アッツ島の戦い(アッツとうのたたかい、Battle of Attu)は、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である。山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉砕した。太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北(玉砕)が発表された戦いであり、また第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた地上戦である。日本軍は1942年(昭和17年)6月に海軍のミッドウェー作戦の陽動作戦としてアリューシャン列島のアッツ島をキスカ島と共に攻略、占領して「熱田島」と改称した。アッツ島には6月8日、第7師団の穂積部隊(北海支隊独立歩兵第三〇一大隊と配属部隊の独立工兵一個中隊)の約1,100名が衣笠丸で上陸し、キスカ島には海軍部隊が上陸した。ところが穂積部隊はアメリカ軍がキスカ島に上陸するという情報を受け、9月18日にキスカ島に転進した。しかしアッツ島を無人にするわけにもいかず、アメリカ軍の空襲に遭いながらも、占守島を守備していた米川中佐が率いる北千島第89要塞歩兵隊の2,650名が10月30日に進出してアッツ島守備隊となり、飛行場と陣地の建設を開始した。一年のほとんどが霧か時化の気候のため、守備隊にはストレスのあまり精神を病む者が続出した。1943年になると、アメリカ軍はアッツ島への圧力を強め、時折建設中の飛行場へ空襲や艦砲射撃を加えており、アメリカ軍の上陸は間近と予想された。1943年(昭和18年)2月に山崎保代大佐が北海守備第2地区隊長に任命されアッツ島守備隊長としての着任、人員・武器弾薬・物資の増援が計画された。まず第一次増援輸送として、3月10日には特設水上機母艦君川丸、粟田丸がアッツ島に到着して輸送を成功させた。続いて第二次増援輸送として、3月27日に輸送船2隻(浅香丸、崎戸丸。山崎保代大佐同乗)と三興丸が日本海軍第五艦隊に護衛されてアッツ島に到着予定であった。しかしアッツ島沖海戦が生起し第五艦隊は撤退し、この輸送は中止された。山崎保代大佐も上陸できなかったために4月18日に「伊31」潜水艦に便乗して着任した。アメリカ軍はアッツ島への上陸作戦を5月7日とした。この時期はアッツ島周辺では一年霧があるうちでももっとも霧の多い時期であった。軍令部第一課長山本親雄大佐は「敵が五月アッツ島に上陸するとは考えていなかった。来てもまずキスカ島であろうと考えていた」と回想している。1943年5月5日、ロックウェル少将が率いる、戦艦3隻、巡洋艦6隻、護衛空母1隻、駆逐艦19隻などからなる攻略部隊、第51任務部隊がアラスカのコールド湾を出港した。編成は以下の通り。上陸部隊はA・E・ブラウン陸軍少将が指揮する陸軍第7師団1万1000名であった。アメリカ軍の作戦名は「ランドクラブ作戦 (Operation Landcrab)」という。上陸部隊は洋上で天候回復を待って、5月12日に上陸を開始した。主力は霧に紛れて北海湾(Holtz Bay)と旭湾(Massacre Bay)、さらに北部海岸に上陸し、抵抗を受けることなく海岸に橋頭堡を築くことに成功した。日本軍は上陸したアメリカ軍を程なく発見し、迎撃体制についた。また電文でアッツ島上陸を報告した。報告を受けた北海守備隊司令部は以下の電報を送った。11日当時、輸送任務のために特設水上機母艦「君川丸」が軽巡洋艦「木曾」、駆逐艦「白雲」「若葉」の護衛のもとアッツ島へ向かっていたが米軍のアッツ島上陸の報告を聞き慌てて引き返した。