ハラール(アムハラ語:ሐረር、英語:Harar)はエチオピア東部の都市で、ハラリ州の州都。首都アディスアベバからは約523km離れており、エチオピア高原の東の丘の上にある(海抜1900m)。ジュゴルと呼ばれる城壁に囲まれたハラールの町には87のモスクが存在し、16世紀から19世紀前半にかけてはイスラームにおける「第4の聖地」とも考えられていた。この歴史的街並みは、「歴史的城塞都市ハラール・ジュゴル」の名で、2006年にユネスコの世界遺産に登録された。また、何世紀もの間ハラールは、エチオピア各地、アフリカの角、アラビア半島などを結ぶ交易の中心地であり、港を通じてそれ以外の世界に開かれていた。さらにハラールの名は独特のコーヒーの名前(ハラール・コーヒー)にもなっている。日本語においては「ハラル」「ハラレ」「ハーラル」とも表記されるが、「ハラール」の表記が現地の発音に近い。ハラールの住民はキリスト教徒やムスリムだが、その民族構成は多様で、アムハラ人、オロモ人、ソマリ人、グラゲ人、ティグレイ人などからなる。しかし、市内で優勢なのはこの街の先住民であるハラリ人である。彼らは自らをゲイ・ウス(Gey 'Usu,「都市の民」)と称するセム系民族で、かつてはアクスム王国の軍事的前哨拠点を出自とする人々と考えられていた。ハラリ人は民族集団を固持するよりも他の集団と混じる傾向があり、また異邦人にも好意的であったことから、今日の彼らの区分は厳格な民族集団の区分というよりも、文化的・社会的な区分に過ぎない。彼らの言語であるハラリ語は、クシュ語が支配的な地域にあって、セム系言語の点在する地域を構成するものである。筆写には、本来アラビア文字が使われたが、近年ゲエズ文字も使われるようになっている。住民たちからゲイ(Gey,「都市」の意)と呼ばれていたこの街は、史料によって異なるが7世紀から11世紀の間に建造されたようであり、アフリカの角におけるイスラームの宗教的・文化的中心地として立ち現れた。こうした背景から、ハラールは他のエチオピアの都市と異なるアラブ風の街並みを持っている。14世紀のエチオピア皇帝の年代記には、1332年に遠征を行った記録の中にハラールの名前が現れる。かつてはエチオピア帝国に臣従していたアダル・スルタン国の一部であり、治下の1520年にアダルの首都となった。その後16世紀中に、「左利きのグラン」 (Gragn the Left-handed) の異名を持つ(アフマド・グランニュ)がハラールを拠点に侵略戦争を仕掛け領土を拡大し、エチオピア帝国の存立をも脅かした。その後継である首長ヌル・イブン・ムジャヒド (Nur ibn Mujahid) は、町の周りを5つの門を持つ4mの城壁で囲んだ。「ジュゴル」と呼ばれたこの壁は現在も残り、住民にとってはハラールのシンボルとなっている。ハラールは16世紀に最盛期を迎えた。地域の文化が繁栄し、多くの詩人たちが逗留し謳い上げた。同時にコーヒー、織物業、籠細工、製本術などでも有名になった。ハラールは独立した都市国家としての形態を維持し、支配者たちは独自の貨幣も鋳造した。最古のものはイスラム暦615年(西暦1218年 - 1219年)とも読める日付が刻印されているものだが、確実に最古といえるものは西暦1789年のことになる。その後、19世紀を通じて、さらに貨幣が発行された。ハラールの町は1875年までは何とか独立を保っていたが、その年にエジプトに征服された。東アフリカにおける拠点の確立を図るエジプトはハラールに3,400人の兵士を派遣し、エジプトからハラールにサトウキビ、カボチャ、アーモンド、レモン、ブドウなどの作物がもたらされた。1875年から1885年にかけてのエジプト占領期に、ハラールは顕著な発展を遂げる。なお、この時期、詩人アルチュール・ランボーがハラールに滞在しており、彼が住んでいた家は今では記念館となっている。エジプト軍が撤退した1885年には、東洋学者・探検家のリチャード・フランシス・バートンがハラールを訪れた。エジプト軍はハラール周辺で遊牧生活を営んでいたオロモ人の攻撃に悩まされ、1880年代にエジプト国内の政情が不安定になると町から撤退した。1885年にハラールは束の間の独立を取り戻したが、わずか2年後の1887年1月6日、シェワを拠点とするメネリク2世治下のエチオピア帝国に併合された。1897年、後のエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世の父がハラールの知事に就任する。エチオピアへの併合後も都市国家時代の行政システムは機能しており、メコネンらアムハラ人の知事たちはそれを利用して統治を行っていた。メコネンはオロモ人と対立しながらも町の開発を進め、公共施設、道路の建設に力を注いだ。1902年に建設されたラス・メコネン病院は、フランス人設計家の手によるものである。メコネンの知事時代から1920年代半ばまでの間、アフリカ・アラビア半島の交易路が交差するハラールは商業の中心地として繁栄した。1906年にハラールを訪れたイタリア人エンリコ・アルベルトは土着のイスラム教徒と新住民であるキリスト教徒が共存する街の様子を記録している。その後、ハラールの商業的重要性は後退する。当初、都市間を直接結ぶことが計画されていたアディスアベバとジブチ間の鉄道が工事費縮減のため、ハラールとアワッシュ川の間で山の北側を迂回することになったためである。この結果、「新しいハラール」として新都市ディレ・ダワ () が1902年に建造された。 かつてハラールの知事を務めたハイレ・セラシエ1世が皇帝に即位した後、1930年代から町の再開発が行われる。学校、郵便局、ホテルが建設され、ハラールは商都から行政の拠点に役割を変えていく。第二次エチオピア戦争前は35,000人以上がハラールに居住していた。第二次エチオピア戦争後、ハラールはイタリアに占領されるが、町でのアムハラ人の影響力が拡大しつつあることに不安を覚えていた先住民たちはイタリアの進出を歓迎した。イタリア占領時には重要な軍事拠点とされ、軍用の建物や発電所が建設される。1977年から1978年にかけてエチオピアとソマリアの間でオガデン戦争が起きると、ハラールの住民は国外に亡命した。1991年に民族自治の精神に基づく行政区画の再編が実施され、ハラールは州と同等の権限を有する特別行政都市に指定される。1995年には、ハラール市とその周辺だけでひとつの地方行政体 ("kilil") 「ハラリ州」となった。また、ディレ・ダワからハラールへの給水パイプラインが現在建設中である。16世紀半ばにキリスト教勢力の攻撃を防ぐために町の周囲に円型の城壁が建設された。城壁の中の旧市街は複雑な発展を遂げ、362もの袋小路を持つに至った。旧市街にはフェレス・マガラ広場を中心に、110のモスクとさらに多くの寺院が立ち並んでいる。特に、メドハネ・アレム大聖堂と16世紀のジャミ・モスクなどが有名である。ハラリ人(アダル人)が19世紀に建てた家はアダル・ハウスと呼ばれ、観光名所になっている。ハラリ国立文化センターの建物は、典型的なアダル・ハウスを再現して建てられたものである。長い伝統としてハイエナへの餌付けも行われている。もともとは一年に一晩だったのだが、1960年代に観光客向けの見世物として、夜ごとに行われるようになった。土産物用の手工芸品は人気が高く、あまりの人気の高さに外部への輸出販売が禁止された。
出典:wikipedia
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