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ハーダー (SS-257)

ハーダー (USS Harder, SS-257) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦。艦名はアフリカーンス語で「ボラ」を指し、全世界に分布するタイプ種のボラから南アフリカ固有種まで、ボラ科の総称に因む。ハーダーは第二次世界大戦における最も有名な潜水艦の一隻であり、後に殊勲部隊章を受章した。ハーダーの艦長であるサミュエル・D・ディーレイ少佐(アナポリス1930年組)は「潜水艦乗りの中の潜水艦乗り "a submariner's submariner,"」として名誉勲章および海軍十字章を受章した。ハーダーはコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボートで1941年12月1日に起工、1942年8月19日にヘレン・M・シャフォースによって進水し、12月2日にディーレイ少佐の指揮下就役した。東海岸水域で訓練を実施した後真珠湾に回航され、1943年5月に到着後はここでも短期の訓練に従事した。1943年6月7日、ハーダーは最初の哨戒で日本近海に向かった。6月21日深夜から翌22日未明にかけて、ハーダーはの大王崎沖12海里の地点で潜水母艦駒橋が護衛する第7621B船団を発見する。レーダー使用による水上攻撃により魚雷を4本発射し、魚雷は海軍徴傭タンカー第三共栄丸(共栄タンカー、1,182トン)に命中して火災を発生させたが辛くも沈没は免れた。駒橋は爆雷を投下したが、ハーダーは350フィートの深度に逃れて難なく爆雷攻撃を切り抜けた。日付が6月22日から6月23日に変わるころ、14ノットで航行する第42号駆潜艇を発見し、第42号駆潜艇もまたハーダーを発見して砲戦を開始したが荒天のためすぐに打ち切られ、ハーダーは第42号駆潜艇を振り切ることに成功した。6月23日未明、ハーダーはの神子元島沖で輸送船団を発見し、大きい目標である特設運送艦相良丸(日本郵船、7,189トン)に対して魚雷を4本発射、魚雷は1本しか命中しなかったものの相良丸は航行不能となった。相良丸は護衛の駆逐艦澤風の手助けで天竜川河口掛塚灯台付近に座礁した。6月24日朝にはの三木埼87度20海里地点で第8623船団を発見し、魚雷を計7本発射して3つの命中と判断された。魚雷は輸送船木津川丸(東洋海運、1,915トン)に向かったが、回避された。6月25日午後にもの潮岬西方で3隻の輸送船団を発見し、魚雷を計7本発射。2つの爆発を確認したが、実際には輸送船名瀬丸(大阪商船、1,218トン)は雷撃を回避した。6月29日午前、ハーダーはの地点で座礁した相良丸を発見し、残った2本の魚雷を発射しようとしたが、特に利益にもならないと見て発射しなかった。こののち相良丸は、7月4日にポンパーノ ("USS Pompano, SS-181") からの更なる雷撃を受け、後日船体が折れて全損となった。同じ日の午後にはの地点で第8628B船団を発見し、最後に残った魚雷を2本発射。魚雷は輸送船とタンカーに1本ずつ命中したものと判定されたが、回避されたばかりか「機雷の爆発」と勘違いされた。7月7日にミッドウェー島に寄港。7月10日、ハーダーは33日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。8月24日、ハーダーは2回目の哨戒で日本近海に向かった。9月9日未明、ハーダーはレーダーにより横浜から函館に向かっていた輸送船団を発見。明け方にの犬吠埼東南東11キロの地点で魚雷を3本発射し、うち1本が輸送船甲陽丸(日本郵船、3,022トン)に命中した。