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八木義徳

八木 義徳(やぎ よしのり、1911年(明治44年)10月21日 - 1999年(平成年)11月9日)は、日本の小説家。日本芸術院会員。北海道胆振国室蘭郡室蘭町大字札幌通4丁目(現在の室蘭市中央町1丁目)に、父「田中好治」、母「八木セイ」の次男として生まれる。父の好山梨県東山梨郡春日居村(現・笛吹市春日居町)の出身で、東京帝国大学医科大学を卒業し、義徳が出生した時点では町立室蘭病院を務めていた。その後、独立して室蘭市内に田中病院を開業している。一方、母のセイは青森県東津軽郡油川村(現在の青森市大字油川字大浜)出身で、北海道小樽市の海産物商の養女となるが養家が没落し、室蘭で芸妓となり田中好治と知り合った。1924年(大正13年)4月に北海道庁立室蘭中学校(現在の北海道室蘭栄高等学校)に入学し、北海道帝国大学附属水産専門部製造科(現在の北海道大学水産学部)に進学するも中退する。1933年(昭和8年)4月に第二早稲田高等学院を経て、1935年(昭和10年)4月に早稲田大学文学科仏蘭西文学専攻に入学し、1938年(昭和13年)3月に卒業。高等学院時代の1934年(昭和9年)10月に中村八朗、辻亮一、多田裕計らと同人雑誌「黙示」を創刊し、大学時代には第三次『早稲田文学』復刊に参加する。1944年、応召中に「劉広福(リュウカンフー)」で第19回芥川龍之介賞受賞(小尾十三「登攀」と同時受賞)。有島武郎とドストエフスキーに心酔し、横光利一に師事、1937年、『海豹』発表。満州理化学工業に入社する。義徳は1935年(昭和10年)10月に久保田りよと結婚し1大人が生まれるが、出征中の1945年3月10日の東京大空襲により妻と子は焼死している。義徳は1946年に復員すると兄・義弘と母のセイが住む神奈川県横浜市鶴見区馬場町に移住する兄の義弘は鶴見区小野町の日本鋼管川崎病院の医師に勤務していた経験があり、院長との交流により川崎病院に看護師として勤務する中込正子との知縁が生まれた。中込正子は山梨県中巨摩郡在家塚村(現・南アルプス市在家塚)の出身であった。義弘は中込正子と義徳を引き合わせ、1950年(昭和25年)11月18日に結婚する。義徳の作品には『母子鎮魂』(1946)、『私のソーニャ』(1948)、『摩周湖』(1971)、『風祭』(1976、翌年読売文学賞受賞)などがある。晩年、評価が高まり、1988年に、日本芸術院賞・恩賜賞。その翌年から日本芸術院会員。1990年には『八木義徳全集』全八巻(福武書店)が刊行され、菊池寛賞を受賞した。参考文献

出典:wikipedia

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