林家 こん平(はやしや こんぺい、本名:笠井 光男(かさい みつお)、1943年3月12日 - )は、新潟県刈羽郡千谷沢村(後の小国町、現:長岡市)大字千谷沢字千谷沢出身、落語協会所属の落語家である。同協会理事などを歴任するが、後述の病気もあり2006年4月に相談役となる。出囃子は『佐渡おけさ』。血液型はA型。演芸番組『笑点』(日本テレビ)の大喜利メンバーの一人だったが、後述の病気により長期に渡って休演している。現在は弟子のたい平が代理出演を経て正式メンバーとして出演している。愛称は、「こんちゃん」。本人曰く、出身地は「チャーザー村」だが、正しい読み方は「ちやざわむら(千谷沢村)」。初代林家三平に師事。当時の初代三平は二ツ目で本来ならば弟子を取れないはずだったが、米を一俵担いで弟子入りにきたこん平の熱意に負けたとされる(ただしこのエピソードは脚色もあり、実際は米一俵もなかったとのこと。本人の著書では母親から三平宅へ郵送されてきたと書かれている)。「こん平」の由来は、弟子入り当初はやせていて顔つきが狐に似ていたからだという理由と、一門できつねうどんを食べていた際の、師匠初代三平の妻でこん平にとっては女将である・海老名香葉子のひらめきによる。二ツ目時代から『笑点』など、テレビ・ラジオに出演。『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』(日本テレビ)では構成作家を務める。兄弟子の珍平が俳優に転業した後は惣領弟子となり、初代三平が54才の若さで死去した後は一門を統率。この際、落語協会分裂騒動など三平死去の前後に起きた様々な出来事の経緯から三平の弟子たちは「落語界の孤児」とでもいうべき状態となり、結果として元々移籍組で既に真打だった三升家勝二(現:8代目小勝)を除く三平の全弟子がこん平の弟子として直ることになる。かくして、分裂騒動の後遺症が長く尾を引いた落語協会の中で辛酸をなめつつも、林家こぶ平(現:9代目正蔵)、林家しん平といった初代三平の預かり弟子や、林家たい平、林家いっ平(現:2代目三平)ら直弟子など数多くの弟子を育て上げ、初代三平からの系譜を受け継ぐ落語家・芸人たちを事実上の一派としてまとめ上げてきた。実際の性格は笑点や高座で見せる豪胆なものではなく、繊細であったという。故に時としてストレスを紛らわすために、酒量が多くなることがあり、後述の病気の要因の一つになったともいわれている。また、卓球が得意なことでも知られており、『笑点』で共演する三遊亭小遊三と共に「らくご卓球クラブ」を創設。「世界ベテラン卓球大会」にも出場経験がある。2004年8月、声帯を患い入院。この入院は長引き、開始以来、降板期間を除きほぼ無欠勤で出演し続けていた『笑点』も、2004年9月5日の放送を最後に初めて数回に渡って番組を休業することになり、こん平の位置は座布団が積まれたまま空席となった。同年12月26日の放送からこん平の弟子で若手大喜利のメンバーの林家たい平が代役で出演した。実際にはこん平は現在に至るまで正式な番組復帰は果たせていない。2005年5月22日に退院。当初「軽い脳梗塞も患っていた」と週刊誌で報道されたが、その後、同年3月に国立精神・神経センターの医師から多発性硬化症と診断されていたことを公表。退院後も通院しながらリハビリを行っている。2006年5月の『笑点』40周年を機に、こん平の代役だったたい平が正式に後任メンバーになった。こん平は趣味の卓球ができるまで回復はしてきてはいるが、噺家として復帰には時間がかかるとのことで、『笑点』においては「復帰待ち」として、本人のコメントによると正式降板することはないとした。先の多発性硬化症により一時入院を余儀なくされたが、2008年2月28日の『スーパーニュース』(フジテレビ)内のコーナーや、同年4月の『発見!人間力』(民教協=テレビ朝日ほか)で、卓球や発声練習、運動のリハビリを続けている様子が放送された。また、同年9月14日放送の『いつみても波瀾万丈』(日本テレビ)ではこの日のゲスト出演者だった三遊亭小遊三と卓球をする姿が放送されている。小遊三は「らくご卓球クラブには毎週顔を出し、体調に合わせてプレーをしている。1年前の復帰当時は球をラケットに当てるのがやっとの感じだったが、今ではラリーもできるようになった。右肩上がり(の回復)だ」とコメントしている。2009年11月8日に放送された『笑点』の5代目三遊亭圓楽追悼番組の前半部分(思い出トーク)に、杖を用いて出演(弟子のたい平が支えた)。5年ぶりに同番組に出演し元気な姿を見せた。