睦月型駆逐艦(むつきがたくちくかん、"Mutsuki" Class Destroyers)は日本海軍の駆逐艦の艦級。同型艦12隻。日本駆逐艦としては初めて61cm魚雷を搭載した。「睦月型」命名前(後述)の呼称は第十九号型駆逐艦。ネームシップの「睦月」沈没後、卯月型駆逐艦と改定された。睦月型は峯風型や神風型の流れを汲む後継艦で、イギリス駆逐艦の模倣から脱却した峯風型のグループの最後の艦型。大正12年度艦艇補充計画で12隻が建造され、更に建造の予定であったが吹雪型駆逐艦(特型駆逐艦) に切り替わった。基本的に前型の神風型と大きな違いはない。艦首形状がスプーン・バウからダブルカーブド・バウに変更されたこと、日本駆逐艦としては初めて61cm魚雷を採用し、3連装魚雷発射管2基を搭載したことなどが変更点となる。竣工当初は番号による艦名が付与されたが、1928年(昭和3年)8月1日付けで、固有の艦名が与えられた。正式名称ではないが、望月型駆逐艦、水無月型駆逐艦、長月型駆逐艦の呼称も用いられた。太平洋戦争開始時も駆逐艦として第1線にあり、戦争中に12隻全て喪失した。1922年(大正11年)にワシントン軍縮条約が調印され、従来の軍備計画(八八艦隊計画など)の中で製造未訓令の艦の予算が整理され、新たに大正十二年度艦艇建造新計画が策定された。このうち駆逐艦は一等駆逐艦22隻、二等駆逐艦15隻が整理対象となり、新たに軍艦製造費で3隻、補助艦艇製造費で21隻の計24隻の1,400トン型駆逐艦(一等駆逐艦)が計画された。なお、二等駆逐艦は計画されず、この計画以後は一等駆逐艦に統一された。これに先立つ1920年(大正9年)、軍令部は将来の第1線の駆逐艦は航続距離、凌波性などを考えて排水量を1,600トン以上に、魚雷は53cmに代えて61cm魚雷を早急に装備することを強く要求していた。この背景があり、補助艦艇製造費での建造21隻は計画が変更され、1,400トン型13隻と1,700トン型5隻に改められた。結局この計画で1,400トン型は計16隻が建造され、最初の4隻は神風型(後期艦4隻)になり、残り12隻が(61cm魚雷を装備した)本型となった。また、1,700トン型5隻は吹雪型となった。基本計画番号は福井によると12隻全てF41E、岩重によると睦月から皐月までの5隻がF41E、水無月から菊月までの4隻がF41F、三日月は不明、望月、夕月の2隻がF41Gである。船体は神風型とほぼ同一でタートルバック型の船首楼を持つが、艦首形状はスプーン・バウからダブルカーブド・バウに変更された。更に艦首フレアも大きくされて艦首平面が少々太った形状になり、凌波性の向上が図られている。61cm魚雷発射管の装備のため、船首楼後端(1番12cm砲後方下部)が切り欠かれた。その船首楼後端の形状は睦月からの5隻には舷側上端にエッジがあり、水無月以降の7隻にはエッジが無かった。艦橋は神風型後期艦と同様、羅針艦橋の前面と側面に鋼製の固定式側板が設置され、窓ガラスが入れられた。天蓋は従来通り開放式のままである。また羅針艦橋後方の艦長休憩所兼水雷指揮所の上部は測的所とされ、2m測距儀1基とその左右に30cm信号用探照燈各1基が設置された。短艇甲板下部は神風型後期艦同様に左舷が閉塞されている。兵装では日本駆逐艦として初めて61cm魚雷を採用した。主力艦の水中防御力が増し、従来の53cm魚雷では能力不足とされたためである。魚雷発射管は61cm3連装発射管2基6門になり、予備魚雷は6本を搭載、前部煙突右舷と後部煙突両舷の3カ所に各2本ずつを格納した。砲熕兵装については、12cm主砲は神風型と数、配置共に同じ4門を装備した。機銃は神風型後期艦4隻と同じ、留式機銃(7.7mm)2挺を装備し、装備位置も後期艦と同じで、羅針艦橋から1甲板下げた短艇甲板左右舷に各1挺ずつを装備した。艦尾には八一式爆雷投射機(片舷投射機)、爆雷装填台各2基を装備、爆雷18個を搭載した。その他、睦月から長月までの8隻は一号機雷投下軌道2条を設置、機雷は16個搭載とされた。菊月以降の4隻は機雷投下軌道に代わり大型ウィンチ、パラベーンなど掃海装備1式を備えた。機関は神風型後期艦と同じ、過熱器付ロ号艦本式重油専焼缶4基と艦本式タービン2基を装備した。ただし弥生のタービンはメトロポリタン・ヴィッカース社から輸入したメトロポリタン・ヴィッカース式、長月のそれは石川島造船所製造のツエリー(チェリー、チューリー)式をだった。