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尾竹国観

尾竹 国観(OTAKE Kokkan、おたけ こっかん、明治13年(1880年)4月21日 - 昭和20年(1945年)5月20日)は、明治から昭和期の浮世絵師、日本画家。尾竹越堂、尾竹竹坡の弟で、いわゆる尾竹三兄弟の末弟。明治13年(1880年)4月21日、現在の新潟市に生まれる。本名亀吉。幼くして笹田雲石に国観の号を受ける。東京学齢館の『小国民』の全国児童画コンクールに応募して一等をとり、学齢館主人の斡旋で上京、小堀鞆音に入門。漢学を高橋太華に学ぶ。ほどなく富山に移り、兄の国一(越堂)、竹坡と富山で新聞の挿画・売薬版画などを描いて生計をたてる一方、14歳のとき富山博覧会で三等、16歳で日本美術協会一等賞、翌年同会で銅牌を受けた。これが小堀鞆音の目に止まり、明治29年(1896年)2月に竹坡と共に上京し、再び鞆音の門に入る。20歳前後から日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会を舞台に受賞を重ねる。明治41年(1908年)の「国画玉成会事件」では竹坡とともに岡倉覚三(天心)・横山大観と袂を分かつも、翌年の第3回文展『油断』で二等賞、第5回文展『人真似』で三等賞を受賞。大正2年(1913年)には、横山大観を先頭とする“学校派”審査員によって不可解な落選という憂き目(文展事件)にあったが、大正7年(1918年)第12回文展までは意欲的な出品を見せた。だがその不遜な言動から後半生はふるわず、昭和10年(1935年)に帝展の無鑑査に迎えられて出品するも芸術的新境地を開くには至らなかった。一方、国観が描き続けた教科書や雑誌の挿絵やポンチ絵、絵本などメディアの仕事が注目を浴びつつある。昭和20年(1945年)5月20日歿(満65歳)。墓所は多磨霊園。人物画に本領を発揮する。天性のデッサン力に恵まれ、しばしば衆人環視の下で即興画を仕上げるのを得意とした。それらの作品は、たぐいまれな画力を知る点で、入念に仕上げられた本画よりも好都合であるといえる。2007年2月25日号の美術誌『Bien(美庵)』Vol.43(藝術出版社)の巻頭特集「きみは、尾竹三兄弟を知っているか?」にて、尾竹三兄弟の末弟として紹介された。国際浮世絵学会の機関誌、三兄弟の地元の『新潟日報』や『北日本新聞』でも『Bien(美庵)』の特集が評価された。「尾竹」の読みを「おだけ」とする資料が多いが、これは誤りで、正しくは「おたけ」である。

出典:wikipedia

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