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菊地直子

菊地 直子(きくち なおこ、1971年12月9日 - )は、オウム真理教の元信徒。ホーリーネームはエーネッヤカ・ダーヴァナ・パンニャッターで、教団が省庁制を採用した後は「厚生省」(分割後は「第二厚生省」)に所属した。オウム真理教事件被疑者の1人として、警察庁特別指名手配被疑者に指定され、長期間逃亡していた。埼玉県で出生。父親の仕事の都合で転居を繰り返した後に大阪市に居を定め、菊地は地元の小学校に通う。父は大学教員で大変厳格であり教育熱心な家庭であった。低学年からピアノを習い、外遊びをあまりしない子供であった。当時倍率約10倍の中学校に入学、バスケットボール部に所属。優等生タイプで成績はトップクラス、真面目でやさしく人望が厚かった。高校では陸上部に所属。3000mで11分23秒の記録を持つ。校内のマラソン大会では常に大差をつけて優勝、地区大会で上位入賞を果たしたこともある。陸上競技で痛めた足の治療のためにヨガを始めたが、そのヨガ道場がオウム真理教の施設だった。結果として、高校3年生であった1989年12月27日に家族の反対を押し切り、オウム真理教に入信。きっかけは麻原彰晃の著作に触れ、その作中で指摘される神秘体験を経験したことであった。教団でいう「エネルギーの強いタイプ」で激しいダルドリィ・シッディ(蓮華座を組んだ状態で体が激しくはねる。教団では空中浮揚の前段階とされていた)がよく起きていた。「1997年にハルマゲドンが勃発し、アメリカ合衆国軍によって日本に核爆弾が投下される瞬間、自分自身とオウムの仲間が地下シェルターのようなところに潜んでいる」という夢をよく見たが、それを予知夢と信じていた。1990年4月に大阪教育大学教育学部障害児教育課程に入学。大学には一度も通学せず、同年4月20日より家出をする。家出は2度目で、1度目は親が雇った私立探偵によって連れ戻された。5月19日にはオウム真理教に出家した。最初に配属されたのは山梨県の富士清流精舎で、1日15時間くらいの修行を1ヶ月間続ける。この頃「修行がつらい」と出家から知り合っていた男性信者にもらす。8月には修行施設としての受け入れ体勢が整った熊本県波野村へ行く。CBI(Cosmic Building Institute)とよばれる建築班のワークを行っていたが、当時は下向(在家信徒に戻ること)をするかどうか迷っていた。1990年の終わり頃には、我が子を捨てて修行に勤しむ信者の子供を教育する「子供班」に配属されるが、このワークは菊地には非常なストレスだったようで「帰りたい」としばしば口にするようになる。1991年6月には前述の男性信者が下向してしまう。1991年夏には教団に陸上部が発足。きっかけは中沢新一の『チベットのモーツァルト』の中に「風の卵をめぐって」という章があり、そこに「風の行者」というチベットの行者が紹介されていたことにもとづく。「風の行者」は、瞑想しながら神秘的な「風」(ルン)の力を伴い凄まじい速度で高原を駆け抜けていく。オウムでは「修行をすればこうした境地に到達でき、世界記録達成も可能」と考えられていた。9月には東京陸上競技協会に加盟申請するが「宗教活動されては困る」と断られたことからオウム真理教ではなく「オウム・スポーツクラブ」として加盟を認められた。陸上部は教団内では世界記録達成部とよばれていた。菊地は同年11月の河口湖マラソン(3時間23分3秒、完走75人中24位)を皮切りに1992年(平成4年)東京国際女子マラソン(途中棄権)、1994年(平成6年)大阪国際女子マラソン(3時間7分40秒、自己ベスト記録、127位)にオウム真理教陸上競技部として出場し、一部週刊誌に取り上げられた経歴を持つ。