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狩勝トンネル

狩勝トンネル(かりかちトンネル)は、北海道空知郡南富良野町字落合と上川郡新得町字新得に存在する鉄道トンネルである。本項目では次の2つについて記載する。狩勝トンネル(かりかちトンネル)は、日本国有鉄道(国鉄)根室本線落合駅 - 新内駅間に存在していた、狩勝峠を越える全長954 m の鉄道トンネルである。1907年(明治40年)9月8日開通。1966年(昭和41年)に廃止され、封鎖されている。位置的には現在の国道38号狩勝峠駐車場(標高644 m)の直下を、最大標高534 m のところで貫いていた。このトンネルより新内駅側に全長124 m の新内トンネルがあった。当時の狩勝越えは、札幌方面からトンネルを抜けると十勝平野が一望でき、日本三大車窓の一つにも数えられるなど、乗客には喜ばれていた。しかし、急勾配の上にトンネル断面が小さく排煙も悪く、特に落合方面に向かう列車は、上り勾配による速度低下と力行による排煙増加の上に、熱による上昇気流や列車がシリンダー内のピストンと化すことで、大量の煤煙と蒸気が機関車にまとわり付く、蒸気機関車の乗務員にとっては、絶えず窒息の危険と隣り合わせの難所であった。この吹き返しを防ぐ(煤煙と蒸気が列車を追いかけないようにする)ため、後に、両方向のトンネル坑口に、人力操作で蛇腹状に上下する風よけの幕が設置された。旭川市から釧路市を結ぶ鉄道ルート中のトンネルとして計画された。このルートを決定したのは田辺朔郎を責任者とするチームであった。1901年(明治34年)に北海道官設鉄道によって着工され、1905年(明治38年)に官設鉄道に工事が引き継がれ、1907年(明治40年)に完成した。総工費は当時の金額で344,000円であった。完成まで足かけ7年の年月を要しているが、実際には日露戦争による中断期間も含むため、実態はわずかな期間で完成させた突貫工事そのものである。硬い岩盤と湧水に阻まれる難工事で「枕木の数ほどの犠牲者が出た」といわれ、タコ部屋労働や人柱の話も伝わる。太平洋戦争後(国鉄化前)には、結成されたばかりの労働組合が真っ先に労働状態の改善要求として、トンネルの改築と手当の増額を当局に突きつけた現場でもある(後述)。その後、トンネルの老朽化も激しくなり、漏水の凍結によるつららでの運行障害の問題もあったことから、国鉄は新しいトンネルの建設に着手。1966年(昭和41年)10月1日より、新たに開通した新狩勝トンネル(後述)に切り替え、狩勝トンネルはその使命を終えた。狩勝トンネルを巡る一連の労働争議は、1947年(昭和22年)に結成されたばかりの労働組合が、換気の悪い同トンネルの改築と、手ぬぐいの支給を経営当局に申請したことに端を発し、次いで同トンネルの手当増額要求が出されている。しかし、労使双方が慣れない中での交渉は難航し、事態は悪化、1949年(昭和24年)には職場放棄者が続出し、新得駅を通過する列車の運休や遅延が発生するに至った。やがて警察が介入し、数十人にも及ぶ逮捕者が出たことから、組合員が抗議の自殺を図るなど泥沼化。1951年(昭和26年)には、まりも号脱線事件が発生し、争議と事件の関連性を疑う警察により、多くの組合員が拘束されて事情聴取を受けるなどの事態も発生。結果的に労働争議は多くの者に遺恨を残したまま、1966年(昭和41年)にこのトンネルが廃止されるまで尾を引くこととなった。新狩勝トンネル(しんかりかちトンネル)は、北海道旅客鉄道(JR北海道)根室本線・石勝線の鉄道トンネルである。トンネル内には上落合信号場が設けられている。1966年(昭和41年)9月、根室本線落合駅 - 新得駅間の狩勝峠の勾配を緩和するための新線の一部として開通した。長さは5,790mで、落合駅および串内信号場(トマム駅)寄りの坑口は二股に分かれ、同トンネル内にある上落合信号場で両線が合流する。このトンネル完成により、狩勝トンネルを通る線は営業廃止となった。根室本線の最長トンネルであり、石勝線のトンネルとしては新登川トンネルに次いで2番目に長い。

出典:wikipedia

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