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深見千三郎

深見 千三郎(ふかみ せんざぶろう、1923年3月31日 - 1983年2月2日)は、北海道浜頓別町出身のコメディアン、舞台芸人、演出家、脚本家。本名:久保 七十二(くぼ なそじ)。長門勇や東八郎、萩本欽一、ツービートなどの師匠であるが、深見がテレビなどの放送番組に出演することがなかったため、その存在は全国的にほとんど知られておらず「幻の浅草芸人」と言われている。何度か結婚と離婚を繰り返しており、最後の妻は同じ浅草フランス座の踊り子・紀の川麻里。また子供の有無等については不明である。姉は浅草の人気芸者で歌手の美ち奴(みちやっこ)。現在の北海道浜頓別町で、木工所を営んでいた父母の末っ子として生まれた。高等小学校を卒業後、先に上京し、浅草で売れっ子芸者になっていた姉の染子(美ち奴)を頼り上京、浅草ではタップダンスやギターなど芸事の習得に勤しんだ。一時商家に奉公に上がるが長続きせず、姉の知人だった片岡千恵蔵の紹介で京都太秦に移り、本格的に芸の修行をする。その際に片岡千恵蔵の「千」の字を貰い、芸名を深見千三郎とした。1年ほど京都で修行した後に浅草に戻った。その後は順調に舞台をこなしていたが、戦時中に徴用された軍需工場で機械に左手を巻き込まれ、親指以外の指を切断する大ケガを負う(深見によれば戦場に行きたくなかったが故に、わざと大けがをしたという。)。東京大空襲で両親が死亡し、深見本人は帰郷して1945年に『深見千三郎一座』を旗揚げする。座長として全国各地を回った後、1959年頃に浅草へ再進出、ストリップ劇場『浅草ロック座』に入った。その後、同じくストリップ劇場の『フランス座』(現・浅草フランス座演芸場東洋館)の経営に参画したが、経営に行き詰まり経営権を手放すと共に芸人も引退、東八郎の元弟子が経営する化粧品会社に入り、サラリーマン生活を過ごしていた。深見の最後の妻が亡くなってから、酒量が急激に増えていたとされる。しかし1983年2月2日、深見は自宅であるアパート「第二松倉荘」(台東区浅草・現存せず)の自室でタバコの火の不始末が原因で火災を起こし、折りしもはしご酒をして泥酔していたことが災いして逃げ遅れ焼死した。享年59歳。深見の弟子であったビートたけしは後年、自伝的小説「浅草キッド」にて深見の最期の状況を振り返っており、それによると深見の遺体は玄関で倒れていた状態で見つかり、また両手で抱えられるくらいの小ささになってしまっていたとのことである。マスコミは深見の焼死に関しては「笑いの師匠孤独な焼死」と大々的に報道された。このように深見の名前が大きく報道されたのは、生涯、最初で最後であった。深見はテレビに背を向け、最後まで浅草の舞台で芸人人生を全うした。深見の舞台は主にストリップ劇場での、いわゆる「幕間」のコントであったが、非常に面白いと評判を呼んだ。ストリップ劇場であるから客は踊り子の裸目当てに入場しており、コントになると怒号混じりの野次が飛ぶ事も多かった。深見はそんな客を「うるせぇ、黙って観てろ!」と一喝して黙らせ、何事もなかったようにコントを続行し、野次を飛ばした客自身も笑わせる事もあったという。深見は特に同じ浅草系の芸人に評価が高く、「師匠」と呼ばれていた。それは「浅草に深見以外に師匠はいない」という敬意を含んだ特別な意味だった。芸人以外の浅草の人達からも師匠と呼ばれていた。不自由な手でギターなどの楽器を操りタップダンスを踏むなど多芸多才。アドリブや時事ネタから、場所柄の下ネタまでをも盛り込むコントが持ち味。後にテレビの世界で大活躍する東や萩本なども深見に世話になっていた。その他にも深見のファンを自称する人は数多い。しかしテレビに背を向けた事や、当時は家庭用ビデオが普及していなかった事などから深見の舞台映像は殆ど残っておらず、「幻の浅草芸人」と呼ばれている。

出典:wikipedia

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