また、1995年4月19日〜4月25日の5回にわたり、山梨県上九一色村の施設から東京都八王子市のアジトに爆発物の原料となる薬品類の運搬役をしたとされ(東京都庁小包爆弾事件)、ここからマスメディアにより『走る爆弾娘』の異名を付けられる(なお、後述するとおり第1審判決においては、爆発物の原料を運んでいるという認識がなかったとして爆発物取締罰則違反罪の成立は認められていない)。地下鉄サリン事件において土谷正実が中心となったサリン製造プロジェクトに関与した殺人及び殺人未遂の容疑で警察から特別指名手配されていた。1995年6月頃には千葉県市川市のアパートに林泰男らと潜伏、同年11月までに名古屋市、京都市などを林らと共に転々とし、1996年11月には埼玉県所沢市のマンションに高橋克也、北村浩一ら他の特別手配信徒と5人で潜伏していた。1996年11月以降は足取りが途絶え、後述のように「海外逃亡説」もあったが、1997年以降は高橋と川崎市のアパートに潜伏、2007年3月からは後述する教団外の男性と共に暮らしていた。2012年6月3日、「菊地に似ている女性を見かけた」との目撃情報が警視庁に寄せられ、それを受けて警視庁捜査一課が担当刑事を相模原市緑区の潜伏先に派遣し、張り込みを行った結果、潜伏先の住宅に女性が帰宅したのを確認して任意同行を求めた。その時点では捜査員が菊地であると確信出来なかったことから、警視庁本庁への身柄送致が行われた後、捜査官が照合作業を行った結果、女性が菊地本人であると確認し、警視庁が殺人及び殺人未遂容疑で菊地に対する逮捕状を執行し、通常逮捕を行った。地下鉄サリン事件では処分保留となり、6月24日に3件のVXガス事件で殺人及び殺人未遂で再逮捕。3件のVXガス事件も処分保留となり、7月15日に東京都庁小包爆弾事件での殺人未遂と爆発物取締罰則違反容疑で再逮捕した。取調べにおいて菊地はサリン事件について「当時は何を作っていたか知らなかった」、VXガス事件について「事件にかかわったかどうかわからない」と容疑を一部否認し、東京都庁小包爆弾事件では黙秘をした。サリン事件とVXガス事件については不起訴処分となった。2012年8月6日に東京都庁小包爆弾事件における殺人未遂罪と爆発物取締罰則違反の各幇助罪で起訴された。裁判員裁判の初公判が2014年5月8日に東京地方裁判所で行われた。同年6月30日の判決公判で同裁判所は「劇物などと記された薬品を運んでおり、薬品で危険な化合物が作られることを容易に想像できた」「(教団施設への強制捜査などから)教団が追い詰められている状況にあり、教団が人の殺傷を含む活動をしようとしていると認識していた」として殺人未遂幇助罪の成立は認めたものの、「爆発物がつくられるとまでの認識はなかった」として爆発物取締罰則違反幇助罪の成立を認めず、懲役5年(求刑懲役7年)の判決を言い渡した。即日、判決を不服として東京高等裁判所に控訴した。2015年5月13日に控訴審がはじまり、改めて無罪を主張。同年11月27日、無罪判決を受け、東京拘置所から釈放された。この無罪判決については、「不合理ではないか」「いや、極めて真っ当だ」と、メディアの評価は分かれた。裁判員裁判の存在意義にまで議論が及んだが、二審判決は以下のような認定の上、無罪判決を下している。12月9日、検察側は「井上死刑囚の証言が信用できないとする根拠が十分に具体的とは言えず、裁判員裁判の判決を尊重すべきだとした最高裁の判例に反する」などとして上告した。この事件に関しては、麻原彰晃の三女の松本麗華が、自らのブログで、当時教団では近い将来に世界戦争が起こると信じられおり、そのための自給自足のために、農薬をつくる必要があり、菊池は農薬の原料を運んでいるのだろうとと考え、運んだ薬品の使用目的に関しての「認識がなかった」というのは、本当のことだと信じている。また麗華自身も強制捜査まで一連の事件にオウム真理教がかかわっているとは知らなかったと述べている。

出典:wikipedia

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