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佐伯城

佐伯城(さいきじょう)は、大分県佐伯市にあった日本の城である。江戸時代には佐伯藩の藩庁が置かれた。「さえき」と読むのは誤り。関ヶ原の戦いにおいて、徳川方(東軍)に与したことにより毛利高政は佐伯2万石を与えられた。しかし佐伯氏の旧居城・栂牟礼城は険阻な山城で、平時の統治には不便であったため、高政は栂牟礼城を廃して番匠川河口近くの八幡山に新たに山城を築いた。縄張は織田信長の元家臣で安土築城にあたった市田祐定、石垣は天正期姫路城の石垣施工を指揮した石垣師の羽山勘左衛門が担当した。江戸初期の火災によって、高政創建時の建物は失われたが、6代高慶のとき再建と改修が行われたが明治の破却により、再び山上の城は建物を失った。主郭部の石垣と三の丸御殿の正門が三の丸に現存する。また、三の丸御殿の一部が市内船頭町に地区集会所(住吉御殿)として移築され現存する。このほか、お浜御殿が市内城下東町の民家に移築され利用されていたが、現在城下町佐伯国木田独歩館として利用されている。三の丸御殿敷台が、佐伯市船頭町に移築され、公民館として使用され現存している。1601年(慶長6年)、豊後国日田郡日隈城より佐伯氏の居城であった栂牟礼城へ2万石で毛利高政が入封し、翌1602年(慶長7年)から1606年(慶長11年)の6年の歳月をかけて、八幡山に築かれた。1617年(元和3年)、二の丸より失火して、本丸と天守を焼失し、以後天守は上げられなかった。1637年(寛永14年)3代高尚のとき、麓に三の丸を増築し、三の丸に居館が移されて以降は、城の中心施設として利用された。山上の本丸・二の丸などは、焼失および居館の移設によって放置され荒廃が著しかったため、宝永6年(1709年)に6代高慶によって天守以外の建物が復興、修復されている。1871年(明治4年)7月に、佐伯県庁が置かれ佐伯城は廃城とされた。三の丸以外の建物はすべて払い下げ、撤去された。土地は旧藩主である毛利家に譲渡されている。1970年(昭和45年)、三の丸御殿の一部を解体、民間の建物として移築され、翌年、跡地に市立佐伯文化会館が建てられている。総石垣である。本丸を中心に、南北に長く連郭式に配し、本丸南に二の丸、西出丸、本丸北に北出丸、捨曲輪を配置している。これに3代高尚の時に麓の三の丸を加えた。3重の天守があった本丸と本丸外曲輪を中心に二重櫓5基、平櫓1基、城門7棟などが建てならべられた。本丸と二の丸は堀切で遮断され、当時は廊下橋が渡されていた。天守は、3重で本丸の北よりに建てられていた。詳細な姿は不明であるが、天守の立面を描いた図面が第二次世界大戦中に行方不明となったとされ、その写しとするものが残っている。その写しには、平面寸法を8間×7間(8間半×7間半)。1重目南北面を妻側として屋根を大入母屋とし、東西面平側屋根に千鳥破風、2重目葺きおろしの屋根東西面屋根に千鳥破風、3重目東西面を妻側として入母屋とし、南北面平側に唐破風。壁は、2重目以降下見板張り窓は突き上げ窓、3重目のみ真壁に連子窓、廻り縁高欄、破風板に飾り金具などが描かれている。櫓などの建物の仕様は、下見板張りの壁に突き上げ式の窓、本瓦葺き屋根であったと考えられているが、詳細は不明である。山上の建物については明治初期に全て撤去されているため、三の丸正門櫓門やいくつかの移築現存建築遺構に意匠が残る。また、大手門跡付近にあった役所の三府役所跡に佐伯市歴史博物館が2015年5月1日に開館し、野外展示物として敷地内に保存された三府御門(江戸後期)と毛利家御居間(明治期)を見ることができる。

出典:wikipedia

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