」が航空母艦に改装された。1922年(大正11年)7月に「加賀」は神戸川崎造船所から横須賀に回航されて廃艦処分を待っていたが、天城損傷と廃艦の経緯をうけて1923年(大正12年)末から横須賀工廠で改造工事に取り掛かった。日本海軍は「天城」残骸の一部を再利用する意向であった。その結果、一部が横須賀海軍工廠内に浮き桟橋を作る際の鋼材として用いられた。第二次世界大戦後に海軍工廠がアメリカ海軍横須賀海軍施設(U.S. Fleet Activities Yokosuka FAC3099)となってからも「10-11号バース」として引き続き使用され、原子力空母「ジョージ・ワシントン」(CVN-73)配備に伴う港湾能力拡張工事によって2007年3月に撤去されるまで長らく使用されていた。この浮き桟橋は2014年現在もジャパン マリンユナイテッド横浜事業所磯子工場(35°23'33.6"N 139°38'11.9"E)にて引き続き使用されている。「天城」用に製造されていた各種部品や装備は、呉海軍工廠で建造中の「赤城」や、他の各艦に流用された。たとえば、当時神戸川崎造船所で建造中の給糧艦「間宮」は、搭載予定の加賀型戦艦1番艦「加賀」のボイラー(罐)が届かず、進水の見込みが立たなくなっていた。関東大震災にともなう天城廃艦により天城搭載用ボイラーが浮いたため、「間宮」に搭載することが決まった。ほかにも「天城」解体の後、横須賀海軍工廠で金剛型巡洋戦艦3番艦「榛名」の第一次改造が実施されることになり、日本海軍は天城用に製造した重油専焼缶を「榛名」に流用した。「天城」が空母に改装された後の艦名は「長鯨(ちょう-げい/ちゃう-げい)」の予定であったという。この艦名は、1922年(大正11年)2月15日に迅鯨型潜水母艦(水雷母艦)2番艦「長鯨」として使用された。当時は空母の命名規則が本格的に定まる以前であったため、水雷母艦(潜水母艦)に与えられた「長鯨」の名が空母に使用予定だったとしても不思議ではない。

出典:wikipedia

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