魚雷は不発だったが命中の衝撃で船体に亀裂が走っており、被雷後半日経って沈没していった。不発だったゆえか、ハーダーの攻撃記録は当初は「与えた損害なし」と記された。攻撃直後に護衛の第3号掃海艇がハーダーから約1,100メートル離れて通過したが、ハーダーに気づいた様子はなかった。翌9月10日夜にも御蔵島沖でレーダーで目標を探知し、9月11日未明にいたっての地点で輸送船団の斜め前方に進出して魚雷を3本発射。魚雷は特設運送船陽光丸(三光汽船、1,050トン)に命中して撃沈した。9月12日にも石廊崎近海で2隻の輸送船を発見して攻撃に移ろうとしたが、直前に航空機に制圧された。翌9月13日にはの地点で護衛艦を配した2隻の輸送船を発見し、魚雷を2本発射したが命中せず、再び航空機が現れたので身を隠した。制圧は中休みをはさんで9月15日まで及び、ハーダーの電池は浮上と潜航を繰り返したことによって充電が十分にできなかったため、もう少しで電力が失われるところだった。その9月15日、ハーダーはの地点で単独航行中の掃海艇を発見し、真後ろから魚雷を2本発射したが命中しなかった。9月19日、ハーダーはの潮岬260度6.5海里の地点で駒橋が護衛する輸送船団を発見し、魚雷を3本ずつ計6本発射して輸送船加智山丸(西日本汽船、814トン)に2本命中させて撃沈した。おりしも悪天候だったため、ハーダーはその悪天候の中に逃げ込んだ。9月23日にもの大王崎沖で輸送船団を探知して正面よりの位置から魚雷を3本ずつ計6本発射し、タンカー大神丸(大岩汽船部、5,574トン)と輸送船弘和丸(北海船舶、4,520トン)に2本ずつ命中させ両船とも撃沈した。9月28日朝、ハーダーはの地点で5隻の輸送船団を発見して、最後に残った魚雷を2本発射したが命中しなかった。魚雷を使い切ったハーダーは針路を東に向けた。9月30日午後、ハーダーは推定位置の地点で漁船のようなものを発見した。一方、東経150度線での哨戒に任じていた第二監視艇隊所属の第三松成丸と第二旭丸(立石松義、164トン)もほぼ同じ頃にハーダーを発見していた。ハーダーはそのまま東に去ろうとしたが、第三松成丸が接近してきたので無視できなくなり16時21分、2隻に対して発砲。第三松成丸と第二旭丸も同時刻に撃ち返してきた。ハーダーは最初のうちは太陽を背に有利な態勢であったが、日が暮れるに従って第三松成丸と第二旭丸が次々と発煙筒を投げ込み視界が悪くなった。ハーダーは命中弾こそ与えたが攻撃は不徹底に終わり、東方に脱出した。10月8日、ハーダーは46日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。10月30日、ハーダーは3回目の哨戒でスヌーク ("USS Snook, SS-279") 、パーゴ ("USS Pargo, SS-264") とウルフパックを構成しマリアナ諸島方面に向かった。11月12日午後、ハーダーはのウラカス島近海で輸送船と「武装トローラー」を発見。魚雷を3本発射して2つの命中を確認し、観測してみると特設掃海艇第十一鶚丸(日本海洋漁業、265トン)がまさに沈もうとしている場面に遭遇した。護衛艦を始末したことでハーダーは浮上砲戦に移り、3インチ砲と20ミリ機銃の射撃を行い、輸送船も始末したと判定された。11月19日未明には、のサイパン島沖で4隻の輸送船に駆逐艦夕月と海防艦福江が護衛する第4111船団を発見し、2隻の目標に対して魚雷を6本、さらに艦尾発射管から3本の計9本発射して5つの爆発を確認する。魚雷は2隻の輸送船、鵜戸丸(日本製鐵、3,936トン)と北江丸(大連汽船、5,384トン)に命中し、鵜戸丸は沈没して第10号駆潜艇を曳航中だった北江丸は大破する。北江丸は夕月と輸送船日鉱丸(日産汽船、5,949トン)に曳航されたが上手くゆかず、いつしか夕月は日鉱丸を見失ってしまった。