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東金御成街道

東金御成街道(とうがねおなりかいどう)は、九十九里方面での鷹狩のために徳川家康が土井利勝に命じて造らせた道路。船橋~東金間約37キロメートルをほぼ一直線に結んでいた。なお東金市田間から山武市小松までの部分は砂押街道と呼ばれる沿道の村々の農民たちが石高に応じてかり出され、「三日三晩で造られた」とか、「昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜兼行で工事が行われ、一晩のうちに完成した」などといわれ、提灯街道、一夜街道または権現道などとも呼ばれるが、慶長19年正月に着工し、数ヶ月間かけて元和元年11月に完成した。なお、東金市田間から山武市小松までの部分は砂押街道、あるいは御成新道と呼ばれ、別のもので後から造成されたような印象を受けるが、実際には山武市小松までを含めた御成街道全体が同時に造成された。また将軍が休息・宿泊する為に船橋御殿(現・船橋東照宮)、千葉御茶屋御殿(千葉市若葉区御殿町)、千葉御殿(千葉市中央区中央)、東金御殿(現・千葉県立東金高等学校)、土気御殿(大網白里町池田)も造られた。なお千葉御茶屋御殿と千葉御殿は全くの別物であり、千葉市内には御殿が二カ所存在していた。本保弘文によると、家康が東金御成街道を初めて利用したのは慶長19年(1614年)正月9日で、その後秀忠や権大納言時代の家光もこの街道を利用したとされるが、これに対して、梁瀬裕一は『徳川実記』に見える千葉を千葉御茶屋御殿ではなく、そのまま千葉ないし千葉御殿と考えると、千葉から土気を経由して東金を往復していたことが分かり、東金御成街道を使用しておらず、千葉御茶屋御殿も利用していないことから、慶長19年の段階で東金御成街道は完成しておらず、家康は千葉から土気街道を経て大網を通って東金に入ったとする。東金御成街道を家康が初めて使用したのは元和元年からであるとし、本保弘文の説を疑問視している。その後寛永7年(1630年)を最後に九十九里方面での鷹狩は行われなくなり、寛文11年(1671年)頃には3つの御殿も取り壊しになったが、東金御殿、御茶屋御殿ともに移築と伝わる建物が現存している。なお、将軍の身の安全のために、東金へのルートは固定されておらず、東金御成街道を常に使用したわけではない。東金へは他にも東金街道や土気街道といった複数のルートがあった。明治維新後各所で分断されたが、船橋から千葉市稲毛区六方町の陸上自衛隊下志津駐屯地の前までが軍事国道特1号の指定を経て、千葉県道69号長沼船橋線および千葉県道66号浜野四街道長沼線の一部として現存し、八街市内の一部は市指定の史跡となっている。八街市滝台から東金へ至る経路は現在不明になっているが、東金市田間から山武市小松までも千葉県道124号緑海東金線として現存している。

出典:wikipedia

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