これは従来のタービンには故障が頻発し、比較参考のために導入したものと思われる。排水量はこれらの改正で神風型に比べ約50トン増加し、復元性能は最初の計画艦(峯風型前期艦)に比べて大きく低下していたが、新造時に対策は取られなかった。また後日の調査では船体中央部に強い応力の掛かっていることがわかった。竣工後の主な改装は以下の通り。1935年(昭和10年)の第四艦隊事件では本型も演習に参加した艦があり、睦月・菊月が艦橋圧壊など、直接の被害を受けた。そのために1937年(昭和12年)頃まで復元性能を含めた性能改善工事を行った。主な工事内容は以下の通り。これらの工事により、1938年(昭和13年)の時点で排水量1,926トン、速力32.5ノットとなっていた。開戦時の兵装は、田村によると対空機銃は三日月・皐月・水無月・文月の4隻が7.7mm機銃2挺(竣工時と同じ)、その他の8隻は7.7mm機銃2挺に加えて探照燈後方に機銃台を設け、13mm連装機銃1基を設置と推定している。睦月型に関しては資料不足もあり、大戦中の変遷はほとんど分かっていなかった。加えて睦月型には重複した内容の機銃増備訓令が出されており、また実際の改装も日本に帰港した際に行われるのがほとんどのため、大きく遅れて工事が行われたり、また工事が行われないまま戦没する艦もあった。更に訓令通りに工事を実施しない艦もあり、その変遷は非常に複雑となっている。1942年(昭和17年)8月下旬以降のガダルカナル島の戦いで、日本軍の輸送船団は米軍航空隊により大損害を受ける事例が相次ぐ(第二次ソロモン海戦、第三次ソロモン海戦等)。同方面を指揮する第八艦隊(外南洋部隊)は1943年(昭和18年)3月3日のビスマルク海海戦で大損害を受けると、『四.高速小型輸送船(差當り駆逐艦巡洋艦の改装に依り)輸送力強化を要す』と訴えている。日本海軍は、太平洋戦争勃発前から旧式化した峯風型駆逐艦や若竹型駆逐艦の一部を改装し『哨戒艇』(第一号型哨戒艇、第三十一号型哨戒艇)と称していたが、これらの艦艇には後部にスロープが設置されて陸戦隊上陸用の大発動艇が搭載可能となっていた。最前線からの要望を受けて専用の輸送艦(第一号型輸送艦)が開発される一方、旧式化していた駆逐艦も改造対象となる。ビスマルク海海戦の直前に当たる2月19日、軍令部では前線からの要望を踏まえて本型(望月型、水無月型)約8隻、及び神風型駆逐艦・峯風型駆逐艦の内約8隻に対して機銃増加、主砲と魚雷の一部撤去と残存主砲の高角砲との換装、十米特型運貨船2隻を搭載するよう改造することを協議していた。これを踏まえ同年3月20日、日本海軍は望月型、水無月型及び神風型・峯風型の一部ボイラー・主砲・魚雷兵装を撤去し、対空火力を強化した上で甲板に輸送物資と十米特型運貨船2基を搭載する改造を行うよう通達した。第一次の改造対象は2隻(卯月、夕凪)、第二次改造予定は3隻(文月、三日月、追風)とし以降は追加される予定であったが、実際に睦月型で工事をうけたのは卯月・文月・三日月・夕月のみで、缶を撤去したのは卯月と三日月のみであった。また、当初の協議内容にあった主砲の高角砲換装は行われないままであった。艦艇研究科の田村俊夫は、取り止められた理由は不明であるものの、換装する高角砲の候補は12cm単装高角砲であっただろうと推測している。三日月の場合、アメリカ軍撮影による同艦の最後となる写真(1943年7月28日撮影)が残されている。上記通達(訓令)やこれらの写真から兵装は以下の通りと推測される。通達と写真の状況はほぼ相違なく、後部煙突左舷の予備魚雷格納筺撤去も実施されたと推測される。また「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」によると1944年(昭和19年)8月31日時点での卯月の兵装は以下のようになっていた。略図によると艦尾には舟艇発進用のスロープが設けられていた。また、煙突の太さは従来のままに描かれているが、ボイラーは訓令通り1基撤去撤去されており、出力28,000馬力、速力29.5ノットになっていた。艦艇研究科の田村俊夫は、煙突下部のボイラーからの煙路出口を塞ぎ、工事量節約のために煙突はそのままにしたのだろうと推測している。