ハーダーは暗夜の中をレーダーを頼みに2つの目標に対して魚雷を4本発射し、日付が11月20日に変わって間もなく魚雷をもう3本発射し、2本が命中したことを確認する。1隻は間もなく沈没していったが、もう1隻は健在だろうと思われさらに魚雷を1本発射したが命中せず、相手が備砲で反撃してくる中を重ねて魚雷を3本発射したが結果はよく分からなかった。しかし、目標を全て一掃したと報告して攻撃を終えることとした。北江丸と日鉱丸の最後ははっきりしないが、一連の攻撃によって沈没した。明け方近く、ハーダーのレーダースクリーンに3隻の駆逐艦の思しき目標が探知され、最後に残った魚雷を発射してのち、針路を真珠湾に向けた。11月30日、ハーダーは31日間の行動を終えて真珠湾に帰投。その後、メア・アイランド海軍造船所に回航されてオーバーホールに入った。折から、「H.O.R.エンジン搭載艦は1隻残らず、暫時エンジンを換装するように」という合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キング大将の命令が出ており、甚だ旧式でトラブルが多く信頼性に欠けていたH.O.R.エンジンを、本来搭載されるGM社製278A16気筒エンジンに換装した。1944年2月27日、オーバーホールを終えたハーダーは真珠湾に戻ってきた。3月16日、ハーダーは4回目の哨戒でシーホース ("USS Seahorse, SS-304") とともにカロリン諸島へ向かった。ジョンストン島で補給ののち、ウォレアイ環礁近海の哨区に到着。折りしも、第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)によるパラオやその周辺の島々への攻撃が予定されていたので(パラオ大空襲)、ハーダーは僚艦とともに脱出艦船への攻撃と搭乗員救助の任務にあたることとなった。3月31日にはウォレアイ環礁への空襲の光景を見た。翌4月1日、ハーダーは前日のウォレアイ環礁攻撃で撃墜され、負傷して島の海岸で救助を待つ戦闘機パイロットの存在を知った。島には日本兵がいるとみられ、救出は一刻も争う事態であった。ハーダーは空中援護の元にウォレアイ環礁の奥深くまで艦を進め、威嚇の艦砲射撃を仕掛けたのち、志願兵で構成した救助隊がゴムボートで海岸に向かい、日本の狙撃兵からの銃火をものともせずパイロットを救助して無事艦に戻り、ハーダーは外洋に引き返していった。4月13日午後、ハーダーはグアム南南西沖を浮上航行中、日本の哨戒機に発見された。その頃、サイパン島からの輸送船団が付近を航行中であり、哨戒機は特設運送船山陽丸(大阪商船、8,360トン)の護衛をしていた駆逐艦雷に通報。雷はハーダーを制圧すべく船団を離れていった。ハーダーは哨戒機に発見された後直ちに潜航しており、やがて雷がやってきた。ハーダーはの地点で雷を800メートルの至近距離までひきつけて魚雷を4本発射。そのうちの2本が命中し雷を撃沈した。ディーレイ艦長はこの攻撃について"Expended four torpedoes and one Jap destroyer!"(4本の魚雷とジャップの駆逐艦を消費した!)と記し、この言葉はアメリカ海軍戦史に残る印象的なフレーズとして追加された。4月17日にはの地点でレーダーで輸送船と駆逐艦を探知し、魚雷を4本発射。魚雷は2本が陸軍輸送船松江丸(日本郵船、7,061トン)に命中して火災発生の末に沈没していった。4月20日朝、ハーダーは折からのスコールの中ウォレアイ環礁に舞い戻り、艦砲射撃を実施した。5月3日、ハーダーは47日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。5月26日、ハーダーは5回目の哨戒で、レッドフィン ("USS Redfin, SS-272") とともにセレベス海方面に向かった。