内閣職権(ないかくしょっけん)は、廃止された日本の法令。内閣総理大臣の職務及び内閣運営方法を定めた。1885年(明治18年)12月22日、これに先立って同日に制定された「太政官達第69号」に基づき、太政大臣公爵三条実美の「達」として制定された。1889年(明治22年)12月24日、内閣官制(明治22年12月24日勅令第135号)の制定により廃止。なお、同時に「内閣職権ヲ定ムル勅旨ハ各官心得ノ為メノ達」に止まり、官報に掲載しないとする内閣書記官長の通達も出された。1885年(明治18年)12月22日、太政官達第69号が定められて、中央政府首脳部の体制は太政官制から内閣制へ移行した。また同日、内閣総理大臣の権限等を定めるため、三条実美太政大臣の「達」という形式により、内閣職権が制定された。太政官達第69号では、「太政大臣、左右大臣、参議及び各省卿の職制を廃し、新たに内閣総理大臣並びに宮内、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務及び逓信の各大臣を置くこと。」、「内閣総理大臣及び各大臣(宮内大臣を除く。)をもって、内閣を組織すること。」の二項目が定められた。これにより、宮中(宮廷)と府中(政府)の別が明定され、行政責任を各省大臣が個別に負う体制の基礎が生まれた。また、内閣職権では、内閣機構の運営基準、主として内閣総理大臣の職務権限が定められた。内閣総理大臣は「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」(1条)とあり、形の上では強力な権限を与えられていた。しかし実際には、薩長藩閥が対立均衡している下で、内閣が十分に力を発揮することは難しかった。二つの法令が定められたのと同じ日に、明治天皇によって、参議であった伊藤博文が初代の内閣総理大臣に任命され、第1次伊藤内閣を組織した。その後、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法(1889年(明治22年)2月11日公布、1890年(明治23年)11月29日施行)が制定された。同憲法では内閣及び内閣総理大臣の定めは置かれず、同55条は「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」として、内閣総理大臣は他の国務大臣と同等なものと規定された。内閣職権は廃止され代わりに内閣官制(明治22年12月24日勅令第135号)が定められた。その第2条「内閣總理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」とされ、以前の内閣職権第1条「内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」という「統督ス」という語が「保持ス」に変更された。この結果条文上は内閣総理大臣の主導権が減少した。戦前の日本の立憲制がドイツ(かつてのプロシア)の制度を模範としたことは知られているが、内閣職権は当時のドイツ帝国の内閣制度ではなく、イギリスの議院内閣制の影響も含まれた「ハルデンベルク官制」(1810年のプロシアの官制)をモデルにしたとされている。これは、自由民権派が求めるようなイギリスの議院内閣制そのものは否定して天皇の権威の絶対化を目指すものの、同時にドイツ帝国の体制は皇帝の権限が強すぎるためにそのまま導入した場合、当時明治天皇からの信任が厚かった宮中保守派(中正派)が求める「天皇親政」への道を開き兼ねないというジレンマの中で、天皇の権威の確立と政治への直接関与の阻止という両方を実現するための苦肉の策でもあった。
出典:wikipedia
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