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向山氏

向山氏(むこうやまし/むかいやまし)は、甲斐国に起こり八代郡向山郷(現・山梨県甲府市上向山・下向山)を地盤とした豪族。神姓を名乗る諏訪大社の氏人である神党のひとつ。その祖先は甲斐の大開祖とも言われる。八代庄は金沢流北条氏の所領となるが、鎌倉時代末期の金沢貞顕・貞将期には被官化した一族の存在が確認されている。向山敦利(刑部左衛門、「敦」は諏訪大祝家の通字か)や右筆の向山景定(左衛門尉)らがいる。敦利は貞顕や貞将が六波羅探題南方として在京中に鎌倉との使節や検断頭人などを務めている重臣で(向山敦利書状、金沢文庫)、ほか、貞顕・貞将期の在京被官では御内人と考えられている五郎入道や神兵衛入道らがいる。鎌倉北条氏の滅亡とともに向山氏も衰退したと考えられているが、戦国時代には甲斐守護・武田信虎・晴信(信玄)に仕えた三河守虎継や民部左衛門尉家安、郡内領主小山田氏とともに相模国後北条氏との取次を務めた向山又七郎らがいる。向山又七郎は信玄の側近で、相模国の後北条氏の分限帳である『小田原衆所領役帳』に小山田信有(弥三郎)や飯富左京亮らとともに「他国衆」として記載されている点が注目されている。高野山成慶院『武田家過去帳』によれば向山又七郎は天文21年(1552年)以前に死去しているが、天文24年3月には向山源五左衛門尉が後北条氏に嫁いだ信玄息女の黄梅院付きの家臣として活動している。江戸時代にも子孫家が存在する。甲府市下向山の佐久神社にその由来の史料が初見されるが、15世紀中ごろから向山出雲守昌保の活動が各種史料に散見されるようになった。また向山丹後守盛吉(渡辺氏から改姓)など、戦国期には武田氏に従い高遠城(現・長野県伊那市)に拠った。武田氏の没落後は甲斐を領した徳川家康や家康に従った保科氏に仕え、武家として存続する。向山丹後守子孫は江戸旗本、向山出雲守子孫は会津藩や渡辺氏に仕え野本藩や伯太藩(現・大阪府和泉市)重臣として明治維新を迎えた。

出典:wikipedia

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