この哨戒は、ハーダーの艦歴のうちでも最も輝かしいものとなった。6月6日夜、ハーダーはのタウィタウィとボルネオ島に挟まれセレベス海とスールー海を結ぶシブツ海峡で、特設運送船(給油)興川丸(川崎汽船、10,043トン)を護衛する駆逐艦若月および水無月をレーダーで探知する。ハーダーは浮上したまま15ノットで航行中の船団を追跡したが、月明かりによってハーダーの存在が相手に知れてしまった。水無月がハーダーを撃沈すべく艦首を向けてきたため、ハーダーは潜航して水無月に艦首を向け、水無月が1,000メートルにまで接近してきた時に魚雷3本を発射し、うち2本が水無月の艦首と艦橋直下に命中して水無月は5分以内に沈んでいった。ハーダーは第二撃として若月に対し魚雷を6本発射したが命中しなかった。6月7日早朝、ハーダーはのタウィタウィ沖で日本の飛行機を発見して潜航した。程なく、この日の対潜掃討に従事していた駆逐艦早波に出くわす。早波はハーダーの潜望鏡を発見し全速力で突撃していった。ハーダーは600メートルという至近距離まで早波を引きつけ、早波の真正面から魚雷3本を発射。うち2本が早波の中央部に命中して11時43分に早波を轟沈させた。この轟沈劇は、ハーダーが早波を発見してからわずか10分弱の出来事であり、早波乗員は士官は1人を除いて全員戦死、その他も44名しか生き残らなかった。ハーダーは徹底していない爆雷攻撃を受けたが、何も起こらなかった。ハーダーは夕刻浮上し、シブツ海峡を経由してボルネオ島の北東沖に向かった。翌6月8日夜、ハーダーはボルネオ島の一角、の地点で、諜報活動を行っていたイギリス人6名と連絡を取ることに成功し、フリーマントル出撃時から同乗していたオーストラリア軍のW・J・ジンキンス中佐を上陸させる。6月9日夕刻、ハーダーはのタウィタウィ沖でジグザグ航行中の2隻の駆逐艦がいることを確認した。ハーダーはレーダーが操作できる深度に潜航し、戦闘配置を令した。この時、対潜掃討のため駆逐艦磯風、島風、早霜と谷風が出動していた。このうち、最も近くにいた谷風がターゲットとして選定され、ハーダーはじっと観測を続けた。谷風は通常のジグザグ航行を行っていると判断され、潜望鏡深度に深度を変えた。やがて、ハーダーと谷風はT字型で交わるような態勢となり、ハーダーは900メートルの距離から魚雷を4本発射した。最初の魚雷は谷風の前を通過していったが、2番目と3番目の魚雷が谷風の艦首と艦橋真下に命中し、4本目は逸れていった。2本の魚雷が命中した谷風は、22時25分にすさまじい爆発を起こしながら轟沈した。ハーダーは2隻目の駆逐艦を攻撃すべく準備したが、逸れた4本目の魚雷が命中するかも知れないと判断され、攻撃は控えられた。沈み行く谷風から起こる爆発は水中にいたハーダーをも揺るがせ、潜望鏡の視界いっぱいに目もくらむような爆発による閃光が見え、谷風は完全に姿を消した。ハーダーはしばらくしてから浮上し、周囲を探索したが、夜のためか谷風の残骸物らしきものは見つからなかった。お約束の爆雷攻撃があった後、ハーダーはタウィタウィの南側に移動するが、6月10日未明に件のジンキンス中佐とイギリス人6名を収容することは忘れなかった。6月10日夕刻、ハーダーはのタウィタウィ南方でビアク島救援の第三次渾作戦に参加すべくタウィタウィを出撃してきた戦艦大和、武蔵以下の艦隊を発見、追跡した。ハーダーは大和、武蔵の左舷側に位置し、潜望鏡で観測していた。その時、武蔵の高角砲が数発潜望鏡めがけて発射され、また駆逐艦沖波が35ノットの高速で突進してきた。ハーダーは沖波が約1,200メートルになるまで引き寄せ、沖波の真正面から魚雷を3本発射し、爆発音を聴取して撃沈と判定したものの実際はかわされており、逆にハーダーは2時間にわたって爆雷攻撃を受けた。