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ヘルムート・バーガー

ヘルムート・バーガー(Helmut Berger, 1944年5月29日 - )は、オーストリア、バート・イシュル出身の俳優。ルキノ・ヴィスコンティ監督作品の常連で、秘蔵っ子だったことで有名である。ヴィスコンティ亡き後は自身を「わたしはヴィスコンティの未亡人」と呼んでいた。若い頃にイギリスやイタリアに留学していたため、母国語であるドイツ語のほか、英語やイタリア語、およびフランス語に堪能である。なお「バーガー」という日本語表記は英語読みに基づく。ホテルの経営者の一人息子として生まれ、跡取りとして運営等のノウハウを身につけるためにホテルの専門学校へ行かされるが、幼い頃から女装やちょっとしたコスプレが好きで、俳優になることを夢見ていた。芸能界に入ることに大反対の父親と折り合いが悪く、10代半ばで家を飛び出し、演技の道を志してロンドンへ渡る。同地でレストランのウェイターなどのアルバイトしながら演劇学校に通い、演技や演劇の基礎を学ぶ。後に有名になってからも親交を結ぶこととなったキャット・スティーヴンスなど有名人の家はヒッピーに開放されており、そこでヒッピー文化の中でもフリーセックス、ドラッグに特に感化される。その後イタリアへ移り、ペルージャ大学に通いながら芸能活動をする。大学在学中の1964年、クラウディア・カルディナーレ主演の『熊座の淡き星影』で、たまたまトスカーナ地方のロケに来ていたヴィスコンティらの撮影現場に居合わせた。その時は単なるギャラリー(見物客)の1人に過ぎなかったヘルムートに目が止まり、寒い時期の撮影ということもあり、ヴィスコンティが助監督にマフラーを持っていかせたのがきっかけであったが、これが運命的出会いであった。その翌日の会食がきっかけで数カ月後にヴィスコンティの邸宅に呼ばれ、66年には『華やかな魔女たち』で本格的なスクリーン・デビューを果たすこととなる。無名のヘルムートにはホテルの従業員という役を与え、その後ヘルムートは徐々に仕事を増やし、67年に『ヤング・タイガー』では初主演を果たす。但しこの映画はフレッシュな新人を中心に集めただけのよくある能天気な青春コメディーであり、ヘルムートにとっては最初で最後の青春系アイドル映画の出演だった。その後数本映画やテレビ映画に出演したのち再びヴィスコンティと組んだ『地獄に堕ちた勇者ども』でスター街道を歩む。『地獄に…』の撮影時は完璧主義者で有名なヴィスコンティはヘルムートに何度もNGを出したという。特にあの女装シーンでの歌と踊りでマレーネ・ディートリヒを完璧にコピーできるように要求したという。そんな苦労が実ったのかディートリヒ本人から直々の手紙を貰ったと自叙伝の『Ich』に記されている。ヘルムート曰く今でもその大女優からの手紙はとってあるという。この映画を見たビリー・ワイルダーは「全世界の中でヘルムート・バーガー以外の女には興味がない」と評した。ヘルムートとヴィスコンティの仲は公然に知られる事となる。ヘルムート曰く、ヴィスコンティを誰よりも師として尊敬し、時に父親以上に父親的な存在であり、そして恋人でもあったという。ヴィスコンティはヘルムートに様々な文化的素養を身につけさせ、レナード・バーンスタイン、マリア・カラス、ルドルフ・ヌレエフなど多くの文化人に会わせた。一方でヘルムートを理解しようとビートルズを自宅に招いたこともあった。ヴィスコンティは嫉妬深く、ヘルムートの夜遊びを規制した。あまりの仲の深さに、特にヘルムートが姉として慕っていたロミー・シュナイダーからは“バーガー嬢”、あるいは“バーガー夫人”とからかわれた位であったという。ヴィスコンティの死後、ジャッロ映画(イタリアン・スリラー)映画などに出演するが、こういった映画と現場にはなじめなかった。しかし1970年代の映画界にはヴィスコンティのような豪奢な芸術作品を再び作る力は無くなっていた。ヘルムートにとってヴィスコンティの死は大きな痛手となっていて、アルコールに手を伸ばし、荒んだ生活を送る。1977年には自殺未遂を図っている。ヘルムート曰く「あれ程心から僕を愛してくれる人はもう二度と現れない」と泣いたという。