YB-35(Northrop YB-35) は、アメリカ合衆国の航空機メーカーであるノースロップ社が、1940年代にアメリカ陸軍航空隊向けに開発していたレシプロエンジン爆撃機である。制式採用はなされず、試作のみに終わり、1949年に開発中止されている。機体形状は、尾翼や目立つ胴体部がなく主翼のみで構成された全翼機であり、主翼部以外には、乗員窓及び機関部とテイルコーン程度しか突起部が無い。大型の全翼機としては、実際に飛行した世界最初の機体であった。機関は、レシプロエンジン4基を搭載し、主翼後縁に4基のプロペラを推進式に配置している。コックピットは機体先端にあり、機内には爆弾倉も設けられている。愛称はフライング・ウィング(FLYING WING)。推進機関をジェットエンジン6基に換装したYB-49も開発されたが、こちらも試作のみにとどまり、アメリカ軍は、より一般的な機体形状のコンベアB-36を戦略爆撃機として採用・実戦配備している。ただし、レーダーに捕捉されにくいという全翼機の特徴は、後にステルス機として知られるB-2 スピリット(1989年初飛行)開発の際に活用された。全翼機の発想はノースロップ社の創業者であるジャック・ノースロップが追及していたものであり、彼は1930年代を通して全翼機の製作に力を注いだ。ドイツでもホルテン兄弟が同様な構想を練っており、同じ第二次世界大戦時にホルテン Ho229が開発されていた。アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦する直前の1941年4月11日に、アメリカ陸軍航空隊は欧州戦線用に企画された10×10ボマー(10,000 lbの爆弾搭載量があり10,000マイルの航続距離を持つ爆撃機)構想をメーカーに提示した。候補のひとつとして、大きな翼だけの構造を持つ長距離爆撃機B-35を彼の会社に開発する契約を1941年11月22日に与えた。B-35は理論上では通常形式の爆撃機よりも、速度が速く搭載量も多く、そして使用する金属が少なく安く製作できるとされていた。このような長距離爆撃機を陸軍航空隊が必要としたのは、仮に欧州戦線でイギリスが敗北した場合、アメリカ本土から枢軸国側を爆撃するために、大西洋の両岸を往復飛行できる爆撃機を手に入れるためであった。また当時の迎撃戦闘機が上昇できない高高度である45,000フィート(約13,700 m)という最大上昇限界高度も設計要求に含まれていた。軍は2機目の試作機を製作するオプションを1942年1月2日に行使し、1機目は1943年11月に引き渡される計画であった。しかしながら全翼爆撃機の製作は史上初めてのため、B-35を設計するためにデータを蒐集するXB-35(試作機)の3分の1スケールの実験機N-9Mを製作するところから開始された。N-9Mは1942年12月に初飛行している。ノースロップの設計陣は1942年前半からB-35の設計を開始した。操縦席は翼に埋め込まれ、機体構造はアルコア社が開発した新型のアルミニウム合金で製作されることになった。通常の飛行機がもつ方向舵(ラダー)をもたないため、左右の翼端に、上下に割れるように開くフラップ(スプリット・フラップ)を備えていた。片方のみを作動させると左右の抗力差でヨーイング・モーメントを発生し、左右への首振り運動を制御できる。レシプロエンジンR4360(3000馬力)を4基を翼の前縁に設置され、長い延長シャフトを通じて後方の2重反転プロペラを駆動した。最大速度は時速629kmで、爆弾7.3t搭載して1万3120kmを飛行できた。機内は全翼化によって広いスペースが確保され、爆弾も機内に最大23.2tまで搭載でき、機体中央部には操縦席や航法士席、引き込み式の対空機銃座、搭乗員用の食堂、交代要員の仮眠室まで設けられた。1942年9月30日に前量産型YB-35が13機発注され、1943年6月には量産型B-35Bを200機生産する契約がなされている。しかし、XB-35は様々な技術的困難にぶつかり、開発は予定より遅れ、ノースロップに生産設備がないため実際にはマーチン社で生産することまで決まっていたが、実用化に時間が掛かること、そして当初の予想よりも速度が出ず航続距離も短いなど性能の不足が予想された。大戦終結の見込みとジェットエンジンの発展・プロペラ機の旧式化があいまって、量産計画は中止されたが、全翼機という概念自体には注目されていたため、研究目的のみのため計画は継続された。結局試作機が完成したのは1945年7月であった。なお10×10ボマー構想には他にコンベア社とボーイング社も参加していたが、コンベアのB-36が採用された。なお、ボーイング案は双胴機であったが不採用となり設計すら行われなかった。1946年6月25日、ミューロック乾湖において、XB-35の1号機が45分間の初飛行を行ったが、その後、様々な問題点が明らかになった。結局、1号機は19回、2号機はわずかに8回飛行した後、いずれも地上にとどめおかれることとなった。この間にギアボックスの不具合への対応としてプロペラが2重反転プロペラから通常のものへと換装されていたが、これによって振動が発生するとともに性能が大きく低下してしまった。また、複雑に入り組んだ排気系統の整備には困難が伴った。わずか2年間使用しただけであったエンジンには、既に金属疲労の兆候が見られた。XB-35は2機、YB-35は13機生産されている。YB-35は1948年5月28日に初飛行した。しかし、振動問題等の技術上の困難や、1945年からは、すでにジェットエンジン換装型のYB-49の開発が開始されていたこともあり、1949年5月に開発計画は中止された。XB-35はいずれも、計画中止後、1949年8月にスクラップにされた。YB-35の最初の8機はXB-35と同じ仕様で生産され、このうち2機が後にYB-49へと改造された。後期生産の5機は改良された仕様で生産され、YB-35Aと呼ばれた。このうち1機は後にYRB-49Aへと改造された。また別の1機はターボプロップエンジンの試験機(テストベッド)に使われ、1950年3月に解体処分された。YB-35のうちで飛行したのは、最初の1機のみで、改造されなかったものはいずれも部品取りに使用されるなどした。YB-35のエンジンをジェットエンジンに換えたYB-49は、1947年に初飛行し、良好な性能など全翼機の有望性を垣間見ることができたが、飛行が不安定になる欠陥があった。そのうえYB-49の1機が墜落して搭乗者全員が殉職する事故まで発生した。これはプロペラの設計のままで翼を再設計することなくジェット化したため、弊害が生じたといわれている。なお、B-35・B-49の両計画に関して、空軍長官スチュアート・シミントンが政府の影響下にあるコンベアとの合併を強要しようとして、拒否したため中止になったとする陰謀論が長年に渡って唱えられている。これはジャック・ノースロップ自身が事実であったと証言したため陰謀が現実にあったとされたが、実際には当時の技術では全翼機を使いこなすことが出来ない(現在のB-2は、フライ・バイ・ワイヤを利用してコンピュータによる操縦補助を受けている)ことや、当時の核戦略の要求に適合しなかったなどの理由で中止になったといわれている。
出典:wikipedia
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