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二宮事件

二宮事件(にきゅうじけん)、あるいは二宮の変(にきゅうのへん)は、三国時代の呉における約10年間に及ぶ政治闘争の総称。孫和と孫覇の太子廃立争いであるが、その裏に江南の貴族社会的性質を見出す向きもある。両者の父親であり、呉の皇帝であった孫権が問題の解決を先延ばしにしていたことがこの事件の一般的な原因とされる。この事件の結果、呉の国力は大きく衰退することとなった。229年に皇位に付いた孫権は、皇太子として長子であり、また聡明で知られた孫登を立てた。しかし、この孫登が赤烏4年(241年)5月にわずか33歳で病死してしまう。病床にあった孫登は、遺書の中で、孫権が寵愛していた大懿皇后の子・孫和を次の太子に推し、孫権もそれに従い翌赤烏5年(242年)の正月に孫和を太子に任命した。しかし、その年の8月に異母弟の孫覇を魯王に立て、さらに孫権はこの両名をほぼ同様の待遇で接したため、群臣の間で太子廃立が行われるという予測が広まった。赤烏6年(243年)11月、19年間、丞相の任にあった顧雍が死去する。翌赤烏7年(244年)正月、呉の名将として知られる陸遜が丞相に任じられたが、荊州の統治という職務はそのままだったため、首都の建業は丞相不在という状況になった。この動きに魯王派(孫覇派)は太子廃立の工作を強め、太子派(孫和派)はこれを防ぐ工作を開始する。また孫覇は群臣の言に乗って太子廃立に自らも意欲を見せていた。群臣たちは真っ二つに割れ、孫和側には陸遜・諸葛恪・顧譚・朱拠・滕胤・朱績・丁密(丁固)・吾粲・屈晃・陳正・陳象・張純・張休・顧承・顧悌・陸胤ら、孫覇側には全琮・歩隲・孫弘・呂岱・呂拠・孫峻・全奇・呉安・孫奇・楊竺・諸葛綽らが付いた。また、宮中においても孫権の娘である孫魯班(全琮の夫人でもある)と孫和の生母である王夫人の不和が存在していたともされる。陸遜は数回にわたり孫和を擁護する上表を行ったうえ、建業に出向いて孫権を直接説得しようとした。そのため魯王派が孫権に讒言した。特に楊竺は陸遜に関する20条の疑惑事項を告発し、孫権は陸遜に対して問責の使者を何度も送った。この前後は魯王派の讒言が激しく、太子太傅の吾粲は処刑され、顧雍の孫で陸遜の甥にあたる顧譚をはじめとして張休ら太子派の重要人物が次々に左遷(もしくは流刑)された。赤烏8年(245年)2月の陸遜の死は、これらの出来事による憤死といわれる。なお、楊竺による疑惑については、陸遜の死後、子の陸抗が全て晴らしている。翌赤烏9年(246年)9月の人事改変では全琮が右大司馬、歩隲が丞相になるにおよび、魯王派が主導権を握った。しかし、翌赤烏10年(247年)の正月に全琮、5月に歩隲と両名が相次いで死亡すると再度事態は混迷化する。結局孫和派はこの機会を生かしきれず再度勢力は拮抗、此処に至り事態は完全に泥沼化する。然も当の孫権が、自分が発端の騒動にも拘らず、それに嫌気が差し、現実逃避でもする様に末子の孫亮を寵愛し出す有様であった。赤烏13年(250年)、ようやく孫権はこの政争に対する決断を下す。太子孫和は廃され(後に南陽王)、魯王孫覇は死を賜った。さらに孫覇派のうち積極的な工作を行っていた全奇・呉安・孫奇・楊竺らをことごとく誅殺した。皇太子には新たに孫亮を立てることとして幕引きをはかった。この処置に反対した孫和派の屈晃と驃騎将軍の朱拠は棒叩き100回の刑を受けたうえ、前者は郷里に帰らされ、後者は新都郡の丞に左遷され任地に赴く途中で中書令の孫弘に自害させられた。他にも、孫和の処置に反対した数十人の役人が処刑されたり、放逐された。人々は皆、是に対し心中不満を抱いた。