その後拠点をアメリカにも置き、映画のみならずフランスやイタリアでテレビの仕事もするようになる。フランス・ドイツ・スイスのテレビ局、制作会社共作、クロード・シャブロルなどが監督、ジョルジュ・ドルリュー音楽のテレビのミニシリーズ『ファントマ』に主演。しばらくはアメリカとヨーロッパを行き来する生活が続くが、ヴィスコンティ時代のような映画には出なくなる一方で、新たなイメージ開拓を模索する。テレビ出演で最も米欧の話題に上ったのが、1980年代に進出したアメリカの人気テレビドラマ『ダイナスティ』のレギュラーだった。役の候補には他にアラン・ドロン、フリオ・イグレシアスがいた。当初気乗りせず断ったのだが、推薦者であり親友のウルスラ・アンドレスの説得で出演を承諾した。ヘルムートはハリウッドで旧知のジャック・ニコルソンや多くのセレブリティ、ソーシャライトの大歓迎を受けた。しかし製作側は彼の派手な夜遊びを「スキャンダルになる」と良く思わなかった。また本気で取り組んだにもかかわらず、製作スタッフと折り合いが付かずに結局降板してしまい、使いづらい俳優のレッテルを張られてしまったという。後年、この『ダイナスティ』の思い出を「泣きながらセットに入り、笑いながら銀行に行った」とあくまでも金のための仕事に過ぎなかったと自嘲している。数年後、大作『ゴッドファーザー PART III』に出演する。フランシス・フォード・コッポラはヘルムートのファンだった。通常と違い、ハゲカツラを付けての地味な老け役に挑んだ。出番が少ない上にアメリカ人スタッフ、俳優と折り合いが合わなかった。英語が下手だと言われたり、扱いのあまりの酷さに憤慨したという。しかし公開当時、この意外な配役は話題になった。1993年、『ルードウィッヒ1881』で21年ぶりにルートヴィヒ2世を演じた。ヴィスコンティ作品では描かれなかった晩年のエピソードに絞って描いたこの映画で、バーガーは実際のルートヴィヒ2世の没年齢の40歳より既に遥かに年上であったが円熟味と存在感のある演技を見せた。1994年11月19日、イタリア人の元プレイメイトでライターのフランチェスカ・グイダートと結婚した。のちに別居したが、離婚はしていない。1998年に自叙伝『Ich』(僕)を発表する。生い立ちから親しい友人の話、ヴィスコンティはもちろん、人生を時には皮肉っぽく、そして過去を赤裸々に語ったことで本国では話題になった。1990年代後半以降はは出身地オーストリアや隣国ドイツで頻繁にテレビのトーク番組にゲスト出演していて、赤裸々なトークと毒舌ぶりで知られている。2007年、ベルリン国際映画祭でこれまでの功績に対し、特別テディー賞を受賞。2009年に母親が亡くなるまでの約10年間を主に故郷のザルツブルクで過ごし、殆ど俳優業からは退いていた。2010年6月にイタリアのメディアのインタビューでヘルムートはこう答えている。「私は80本の映画に出演して、今は1ヶ月200ユーロ(約2万2千円)の年金をイタリアから貰ってるよ。」と告白した。彼曰くヴィスコンティの遺産は全て使い果たしたそう。友人の家を転々とする毎日を送っていたという。2010年代以降、再び国際的に上映される機会の多いヨーロッパ映画への出演を活発化させ、2014年の『SAINT LAURENT/サンローラン』では、晩年のイヴ・サン=ローランを演じ、話題となった。2015年にはこの作品の出演への反響から、1998年にドイツ語圏で出版された自伝がフランス語に訳され、サン=ローランの伝記映画撮影に関する箇所を追加し、"Helmut Berger, autoportrait"のタイトルで出版された。2015年にはバーガーの日常生活を赤裸々に描写したドキュメンタリー映画『俳優、ヘルムート・バーガー』が製作された。1985年に1度だけ来日したことがある。当時発足したばかりの東京国際映画祭に招かれての来日であり、その時に小森和子と対面した。小森はヘルムートの印象を、とても紳士的だったと語っている。その時のメインイベントの一つとして6月5日・6日に東京都体育館にて「世界映画人チャリティーテニストーナメント」が開催され、マリア・シュナイダーらと共に出場した。

出典:wikipedia

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