同じく8月20日附調査の皐月の場合はで、予備魚雷格納筺、爆雷投射機、同投下軌道、電探は図に描かれていない。竣工から12隻全ての本籍が佐世保鎮守府で、第22、23、30駆逐隊の3隊を編成した。当初は第二水雷戦隊に所属し、吹雪型の竣工以降は1935年(昭和10年)頃まで第一水雷戦隊所属となった。上海事変や日華事変では中国方面に進出、揚子江作戦にも従事し、全艦が駆逐艦として開戦を迎えた。前型、前々型の神風型、峯風型が主に船団護衛などの第2線で活躍したのに対し本型は61cm魚雷を搭載したこともあり、老艦ながら各艦とも連合艦隊にあって第1線で活躍した。しかし同時に消耗も激しく特にソロモン方面では半数の6隻が戦没している。太平洋戦争開戦時、引き続き睦月型4隻(睦月、如月、弥生、望月)で第30駆逐隊を編成し、第29駆逐隊(朝凪、夕凪、追風、疾風)と共に第六水雷戦隊(司令官梶岡定道少将。旗艦「夕張」)を編成。南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官)に所属してウェーク島攻略作戦に参加したが、「如月」が早くも戦没。残った3艦は引続き南洋部隊(第四艦隊)に所属し、ラバウル方面の各攻略作戦に参加した。「皐月」「水無月」「文月」「長月」は第22駆逐隊を編成しフィリピンやジャワ島攻略作戦などに参加、南シナ海方面にあった。「卯月」「菊月」「夕月」は第23駆逐隊を編成し第一航空艦隊・第二航空戦隊に所属していたが、真珠湾攻撃に向かう二航戦(蒼龍、飛龍)の護衛は最新鋭の陽炎型駆逐艦、夕雲型駆逐艦が引き受け、第23駆逐隊は南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官)の指揮下に入り、グアム攻略戦に参加した。その後も南洋部隊(旗艦「鹿島」)に所属してソロモン方面の各地の攻略戦に参加、1942年(昭和17年)5月上旬のツラギ攻略戦で「菊月」が戦没した(珊瑚海海戦)。これにより第23駆逐隊は解隊、「卯月」「夕月」はそれぞれウェーク島攻略戦で3隻編制となっていた第30駆逐隊・第29駆逐隊へ移動した。「三日月」は第一艦隊・第三航空戦隊付属として内海に待機していた。アメリカ軍のガダルカナル島での反攻が始まると睦月型も第22、30駆逐隊の各艦がソロモン方面に進出、外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)の指揮下に入る。同方面ではガダルカナル島の戦いおよびニュージョージア島の戦いにおいて「睦月」「弥生」「長月」「三日月」「望月」の5隻が失われた。第23駆逐隊の2艦はソロモン方面での輸送任務や内南洋方面での船団護衛に従事していた。ソロモン方面(南東方面)から撤退した昭和19年以降は各艦とも船団護衛に従事し、2月に「文月」がトラック泊地で米軍機動部隊により、6月に「水無月」がダバオで米潜水艦に、9月に「皐月」がマニラで米軍機動部隊の攻撃で戦没、残った「卯月」と「夕月」は12月のオルモック輸送作戦第9次作戦に参加、両艦とも戦没し、睦月型12隻は全て失われた。八八艦隊計画による大建艦計画により艦名不足が心配され神風型[II] 、若竹型より駆逐艦は番号名となった。しかしワシントン軍縮条約により計画は中止、艦名不足の心配は無くなり1928年(昭和3年)8月1日付(同年6月1日、達第80号)で、神風型駆逐艦(第一号型駆逐艦)、若竹型駆逐艦(第二号型駆逐艦)、睦月型駆逐艦(第十九号型駆逐艦)、吹雪型駆逐艦(第三十五号型駆逐艦)等の固有艦名へ改名した。佐世保鎮守府籍の睦月・如月・弥生・卯月で編成。1923年(大正12年)12月1日に第二十九駆逐隊へ統合され解隊した神風型駆逐艦 (初代)4隻からなる先代に続く二代目の第三十駆逐隊である。佐世保鎮守府籍の皐月・水無月・文月・長月で編成。1925年(大正14年)11月5日に樺型駆逐艦4隻からなる先代第二十二駆逐隊が横須賀鎮守府第六駆逐隊に転出した後に続く、二代目の第二十二駆逐隊である。佐世保鎮守府籍の菊月・三日月・望月・夕月で編成。1925年(大正14年)11月5日に樺型駆逐艦4隻からなる先代第二十三駆逐隊が横須賀鎮守府第七駆逐隊に転出した後に続く、二代目の第二十三駆逐隊である。
出典:wikipedia
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