ただし、5代目圓楽は甘い物好きや不精(服装がラフで冬の寒い時期に厚着をすること)であったという思い出話が歌丸や楽太郎(6代目円楽)、木久扇らから出ると「なんだかわからないんですけど」と言って場を盛り上げた。2013年に糖尿病が悪化し左足の壊死が進み呼吸困難に陥り、緊急入院したが心肺停止の状態となった。一命は取り留めたものの、壊死した左足の指を切断し、半年後に退院した。退院後は自宅で家族による介護を受けた。2014年5月、こん平の介護およびマネージメントをしていた二女の咲が「一般社団法人林家こん平事務所」を設立。8月、都電荒川線を走る都電1両を借り切っての興行「都電落語会」のプロデュースを発表。月1回開催していく予定。同年8月22日に第一回の「都電落語会」が開催された。同8月31日には『24時間テレビ 「愛は地球を救う」37』に出演。2013年に糖尿病を併発し一時心肺停止まで陥っていたことが紹介され、その後遺症による左足壊死と右手の麻痺と闘いながらリハビリに取り組む姿が特集された。メインスタジオの日本武道館には二女とともに車いすで訪れ、「1、2、3、チャラーン!」を10年ぶりに披露した。また、2015年8月23日での『24時間テレビ 「愛は地球を救う」38』にも出演。車いすでの登場だった昨年とは異なり、笑点の舞台(現在たい平が座っている場所)に、弟子林家たい平の力を借りて登場。正座が難しいとされている中、笑点メンバーに見守られての着席となった。MCに促されるまもなく、声を振り絞り「1、2、3、チャラーン!」を披露。桂歌丸、林家木久扇、林家たい平らによるコメントの後、再度「チャラーン!」を披露し、2020年の高座復帰を目指してリハビリを継続することを明らかにした。笑点2016年4月17日(第2511回)放送分の真打昇進披露口上において、三本締めの発声として笑点本編に12年ぶりに出演した(新真打の中にこん平の弟子である林家ぼたんが含まれていることによるもの)。2016年8月27日の『24時間テレビ 「愛は地球を救う」39』には、チャリティーマラソンのランナーを務めるたい平のスターターとして登場。直筆のメッセージが書かれたタオルをたい平に手渡し、「1、2、3、チャラーン!」の掛け声でマラソンがスタートした。8月28日のエンディングにも出演し、マラソンを完走して武道館にゴールしたたい平と抱き合った。前身番組『金曜夜席』(日本テレビ)から参加した古参レギュラーであり、同番組ではオレンジの色紋付を着用。長らく隣が小難しいインテリ系のくすぐりを得意とする三遊亭楽太郎(現:6代目三遊亭円楽)であるため、挨拶で楽太郎の長舌を受けて「あたしにゃ〜そういう難しいことはわからないんですがね…」と頭を振りながらうそぶくことがしばしばあった。地方収録の際は必ず「郷土の皆様、お懐かしゅうございます。○○(地方収録の行われている地名)で生まれて、新潟で育った〜」とホラを吹き、2週目は「第二の故郷というのはありがたいものでございます。先程から友人知人が手に持ちきれないほどのお土産を持って楽屋を訪ねてきてくれております……」で始まり、「なお、会場の皆様にお知らせがございます。私の帰りのかばんには、まだ若干の余裕がございます」と挨拶した。なおこの新潟出身を前面に出したキャラをやり始めた当初は、まだまだ落語と言えば江戸前、東京という固定観念の強い時代であり、東京、特に下町出身者以外がこのように郷土愛をアピールする例は稀であったため批判も多かったと著書で述べている。田舎者の権助役であり大食いキャラ・食いしん坊ネタをウリにしており、メンバーからも攻撃のネタにされていた。『笑点』メンバーの中では一番頭の周囲が大きく、被り物に頭が入らなかったこともあった。大喜利では、よく座布団運びの山田隆夫の悪口を言って山田に突き飛ばされたり、蹴り飛ばされたり(蹴り転がされたり)、あるいは頭を張り飛ばされたりして座布団を全部持っていかれることが多かった。その他に肥溜めネタ(「2人は肥(恋)に落ちました」など)をはじめとする下品で汚いネタも得意とし(下ネタを徹底的に嫌った、初代林家三平の意向が今も生きている林家三平一門としては珍しい特徴である)、故郷の千谷沢村はメンバーから「人がいない」「ダムの底」などと罵倒された。その一方、「世界平和」「環境保全」などを高らかに謳うネタも言った。しかし、この場合司会の5代目圓楽から「こんちゃん、○○ってガラじゃないよ、●●みたいな顔だよ」と座布団を与えられたり没収されることがあった。挨拶の締めは、会場の観客と共に「1・2・3、チャラーン。