新たに立てられた皇太子孫亮はわずか8歳であった。魏と対立状態にあった呉には強いリーダーが必要であったはずであるが、8歳(即位時は10歳)の子供にそれを期待することは(才覚以前の話であり)できるはずはなかった。そのため、太元2年(252年)に孫権が死ぬ(4月)と、権力は家臣の大将軍の諸葛恪(彼は元太子派であり、246年の人事改変でも失脚せずに残っていた。一説には孫覇派と通じていたともいわれる)、そして武衛将軍で元孫覇派であった孫峻に握られることとなった。はじめ諸葛恪が実権を握る。しかし彼は衰退した国力で魏を討つため大勝を求めた遠征(253年6月)の大失敗から失脚し、国内の不満が高まった。そして元孫覇派の孫峻は同年にクーデターで諸葛恪を誅殺(同年8月)して実権を握った序でに、諸葛恪の生前の発言(詳細は本人の項を参照)で孫和に言掛りを付けて新都郡に強制移住させ、次いで自殺命令を出し彼を自殺させた。しかし五鳳元年(254年)には元太子派の行動が活発となり、孫登の子である孫英が孫峻暗殺に失敗し自害した。五鳳3年(256年)には孫峻が急死し従兄弟である孫綝へその権勢は引き継がれる。しかしその翌年には王惇らが打倒孫綝を目指すが返り討ちにあった。太平3年(258年)、孫綝は孫亮を廃し孫休を帝位につけるが、今度は孫休が孫綝を誅殺する。このように内紛は続き、結局その間に蜀は魏に併呑されてしまったのである。二宮事件最大の影響は、この政争により呉の国力を著しく低下させたことにある。これは内紛による国の荒廃だけでなく、二宮事件の9年と、その後に続いた政変による人材の消耗も大きい。また陸遜を筆頭とする、孫権が青壮年期に自ら登用した人材をこのような内紛で浪費した事は正に無駄であり、その後の衰退に与えた影響は決して少なくない。また、およそ10年にも及ぶ政争は時間の浪費を生み出し、国力面でもともと最大勢力であった魏に利することになったのは間違いない。何よりも、魯王へ太子と同じ待遇を与える、後継者争いの「解決策」として自身が60歳のときに生まれた子である8歳の孫亮を立太子するという乱心ぶりから伺えるように、この頃の孫権は既に老耄しており明確な判断を失っていた。決定を先延ばしにし続けるだけでなく、自身への諫言には怒り繰り返される讒言は容易に信じ、有能な人物を次々に処罰し、獄死や死を賜った(孫権が死へ追いやった者の一族が、彼の蒔いた種と言うべき孫峻・孫綝によって滅ぼされることも多々あった)。また、この政治闘争は、前述したように江南豪族(貴族)の主流派と非主流派の対立も絡んでいた。もともと、江南は中央から離れていたため地方豪族の力が強い地域であった。その中で、軍事的に突出した勢力を持つ孫一門を盟主とした、いわば連合王国のような形で成立したのが呉王朝である(この傾向は東晋にも、さらには南北朝時代を通じて強く見られる)。このように複雑な政治背景を持っていた呉が、内部から真っ二つに分裂し、より複雑な派閥を形成したことにより、本来の問題とは別の次元まで政争を誘発するようになってしまった。結果として呉は国内の根底から揺らぎ、同じく政争を繰り広げながらも政治制度や統治機構そのものは維持していた魏に対して大きく水をあけられることとなる。袁紹・劉表は、それぞれ袁尚・劉琮が聡明であると考え、元々彼等に後を嗣がせようとの意思が在った。然し孫権は一度は孫和を立てながら、後に亦た孫覇を寵愛して、みすみす混乱の元を作り、自ら一族に災いを齎(もたら)した。前2者と後者は同一ではない。袁・劉の例と比較しても、孫権の愚鈍で道理に悖(もと)る処は、より酷いものである。(以下略)

出典:wikipedia

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