ハーダーは深深度まで潜航したが小さなダメージを受けた。ハーダーは深夜に浮上して艦隊発見を司令部に打電した後、ライトブイを発見。駆逐艦に打撃を与えたと判断された。6月21日に魚雷を補給すべく一度ダーウィンに立ち寄り、フロレス海方面で哨戒を実施した。7月3日、ハーダーは45日間の行動を終えてダーウィンに帰投した。この5回目の哨戒におけるハーダーの活躍ぶりは、マリアナ諸島方面の戦局に関する日本海軍の判断に大きな狂いを生じさせた。すなわち、ハーダーによる駆逐艦の連続撃沈と周辺での頻繁なアメリカ側の交信により、タウィタウィが複数の潜水艦により包囲されていると信じきった連合艦隊司令長官豊田副武大将は、小沢治三郎中将の第一機動艦隊を予定より早くタウィタウィから立ち去らせる判断を下した。予定を大幅に狂わされた小沢中将は、搭乗員の鍛錬も十分にできないままマリアナ諸島方面に進撃し、6月19日のマリアナ沖海戦を迎えることとなった。8月5日、ハーダーは6回目の哨戒でハッド ("USS Haddo, SS-255") 、ヘイク ("USS Hake, SS-256") とウルフパックを構成し南シナ海方面に向かった。3隻の艦長のうちディーレイ艦長が最先任だったので、彼がウルフパックの指揮を執った。8月21日未明、ハーダーはハッドとミンドロ島沖で会合し、レイトン ("USS Raton, SS-270") 、レイ ("USS Ray, SS-271") 、ギターロ ("USS Guitarro, SS-363") からなる別のウルフパックと合流したことを報告。このとき、ミンドロ島パルアン湾にはミ12船団が停泊しており、湾の外でウルフパックが待ち構えている状況だった。ハーダーは攻撃区域を次のように割り振った。すなわち、自身は西方、ハッドは南西方、レイとギターロは北西方に待機させた。ミ12船団は8月21日朝に出港したが、ハーダーのいた方角に向かわなかったものの大きな損害を蒙った。翌8月22日4時ごろ、ハーダーとハッドはのバターン半島の西方50キロ地点、ヒ71船団から分離して対潜掃討を行っていた海防艦日振と松輪、佐渡をレーダーで発見した。海防艦はルソン島寄りから松輪、日振が平行し、佐渡はその後ろを航行し三角形の陣形を成していた。2隻は機会をうかがいつつ追尾したが、ハッドからはやや攻撃しにくい態勢だったらしく、ハッド艦長チェスター・W・ニミッツ・ジュニア少佐(アナポリス1936年組)は、攻撃すべきかどうか判断しかねていたが、ディーレイ艦長は「(攻撃は)いけそうだ。目標は小さくない」とニミッツ艦長にはっぱをかけた。ハーダーが日振と松輪を目標に魚雷を発射し、ハッドも佐渡を目標に魚雷を3本発射。佐渡はハッドからの魚雷1本が中央部に命中して航行不能に陥り、佐渡の左右前方にいた松輪と日振にも火柱があがる。松輪の船体は前部が沈んで後部だけ浮いており、日振も後部だけ浮いて、双方とも航行不能となった。ハッドの二度目の攻撃は成功せず、三度目の攻撃で佐渡と半身の日振に向けて魚雷を3本発射し、佐渡にふたたび魚雷を命中させて、ついに佐渡を撃沈した。ハーダーも二度目の攻撃で松輪を、三度目の攻撃でハッドが仕留めそこなった日振を撃沈した。こうして海防艦群を全滅させたわけだが、当初は輸送船が混じっていると判断され、ハーダーは「駆逐艦」と「4,000トン級輸送船」を撃沈したことになっていた。夜に入ってヘイクが合流してきた。8月23日、ハーダーとハッドはルソン島沿岸を南下してきたタマ24A船団を発見した。タマ24A船団は2隻のタンカー、第二八紘丸(日本油槽船、10,022トン)と二洋丸(浅野物産、10,022トン)、駆逐艦朝風および夕凪で構成されていたが、タンカーのうち第二八紘丸は、8月22日にスペードフィッシュ ("USS Spadefish, SS-411") の雷撃で座礁し、夕凪がこれに付き添ったため、残ったのは朝風と二洋丸のみであった。