こん平でーす!!」。大元は『佐渡おけさ』であり、こん平が挨拶でうれしいお知らせをするときにチャイムの代わりとして歌っていたものが、歌の冒頭の「チャラーン」の部分だけ残り、現在の形に至る。初めはこん平単独で「チャラーン」と叫んでいたが、2002年頃から観客が偶発的に呼応するようになり、最終的にはこん平と観客が大合唱するようになった。こん平休演後は隣でうるさがっていた楽太郎(メンバー紹介時の挨拶で「言わない(やらない)で下さい」と観客にお願いすることもあった)を含め、他のメンバーも全員交代で「チャラーン」の代行をした。こん平の弟子のたい平が代役を務めてからは、その回数は減ったが、2006年元日の『大笑点』フィナーレや、同年1月22日の2000回目の放送時、TeNYテレビ新潟開局25周年を記念して、こん平の地元・長岡市で収録された同年10月15日の放送時に「師匠こん平から言われていることでありますので」とたい平が観客と共に「チャラーン」を披露。また「日テレアナウンサー大喜利」に出演している藤井恒久が「こん平師匠直伝の視聴者参加型挨拶 最後の継承人」として、出演する度に「チャラーン」をやっている。2005年4月に番組内で行われた9代目林家正蔵襲名披露口上の席上で、正蔵の弟でこん平の直弟子・林家いっ平(現:2代目林家三平)が師匠快癒を祈念して「チャラーン」を披露した。『笑点』収録の観覧者に対して、事前に行われる説明の際、説明担当のアシスタント(現在は三遊亭愛楽、3代目桂枝太郎、林家きく麿、林家ぼたんの中から1名)が音頭を取って「チャラーン」をやっている。※林家のん平までと、とんでん平が初代三平門下からの移籍。彼らはこん平にとっては弟弟子だったが、いずれも初代三平死去時に真打には昇進していなかったため初代三平死去に伴い引き取って預かり弟子になった。うん平と、しゅう平以降は入門からの直弟子。2009年11月8日の故5代目圓楽追悼特番ありがとう圓楽さん(追悼トークコーナーのみ)2014年10月15日放送のBS日テレの笑点特大号で自ら発案した都電大喜利企画で三遊亭小遊三と弟子の林家ぼたんと共演2016年4月17日放送の地上波の笑点で弟子の林家ぼたんの真打昇進披露口上で弟子の林家たい平と林家ぼたんと共演2016年現在、BS日テレの笑点デラックスで地上波の日本テレビ系列で放送された降板前の5代目圓楽司会時代の物(一部はこん平降板後の歌丸司会時代の2006年頃の物)の再編集して再放送が行われている。1997年 - 2001年頃の物である。チャリティー大喜利後の笑点メンバーと中継が結ばれ、激励メッセージなどがこん平に送られた。笑点降板の原因である多発性硬化症以外にも、糖尿病を患って足の指が壊死して足の指数本を切断し、足本体も壊死寸前まで悪化したが幸い回復して切断を免れたこと(歩行もできないため、杖や車いすで出演)、入院中も笑点復帰を試みて点滴を外して何度も病室から脱走しようとしたこと、弟子のたい平が代役出演した最初の放送をテレビで見てショックを受けたこと(これは笑点2006年5月14日放送の5代目圓楽勇退時に最初の内はハラハラして見ていられなかった旨のメッセージを書いて、歌丸が代読、この時のダイジェスト映像も流された)などが紹介された。多発性硬化症が発症し始めて直後に入院した2004年のチャリティー大喜利のダイジェスト映像が流され、呂律が回っていないのでこのころから発症していた旨も紹介された。卓球を行えるまで回復し、リハビリでらくご卓球クラブで小遊三とラリーを行って、山田隆夫も参加している映像も流された。2015年8月23日第38回には大喜利復活企画で弟子の林家たい平や林家ぼたんらに支えられ座布団に座った。2016年8月27日第39回には弟子の林家たい平が24時間マラソンランナーとしてスタートを切るための初の号砲ピストルなしの室内スタートで笑点メンバー(司会の春風亭昇太を除く、勇退した桂歌丸は客席から番組スタート号令)と共にスタートを切らせ(こん平自身もリハビリで歩行できるようにしスタート直後の最初の区間はたい平と共に歩いた)、翌日のゴールでたい平を迎えたので2日間連続出演を果たした。二木の菓子と二木ゴルフは、弟子の9代目林家正蔵(前名こぶ平)と2代目林家三平(前名いっ平)が後継者である同じまるか食品のペヤングで、山田隆夫と立川志の輔がソース焼きそばのCMに出演している。
出典:wikipedia
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