アメリカ軍は戦艦2隻でアッツ島を砲撃したが有効な損害を与えられなかった。地上戦は1日目は両軍とも霧に遮られ、散発的な戦闘を行っただけであった。2日目の5月13日に北海湾から上陸したアメリカ軍北部隊は周辺を一望できる芝台(Hill X)にある日本軍の陣地を霧に紛れて接近、包囲し、一個中隊に陣地を攻撃させた。日本軍はすかさず機関銃と小銃射撃でこれを撃退したが、陣地の位置が露見し、野砲と艦砲の激しい砲撃と艦上機からの銃爆撃を浴びせられ、たこつぼと塹壕だけの陣地は大きな損害を受け100名前後の戦死者が出るにいたって守備隊は芝台陣地を放棄し退却した。芝台を奪われた日本軍は西浦(West Arm)の南の舌形台(Moore Ridge)に防御の拠点を移し、高地を巡って15日まで米軍と激しい戦闘を行った。日本軍は高射砲を水平射撃してアメリカ軍を砲撃したが、精度は低かった。一方、旭湾に上陸したアメリカ軍南部隊も前進を開始した。平地の霧が晴れる一方、山上の日本軍陣地は霧に包まれたままであったという。米軍兵士の証言によると、戦艦ネバダの14インチ砲が火を噴くたび、日本兵の死骸、砲の破片、銃の断片、それに手や足が山の霧の中から転がってきたという。この部隊は虎山(Gilbert Ridge)と臥牛山に挟まれ三方を山地に囲まれた渓谷で日本軍と遭遇し、三方向からの十字砲火を受け第17連隊長アーノル大佐が戦死し混乱状態に陥った。この渓谷はアメリカ軍に「殺戮の谷」(Massacre Valley)と称されることになる。その後、北部隊と合流すべく臥牛山の日本軍陣地に一個大隊で攻撃を仕掛けたが、高地から平原を見下ろす日本軍は迫撃砲や機銃などでこれを防ぎ、アメリカ軍を海岸まで後退させた。日本海軍はキスカ島から潜水艦「伊34」「伊31」「伊35」を派遣した。「伊31」は米戦艦「ペンシルベニア」を雷撃したが命中せず、米駆逐艦の爆雷攻撃によって撃沈された。また重巡洋艦「摩耶」と駆逐艦「白雲」もアッツ島の米軍攻撃のために12日に幌筵を出撃したが霧で視界が効かず引き返した。各地で日本軍はアメリカ軍の攻撃を防いでいたが、15日にはアメリカ軍の砲爆撃によってアメリカ軍北部隊を押さえていた日本陣地が損害を受け、16日アメリカ軍はこの機を逃さずに部隊を前進させた。北部の日本軍は舌形台を放棄し、山崎部隊長は戦線を熱田(Chichagof)に後退させた。この際に守備隊は武器弾薬の補給及び一個大隊の増援の要請をおこない、揚陸地点を指定した電報を打った。同じく南部の陣地も砲爆撃を受け、これにあわせてアメリカ軍は戦車5両を突入させ一気に突破を図り、南部の日本軍は戦線縮小の命令を受け後方の陣地に転進した。18日からアメリカ軍は勢いに乗り縮小された日本軍の戦線に攻撃を加えたが、日本軍の各陣地は、将軍山(Black Mountain)や獅子山(Cold Mountain)の高地に拠って抵抗し寡兵を以てよくアメリカ軍の攻撃を撃退した。特に荒井峠(Jarmin Pass)の林中隊は一個小隊でアメリカ軍二個中隊の攻撃を防いだ。18日、大本営は「熱田奪回の可能性薄し」とアッツ島放棄を決定した。当時の参謀次長秦彦三郎中将は「陸海軍共反撃作戦を考えたが、若松只一第三部長から船を潰すから成り立たぬという意見があり、さらに海軍も尻込みしたので反撃中止になった」と回想している。21日に北方軍司令部の樋口季一郎中将に増援の派遣中止を通告した。戦史叢書には樋口氏の回想が記載されている。日本海軍はアッツ島の米軍艦隊が正規空母4~5隻からなるものと過大評価し(実際には護衛空母一隻)、21日にアッツ島救援のために内地で修理や訓練を行っていた空母三隻(瑞鶴・翔鶴・瑞鳳)、重巡洋艦三隻(最上・熊野・鈴谷)、軽巡洋艦二隻(阿賀野・大淀)、駆逐艦6隻(浜風、嵐、雪風、秋雲、夕雲、風雲)からなる艦隊が横須賀に集結した。