


日本炭鉱労働組合(にほんたんこうろうどうくみあい)は、石炭産出に従事する炭鉱労働者が結集して形成された日本の産業別労働組合であった。1950年に設立され、炭労(たんろう)の略称でも知られたが、2004年に解散した。19世紀末、明治時代から始まった日本の産業革命に伴い、石炭需要は激増した。北海道や九州を中心とした各地の炭田では、三井・三菱などの財閥系の大規模なものから主に独立系企業が運営する零細なものまで数多くの炭鉱(炭坑)が開発されたが、その労働条件は厳しく、子どもも含めて長時間労働が恒常化していた (1921年時点で、採炭夫には、常一番制 (12時間または10時間)、昼夜二交替制 (12時間または10時間)、三交代八時間制 (三池、相知、夕張、入山等のみ)があった。ただし、その内4時間が移動時間や食事や函待ちや休憩時間であり、実働時間は平均六時間前後とされる。)褌のみで何の安全装備もない男性労働者(炭坑夫)に加え、ほぼそれに近い半裸体で坑内労働を行う女性(多くは労働者一家の妻とされる)もおり、炭鉱事故による犠牲者が後を絶たなかった。そのため、共済組織が生まれていた。労働条件の改善を求める声は強く、1919~1920年頃に鉱業界が黄金時代を迎えて就職売り手市場となると、各鉱山に協調機関が設立され、女子の坑内就労禁止(多くは選炭婦としての坑外作業所労働へ配置転換)など労働条件の改善が図られた。その後、大恐慌が起き、共産党事件が起こると、労働者の素行調査が強化され、ブラックリストの共有を行い、過激な労働組合に所属する労働者は締め出されることとなった。大日本帝国憲法では労働権が規定されず、政府は労働組合法も制定しなかったため、。また、第二次世界大戦が激化し、炭坑夫が軍隊からの召集を受けると、その労働力の穴埋めとして、当時は日本の植民地だった朝鮮半島や、満州国の建国などで日本の勢力範囲が広がっていた中国などから多くの労働者が徴用され、日本国内の炭坑に送られた。その多くは強制連行だったともされるこれらの労働者は、日本人よりも更に厳しい労働・生活環境に置かれた。社長に対する社長徴用も実施され、労使双方が徴用されるという状態になった。1945年、日本が第二次世界大戦で敗北すると、全国の炭鉱の様相は一変した。朝鮮人・中国人労働者は日本人経営者との優劣関係が逆転し、早期の帰国実現や生活環境の改善を目指して強力な闘争を開始した。また、日本人労働者も戦中の抑圧的な体制から解放され、生活防衛や職場環境の改善を目指した要求を次々と提起した。各地の炭鉱で自発的に起こった労働運動は、やがて連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による日本の民主化政策の下、日本社会党や日本共産党等の革新政党の支援を受けて組織化され、多くの組合員を獲得した。1947年には社会党首班の片山哲内閣が成立し、時限的に炭鉱国家管理を定めた臨時石炭鉱業管理法が成立したが、片山内閣はこの強力な実施を求める炭鉱の各労働組合、およびその支持を受ける党内左派と、法案の内容は社会主義色が強過ぎるとして頑強に抵抗する連立与党の民主党との狭間に立たされ、政権運営に苦慮した。一方、炭鉱での労働運動としては、1947年1月に炭鉱労働組合全国協議会(炭協)が結成されていたが、上部組織の全日本産業別労働組合会議(産別会議)を主導する共産党を嫌って「民主化運動」を唱えた右派系(社会党系)の組合が離脱し、同年末には速くも民主化同盟(民同)系の炭鉱労働組合協議会(炭労=当時)と産同系の全日本石炭労働組合(全石炭)が並立した。しかし、賃上げ闘争などで各団体は共通の利害を持っていたため、1949年に全石炭は、もう一つの分裂団体である炭鉱協とともに炭労への合流を決定した。1950年、すなわち吉田茂内閣により炭鉱国家管理が終了した年、炭鉱労働組合協議会が改組されて、統一された産業別中央労働組合として日本炭鉱労働組合(炭労)が成立した。当時の組合員数は約29万人とされ、国鉄労働組合(国労)等と並んで日本労働組合総評議会(総評)の中核組合となった。炭労はレッドパージなどで共産党との関係を絶ったが、占領軍の思惑からは外れ、その過酷な労働条件の改善の必要性や日本のエネルギー産業を支えるという自負から強力な闘争方針を立て続け、岡田利春などの社会党左派(左派社会党)を支えた。1952年には、日本電気産業労働組合(電産)と共に賃上げ要求のストライキを実施し、63日間の長期闘争の結果、中央労働委員会(中労委)のあっせん案を受諾したが、これには予てから一山一家の意識が濃く労使協調を取る右派系の労働組合からの批判があり(当時総評議長だった)武藤武雄らの常磐地方炭鉱労働組合連合会を中心に炭労・総評から離脱、全国石炭鉱業労働組合(全炭鉱)を結成して炭鉱労組は総評系の炭労と全労会議→同盟系の全炭鉱の鼎立が長く続くことになる。1953年には福岡県大牟田市の三井三池炭鉱で三井三池争議の第1次争議が発生し、113日間のストライキにより指名解雇を撤回させる成果を挙げた。この強力な闘争は、炭労組合員の妻などが参加する「炭婦協」によっても支えられ、「地域ぐるみ闘争」の基盤を築いていた。