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塙忠宝

塙 忠宝(はなわ ただとみ、文化4年12月4日(1808年1月1日) - 文久2年12月22日(1863年2月10日))は、江戸時代末期(幕末期)の国学者。塙保己一の四男。母は岡田イヨ。通称は次郎(じろう)。なお、忠宝の名は林述斎が命名。『史料』、『武家名目抄』、『続群書類従』などの編纂に携わった。また、『南朝編年稿』、『近世武家名目一覧』、『集古文書』などを編著した。文久2年(1862年)、江戸幕府老中安藤信正の命で、前田夏蔭と共に寛永以前の幕府による外国人待遇の式典について調査するも、孝明帝を廃位せしめるために「廃帝の典故」について調査しているとの誤った巷説が伝えられ、勤皇浪士達を刺激。12月21日、幕臣中坊陽之助邸(駿河台)で開かれた和歌の会から帰宅したところ、自宅兼和学講談所の前で知人の加藤甲次郎と共に何者かに襲撃され、翌日死去した。なお、大正10年(1921年)の六十年祭の折に渋沢栄一はこの暗殺者が伊藤博文と山尾庸三であったと明らかにしている。伊藤はこの年、忠宝暗殺のほかに御殿山で建設中の英国公使館を焼き討ちするなど過激な攘夷活動を行っていたが、翌年の長州藩による英国海軍視察に参加し攘夷の無謀さを思い知らされて以降は一転、開国派として明治維新の文民派の要として活動することとなった。後年に初代伊藤痴遊がこの暗殺事件について本人に問いただしたところ、「我輩は、よく知らんよ」と博文は返したものの、痴遊は「然しその態度や口振りから考えて言外の意味は読むことが出来た」としている(「伊藤痴遊全集」月報六号)。忠宝の子・塙忠韶は明治維新後、政府から召しだされ大学少助教に任ぜられ、文部小助教、租税寮十二等出仕、修史局御用掛へと出世をした。これについて小説家の司馬遼太郎は伊藤博文が後年、自責の念から忠宝の子を優遇したのではないかと推測している。

出典:wikipedia

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