22日には連合艦隊司令長官古賀峯一大将及び海軍甲事件で死亡した山本五十六大将の遺骨を乗せた戦艦「武蔵」と戦艦「金剛」「榛名」、空母「飛鷹」、重巡洋艦「利根」「筑摩」駆逐艦5隻(時雨、有明、初月、涼月、海風)が木更津沖に到着、駆逐艦「秋雲」によって遺骨を東京へ送った後に機動部隊と合流した。23日、札幌の北方軍司令官はアッツ島守備隊へ次のような電文を打った。これについては事実上の玉砕命令だとする指摘がある。これとは別に24日に昭和天皇からアッツ島守備隊へのお言葉(御嘉賞)が電報で伝えられ、翌日山崎部隊長は感謝の返事を送っている。一方で昭和天皇は軍部の対応を批判していたという。幌筵では20日までに第五艦隊の重巡洋艦「那智」「摩耶」を中心とする各艦艇と、陸軍の増援部隊を乗せた輸送船団が集結していた。25日に第一水雷戦隊を中心とする艦隊が敵艦隊への攻撃及び緊急輸送のため、アッツ島へ向け幌筵を出撃した。編成は以下の通り。この艦隊は27日、アッツ島沖で荒天に遭遇し、一時待機となった。アメリカ軍の砲爆撃は正確で威力が高く、21日に南部の戦線も突破され、主力は北東のかた熱田へと追い詰められることとなった。日本軍は大半の砲を失い食料はつきかけていた。兵力は1,000名前後までに減り、各地の日本軍はアメリカ軍の攻撃に対してなおも激しい抵抗を続け白兵戦となったが、28日までにほとんどの兵力が失われ陣地は壊滅した。翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎部隊長は生存者に熱田の本部前に集まるように命令した。各将兵の労を労った後に最後の電報を東京の大本営へ宛てて最後に打電した。当時のアッツ島の様子を伝える貴重な史料である辰口信夫曹長の日記もこの日が最後となっている。最後の突撃の直前、山崎部隊長はほとんどの書類を焼却したため、当時の様子を偲ばせる数少ない資料である。生き残った傷だらけの最後の日本兵300名は無線機を破壊すると夜の内に米軍の上陸地点を見下ろす台地に移動し、そこから山崎部隊長を陣頭に平地へ下る形で最後の突撃を行った。この意表を突いた突撃によってアメリカ軍は混乱に陥った。日本軍は大沼谷地(Siddens Valley)を突き進み、次々とアメリカ軍陣地を突破、戦闘司令所や野戦病院、舎営地を蹂躙しアメリカ軍曰く“生物はもちろん無生物までも破壊”した。日本軍の進撃は止まらず、遂には第7師団本部付近にまで肉薄する事態となるが、雀ヶ丘(Engineer Hill)で猛反撃を受け全滅。最後までアメリカ軍の降伏勧告を拒否して玉砕した。なおこの突撃中、山崎部隊長は終始、陣頭で指揮を執っていた事が両軍によって確認されている。米軍のある中尉は右手に軍刀、左手に国旗を持っていたという証言を残している。日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は29名で生存率は1パーセントに過ぎなかった。アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった。28日夜、日本海軍の空母機動部隊は東京湾を出撃したが、守備隊が全滅したとの報と、事前に派遣した潜水艦が敵空母を発見できなかったため翌日に作戦は中止となり29日の夕方に東京湾に帰還した。同じくアッツ島沖の第一水雷戦隊も幌筵へ引き返した。30日、大本営はアッツ島守備隊全滅を発表し、初めて「玉砕」の表現を使った。それまでフロリダ諸島の戦いなどで前線の守備隊が全滅することはあったがそのようなことが実際に国民に知らされたのはアッツ島の戦いが初めてであり、また山本五十六の戦死の発表の直後だったため、日本国民に大きな衝撃を与えた。