また、九州大学教授のマルクス経済学者・思想家で、社会主義協会の中心人物でもある向坂逸郎が三井三池争議に深く関わり、炭労内部では社会主義協会系の活動家が多く生まれた。1960年、三井三池争議の第2次争議が発生した。これはエネルギー革命で日本の基幹エネルギーが石炭から石油への移行する中、存続には経営の合理化が必要とした経営企業の三井鉱山が1959年に4580人の人員削減案を提示し、次いで12月に1278人の指名解雇を強行した事に対し、指名解雇は不当で、合理化は安全性の低下に直結するとした炭労が解雇の撤回を求めて全面ストライキに突入した事件である。これは同時期の安保闘争と連動しており、三井三池争議は会社側を支援する財界団体と組織の総力を挙げて支援した総評による「総資本対総労働の対決」と呼ばれたが、300日を超える長期闘争は、経営側と妥協した一部組合員の(全炭鉱系の)第二組合の結成を皮切りに事態は炭労に不利となり、中労委のあっせん案で指名解雇が事実上認められた事で炭労は敗北した。この結果、炭労はストライキ中の組合員への生活支援や指名解雇者への支援などで莫大な負担を強いられ、総評内部での発言力は大きく低下した。1963年11月9日、この三井三池炭鉱で大規模な爆発事故が発生し、戦後最悪となる458人の犠牲者を出した。救出された労働者も多くが一酸化炭素中毒となり、認定患者となった839人の中には回復不能の脳機能障害など、日常生活に重大な支障を残す者も現れた。これは、経営側主導の合理化が炭鉱の安全性を損ねるという炭労の主張が現実化した事故でもあったが、自らもこの事故で多くの組合員を失った炭労は勢力を回復できず、衰退への道を早めた。石炭から石油へのエネルギー革命の動きに対して炭労も手を拱いている訳ではなく、1961年から始まった石炭政策転換闘争など石炭産業と炭鉱労働者の生活維持を求める動きを強めた。三井三池事故の発生した1963年に、日本政府は新たな石炭政策を提示した。これは採算性の見込める少数の大規模炭坑のみに資金を集中させ、その他多数の炭鉱については閉山計画を促進する「スクラップ・アンド・ビルド」を基本としていた。既に石炭産業の斜陽化は誰の目にも明らかで、炭労も以前なら可能だった反閉山闘争を行う能力を喪失していた。閉山通告を受けた炭労傘下の各組合は再就職や転居などでの配慮を求める条件闘争に移行せざるを得なかった。非常に希な条件に恵まれ、経営会社の常磐炭礦が旧産炭地域で開始した新事業の常磐ハワイアンセンターに多くの炭鉱労働者が再就職した常磐炭鉱ですら、ハワイアンセンターの労組は炭労・全炭鉱何れにも加盟しなかった。そのため、加盟組合員数は急減していった。これは1973年の第1次オイルショックでも変わらなかった。1981年の北炭夕張新炭鉱ガス突出事故は、各炭鉱に大きなダメージを与えた。最新式の保安装置を備えていたはずの「ビルド鉱」である夕張炭鉱で、政府の意向を受けた北海道炭礦汽船(北炭)による無理な産炭が強行され、組織が弱体化した炭労の抵抗を押し切る形で過度の合理化が進められていた事が明るみに出たのである。坑内火災鎮火を理由に、安否不明者の救出を待たずに坑内注水を実行した策も衝撃的だった。この事故では93人の死者を出し、さらに1984年の三井三池炭鉱有明抗坑内火災(死者83人)や1985年の三菱南大夕張炭鉱ガス爆発事故(死者62人)も続き、日本での石炭事業はもはや成り立たないという認識が広く定着した。炭労は倒産した北炭に代わる新会社での夕張新鉱の操業再開を求めていたが、遂に叶わず、炭労は閉山提案に同意した。これは炭労の消滅がもう避けられない事も意味していた。1980年代以降、ビルド鉱の炭鉱も続々と閉山し、組合も解散していった。1989年には総評が日本労働組合総連合会(連合)に合流し、炭労もその加盟組合(構成組織)となったが、もはや歴史の流れを押しとどめる事はできなかった。組合員は離職を余儀なくされ、ヤマを去った人々の中には自殺者も出た。2002年、政府が最後の国内炭保護政策として定めていた、電力会社による優先購入措置が期限切れを迎えるのを前に、日本国内最後の炭鉱となった北海道釧路市の太平洋炭礦が商業採炭を終えた。太平洋炭礦は釧路コールマインとして再生することになったが、再雇用されたのは旧太平洋炭礦社員の半分に満たず、新会社の組合は炭労に加盟しないことになった。2004年10月31日、太平洋炭礦労働組合は解散を決め、遂に炭労は最後の加盟組合を失った。同年11月19日、炭労は札幌市内で解散大会を行い、54年間の歴史に幕を下ろした。以下に、1955年当時の大手炭鉱各社の労務状況(※男性のみ)を示す。度重なる労働争議の結果、炭鉱各社の給与水準は他業種と比べても相当高い水準にまで上昇し、一部の会社では鉱員ですら他業種の職員と引けをとらない水準にまで上昇していた。また、太平洋炭礦や宇部興産、三井鉱山の職員の給与水準は八幡製鉄や日本興業銀行等を凌ぎ、当時好況に沸いていた繊維産業に匹敵するほどの高水準であった。(参考:他業種主要企業の労務状況 ※男性のみ)
出典:wikipedia
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