女官(にょかん/にょうかん)とは、官職を持ち宮廷に仕える女性のこと。官女(かんじょ)、宮女(きゅうじょ)ともいう。各国の王朝で宮廷において君主や后妃の身の回りの世話をさせる女性に何らかの官職を与えたのが始まりとされる。男性や宦官なども同様の任を行うことがあったが、男子禁制とされる後宮や后妃の私生活の管理には必然的に女性の官人が必要となった。大内裏において太政官以下の官司に勤務する男性官人に対して、「内裏において後宮十二司に職掌を持つ女性官人」を指す。10世紀以後に発生した後宮十二司制度の解体後は、内侍司を中心とする「内裏に仕える女性官人」のことを指したとされる。平安時代と江戸時代の後宮(内裏)については律令資料、平安時代の文学、平安時代の日記記録、江戸時代の文字記録などから従来考察がなされているが、内裏の度重なる焼失によって里内裏が中心となっていき武士政権となる中世については後宮の内情についてあまり解明されてはいない。8世紀の律令法(後宮職員令)において用いられていた用語は「宮人(くにん/きゅうにん)」であり、これは男性官人と女性官人の区別なく用いられている。女性官人が「女官」と書かれるようになったのは、弘仁年間に編纂された弘仁格式や内裏式に「女官」の語が登場することから、8世紀と9世紀の境のあたり(800年前後)と考えられている。有職故実から、三等官(尚・典・掌)に代表される高位女官を「にょかん」、雑任の女官を「にょうかん」と呼んだと通常は考えられている。なお、明治2年(1869年)以後は「じょかん」が正式な読み方とされた。平安時代に後宮のきさきや天皇に仕えた「女房」が「女性官人」としてあったかどうかは結論が出ない。大勢いたとされる女房がすべて女官除目で女性官人として内裏の職掌叙位を受けて国から直接給与をいただいていたものと示すに足る記録はなく、きさきが私的に抱えていた人員あるいはきさきを介して間接的に給与をいただく存在であったとして考えるのが通常である。江戸時代には女官は女房と女中に分けられ、女房の中でも尚侍・典侍・掌侍を御局、命婦・女蔵人・御差を御下と呼んで、前者は天皇と直接会話が可能、後者は目通りのみが可能、それよりも下位である女中に属する御末・女孺・御服所は天皇と顔を合わせることも出来なかったとされる。なお、同時期の仙洞御所や女院御所では上臈・中臈・下臈の区別が行われていたが、上臈は尚侍・典侍相当、中臈は掌侍相当、下臈は御下相当とみなされていたとされる。江戸城大奥の女中も女官制度に類型されることがある。現在、宮内庁の職員で「女官」に相当する職掌は以下のものがある。いずれも特別職の公務員である。また、上記以外に皇室費の内廷費をもって天皇家に直接雇用されている非公務員の「女官」に相当する職掌として以下のものがある。明治大正期は側室候補として独身住み込みが勤務条件であったが、昭和天皇以後は既婚の者を採用し自宅通勤も認めている。戦前女官は、宮中内の事柄は親兄弟にも明かす事ははばかられ、外部には内実の情報が明かされる事は長い間なかったが、山川三千子(昭憲皇太后に仕えた皇后宮職の女官(権掌侍御雇)で子爵久世通章の長女)が、晩年になり『女官 明治宮中出仕の記』を1960(昭和35)年に出版し、初めて女官を通して見た明治期宮中の様子が語られた(2016年に講談社学術文庫で再刊)。女官たちは に所属し、従九品の奏変宮(そうへんきゅう、チュビョングン)から正五品の尚宮(しょうきゅう、サングン)までのいずれかの品階を受けて宮中において様々な職務に従事していた。後宮になる場合は正一品の嬪(ひん、ピン)から従四品の淑媛(しゅくえん、スグォン)までの品階が与えられた。その他、品階を受けずに宮中の職務に従事する婢子(ひこ、ピジャ)、 、カクシム、房子(ぼうし、パンジャ)、医女(いじょ、ウィニョ)などがおり、尚宮や内官、医官らの補助を担当した。女官たちは原則として身分、先祖、健康など、厳格な条件に基づいて選抜されたが、強制的な選出がなされたこともあり問題となった。顕宗治世下において良人(両班・中人・常民の3階級の総称)から女官を選ぶことをやめるべきだとの発言がなされた記録がある。その後景宗治世下では良人からの女官の選抜を禁止する命令が出された他、英祖治世下の1746年には良人の女性を女官にしたことが発覚した場合、60回の杖刑と1年間の徒刑に処せられた:しかしによると、著者である恵慶宮洪氏が許可なく良人の女性を女官に起用したことで夫思悼世子が英祖から叱責されたと記録されている。純祖が即位した1801年には官婢制度が廃止され、約3万7千人もの官婢たちが解放されて良人に組み込まれたため、続大典内の条項を保証することがより困難となった。高宗・純宗に仕えたある尚宮は、「女官の中でも至密、針房、繍房については殆どが中人(良人の中で両班に次ぐ階級)出身だった」という証言を残している。女官たちは幼少時に宮中に入り、宮廷のしきたりや礼儀作法、諺文、小学や大学などの様々な教養を15年の見習い期間の間に学んだ。ヨーロッパの宮廷において、女官とは、王妃(女王)や王女その他高貴な女性に仕えて身辺の用務に応じる個人的な補助者のことをいう。女官は通常、主人よりも低い階級ながらも彼女自身が貴族であり、召使ではない。女官の役割はその宮廷によってさまざまである。テューダー朝のイングランドでは、女官は4つの別々のシステムに分けられていた。「グレート・レディ(great lady)」、「レディ・オブ・ザ・プライヴィ・チェンバー(lady of the privy chamber、私室付女官)」、「メイド・オブ・オナー()」、そして「チェンバラー(chamberer)」である。私室付女官は王妃(女王)と最も親しい関係にあったが、大部分の女官はメイド・オブ・オナーだった。女官には、王妃の最も信用できる存在であるゆえに、縁戚者が任命されることが多かった。マーガレット・リーはアン・ブーリンの私室付女官であり、また同じくエリザベス・シーモアも王妃ジェーン・シーモアの私室付女官だった。テューダー朝の宮廷における女官の役割は、王族のお相手をし、どこであろうと王妃のお供をすることであった。テューダー朝の王妃は、誰が自分の女官になるかについてかなりの発言権を持っていた。ブルボン朝後期のフランス宮廷における王妃付女官の役割はかなり異なったものである。そこでは、女官はしばしばルイ14世やルイ15世のスペイン人王妃、ポーランド人王妃の名目上の、距離を置いた同伴者の役割を担っていた。フランスのブルボン朝最後の王妃マリー・アントワネットには何人かのお気に入りの女官がおり、特にポリニャック伯爵夫人などは大きな影響力を持つとともに自ら巨大な富も得た。今日のイギリス王室では、女王または王妃の世話をする者は「レディ・オブ・ザ・ベッドチェンバー(Lady of the Bedchamber)」または「ウーマン・オブ・ザ・ベッドチェンバー(Woman of the Bedchamber)」といい、上席の女官は「ミストレス・オブ・ザ・ローブズ(Mistress of the Robes)」という。ウーマン・オブ・ザ・ベッドチェンバーは常時控えているが、ミストレス・オブ・ザ・ローブズとレディ・オブ・ザ・ベッドチェンバーは通常は冠婚葬祭の場などにのみ参列を求められる。女王(王妃)以外の王室の女性メンバーに付き添う女官は「レディ・イン・ウェイティング(Lady-in-Waiting)」という。
出典:wikipedia
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