大本営は「山崎大佐は常に勇猛沈着、難局に対処して1梯1団の増援を望まず」と報道したが、実際には上記のとおり5月16日に補給と増援の要請を行っており、虚偽の発表であった。1943年9月29日、アッツ島守備隊将兵の合同慰霊祭が、札幌市の中島公園で行われた。戦史叢書ではアッツ島の守備隊が全滅した理由として以下の理由を挙げている。当時聨合艦隊の先任参謀であった黒島亀人大佐は「聨合艦隊司令部は一致して北方における積極作戦に反対であった。それは北方は地勢的、気象的に不利であり、当時は燃料が逼迫し軍令部からも注意があった等のためである」と回想している。聨合艦隊参謀長の宇垣纏は5月13日の時点で日記に以下のように書いている。アッツ島救援作戦の中止の理由としては、空母機動部隊の航空隊がい号作戦で消耗していたこと、占領した蘭印地域の油田の操業再開や輸送に手間取ったため内地の燃料備蓄に余裕が無かったことが戦史叢書には挙げられている。特に輸送に関しては本来民需の維持に必要な輸送船をガダルカナルなどの南方戦線へ投入したため、蘭印地域から本土へ原油を輸送するための輸送船を十分に確保できなかった。この問題に関しては1942年末の時点でさらなる民間船舶の増徴及び南方戦線への投入を主張する陸軍参謀本部第1部長の田中新一少将が参謀本部第1部長室にて佐藤賢了軍務局長との乱闘事件を、翌日には首相官邸にて東條英機首相に対して罵倒事件(バカヤロー発言)を起こした結果辞任する事態になっていた。1943年5月末には山本親雄軍令部第一課長が次のように説明している。この事情により翔鶴、瑞鶴などの空母機動部隊は1943年前半はほとんど活動できなかった。海軍の作戦指導に対して陸軍では釈然としないものがあったという証言があり、陸軍参謀総長杉山元及び参謀次長は「アッツ問題に関連して海軍が協力してくれなかったと言う風ことは一切言うな」と発言している。アッツ島の喪失によってよりアメリカ本土側に近いキスカ島守備隊は取り残された形となったが、日本軍はキスカ島撤退作戦を実施し、木村昌福少将率いる救援艦隊によって脱出・撤退に成功した。アッツ守備隊玉砕の報告は5月30日に昭和天皇に伝えられた。森山康平によれば、その際に次のようなエピソードがあったとされる。昭和天皇は、上奏をした杉山元参謀総長へ「最後まで良くやった。このことをアッツ島守備隊へ伝えよ」と命令した。杉山はすかさず「守備隊は全員玉砕したため、打電しても受け手が居りません」と言った。これに対して昭和天皇は「それでも良いから電波を出してやれ」と返答した、という。こうして、無念にも散って逝った守備隊へ向けた昭和天皇の御言葉が、決して届かないであろう事を承知した上でアッツ島へ向けて打電された。しかし、5月30日の陸軍少将眞田穣一郎(当時参謀本部第一部長、のち陸軍省軍務局長)の日記には「陛下からはご下問も何もなし」と記録されている。眞田第一部長はこの上奏を起案した瀬島龍三の直属長官であり、瀬島は杉山参謀総長とともに車で宮中に赴いている。もし上記のような命令がされていたのであれば、かならず上司である眞田にも報告があったはずである。よって、上記の昭和天皇とのやり取りが創作ではないかという指摘もある。また上記のエピソードの出典は瀬島龍三の回顧録である場合が多い。1950年にアメリカ軍によってアッツ島に以下の文面が書かれた記念碑が設置された。1987年には、日本政府によりアッツ島の戦いを記念した「北太平洋戦没者の碑」が雀ヶ丘(Engineer Hill)に建てられた。
出典:wikipedia
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