ハッドが攻撃を行って朝風を撃破し、行動不能となった朝風は通りかかった機帆船の曳航で湾に座礁し、夜になって沈没した。この攻撃で魚雷が使い果たしたハッドが、魚雷補給のためウルフパックを離れることとなった。8月23日夜、ハッドはハーダーと会合してウルフパックから分離し、ミオス・ウンディ島に向かった。ハーダーはヘイクとともに任務を続行した。単船になった二洋丸はダソル湾の奥まった部分に避退した。二洋丸の救援のために、第三南遣艦隊の命でマニラから2隻の艦艇が差し向けられた。第22号海防艦と第102号哨戒艇である。2隻は8月23日18時前にマニラを出港したが、第22号海防艦は当時修理中であった。第102号哨戒艇も当時缶管の故障に悩まされており、8月23日も応急修理を実施していた。8月24日4時53分、ヘイクは潜航を開始し、その時点ではハーダーはヘイクの南4,000メートルにいた。ヘイクは2つの探信音を探知し、その方向に潜望鏡を向け2隻の艦艇を発見した。ヘイクは最初、2隻を「軽巡洋艦と駆逐艦」と判断したが、すぐ「掃海艇と駆逐艦プラ・ルアン(タイ海軍)」と訂正した。「掃海艇」が第22号海防艦で、「プラ・ルアン」が第102号哨戒艇である。ヘイクは2隻を攻撃しようとしたが、2隻がダソル湾に入ったので、いったん攻撃をあきらめ南に進路を変えた。第22号海防艦と第102号哨戒艇はダソル湾口に到着後対潜警戒を実施していたが、夜が明けてから第102号哨戒艇が二洋丸を誘導するために湾内に入っていき、第22号海防艦は湾口において単艦で警戒を続けた。6時47分、ヘイクは自己の潜望鏡の前方視野およそ600ヤードから700ヤードの位置にハーダーの潜望鏡を捉えた。地点はであった。その頃、第22号海防艦はソナーで探査中であったが、水測室から「艦橋、敵潜探知、右艦首二〇度、感度三」と報告があり、同時にその方向にハーダーの潜望鏡を発見した。ヘイクは探知されたことを察知して深深度への避退行動に移った。第22号海防艦は「戦闘爆雷戦、前進強速急ゲ」と下令しハーダーの潜望鏡に艦首を向けて速力を上げた。ハーダーは向首する第22号海防艦目がけ魚雷を3本発射。第22号海防艦は命中を覚悟したが、魚雷は右に1本、左に2本と進んできたものの、いずれも第22号海防艦をかすめ去った。第22号海防艦は7時28分ごろに潜望鏡が見えていた辺りの直上から爆雷を投射器から12個、軌条から3個投下した。やがて攻撃地点から多量の噴煙や重油、コルク片が出てきた。この時、ヘイクは4キロも西方に離れていたが、ハーダーのいるあたりで15発もの爆雷の爆発音を聴取し、一連の攻撃が終わった後、ヘイクはハーダーから何の応答も得られなかった。これが、ハーダーの最期の瞬間であった。日本側の攻撃地点はと記録されており、ヘイクが確認したハーダーの潜望鏡が最後に目撃された地点とほぼ同一であった。この一連の対潜戦闘の間、第102号哨戒艇は二洋丸を誘導し、ダソル湾を出てマニラに向けて航行を開始しており、やがて戦闘を終えた第22号海防艦が合流して二洋丸の右舷側に張り付き、3隻は8月24日夕方に無事マニラに帰投した。ハーダーは第二次世界大戦の戦功で6個の従軍星章を受章した。また、ハーダーが行った6回の哨戒は全て成功と判断された。艦名は海軍の伝統に従い、第二次世界大戦後建造されたタング級潜水艦ハーダー ("USS Harder, SS-568") に引き継がれた。また、殊勲の第22号海防艦と、二洋丸を誘導していた第102号哨戒艇は太平洋戦争を無事に生き残った。二洋丸はマニラに停泊中の9月21日、第38任務部隊の艦載機によるマニラ空襲で撃沈された。

出典:wikipedia

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