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阿武隈 (軽巡洋艦)

阿武隈(あぶくま)は、日本海軍の軽巡洋艦。長良型の6番艦である。その艦名は、福島県、宮城県を流れる阿武隈川より名づけられた。阿武隈は、大正時代に多数建造された5500トン型軽巡洋艦の長良型の一隻である。1921年12月、浦賀船渠にて起工。1925年(大正14年)5月に就役した。他の姉妹艦に比べ、起工から就役までの期間が長いのには関東大震災が関係している。1923年3月に進水し、建造の最終段階である艤装作業に取り掛かり、1年前後で完成する予定であった。ところが、1923年9月の関東大震災により、造船所の施設が被害を受けてしまい、建造は一時中断となる。施設の復旧や予算の問題もあり、完成は進水から2年以上遅延することとなった。また、姉妹艦に比べ相違点が多いのも特徴である。1930年に衝突事故を起こし、艦首を損傷。当然、修理されることになるが、その際、スプーン・バウ型は凌波性に難があるという報告があったため、艦首の形状をダブル・カーベチュア型(ダブル・カーブ型)に変更する改修が行われた。この形状は長良型では阿武隈のみであり、姉妹艦との外見上の相違点となる。
1938年には、太平洋戦争開戦前に長良型の中で唯一、魚雷兵装の強化の改修受け、酸素魚雷の運用が可能となった艦となる。内容は魚雷発射管は後部の連装発射管2基を四連装発射管2基に交換。前部の連装発射管は撤去されウェルデッキは兵員室に充てられた。他の姉妹艦が開戦前にこの改修を受けなかったのは、1939年の第四次海軍軍備充実計画で新型の軽巡洋艦(後の阿賀野型4隻と大淀型2隻。大淀型については1隻のみに変更された)が建造されることが決まっており、「阿武隈」を除く長良型5隻と「夕張」は、老朽化とこれらの就役に合わせて第一線での運用から外される予定であったためである。
本艦のみ改修を受けたのは、艦齢が姉妹艦より若干新しかったため(当時海軍が所有する軽巡洋艦で(最上型を除いて考えた場合)艦齢が最も若いのが1925年11月に就役した川内型の那珂であった)、他の5500トン型軽巡洋艦よりも改装が優先されたと言われている。1921年12月、浦賀船渠にて起工。関東大震災の影響を経て、1925年(大正14年)5月に就役した。1925年6月、第1艦隊第3戦隊に編入される。1930年10月20日、大演習中に軽巡洋艦北上と衝突事故を起こし艦首を損傷、呉工廠で修理と並行して、艦首の形状変更の改修が行われる。1932年2月、第3戦隊(司令官:堀悌吉少将)に属し第一次上海事変に揚子江警備に従事する。1933年5月、第7戦隊(司令官:鈴木義一少将)旗艦を務め、1934年11月、第1水雷戦隊(司令官:町田進一郎少将)の旗艦となる。1933年ごろ、甲板左右の8cm単装高角砲2基を13mm連装機銃2基に換装。1936年5月には、13mm連装機銃2基を25mm連装機銃2基に換装された。1938年に魚雷兵装強化の改修受け、酸素魚雷の発射が可能となる。1938年2月、第2潜水戦隊(司令官:高須三二郎少将)の旗艦となり、翌年4月に中国沿岸で作戦に従事する。1939年11月、第1水雷戦隊(司令官:河瀬四郎少将)の旗艦となる。1941年11月、真珠湾攻撃作戦における空母機動部隊警戒隊用に臨時編成された第1水雷戦隊の旗艦としてに作戦に参加。1942年1月、ビスマルク諸島攻略作戦を支援し、さらにジャワ攻略作戦、インド洋作戦に参加した。5月に第1水雷戦隊は北方部隊(第5艦隊)に編入され、アッツ島攻略部隊旗艦として参加した。1942年5月、佐世保工廠にて艦橋前部の保式13mm四連装機銃1基を、九三式13mm連装機銃1基に換装。1942年7月16日0040、の犬吠埼南東170km地点付近で補助監視船の武蔵丸(東京都、104トン)と衝突事故を起こす。武蔵丸は船尾を大破し、翌17日に特設監視艇第七号正栄丸(四宮爲藏、102トン)の曳航で横須賀に到着した。1943年3月、アッツ島沖海戦に参加。7月にはキスカ島撤退作戦(司令官:木村昌福少将)に参加し、1,202名を収容し帰投する。1943年4月、魚雷発射管直上付近のシェルター甲板左右に25mm三連装機銃2基を追加装備。重量補償として5番主砲を撤去。同年11月、横須賀工廠にて7番主砲を撤去し跡に八九式12.7cm連装高角砲を搭載する対空強化改装を受ける。1944年3月、大湊にてカタパルトほか航空兵装の撤去。カタパルト跡地と後部甲板に25mm三連装機銃を追加装備。同年7月、横須賀にて後楼に22号電探を装備。25mm単装機銃および13mm単装機銃多数を増備。同年10月、内火艇2艇とカッター2艇をおろし25mm単装機銃10基を増備。13号電探の装備はされなかったと推測される。1944年10月、第5艦隊の遊撃部隊(21戦隊1水戦)として、スリガオ海峡より西村艦隊の後に続いて突入した。10月25日、スリガオ海峡海戦において敵魚雷艇群の攻撃を受け、魚雷1本が艦首第一砲塔の下に命中、第一砲塔員および弾薬庫に発生した一酸化炭素が電信室に漏入し電信員、暗号員の大部分を含む戦死者五十余名を出し、速力は低下した。旗艦は駆逐艦霞に変更になり、第一水戦司令官ならびに幕僚は霞に移乗した。阿武隈はその後撤退命令を受け駆逐艦潮を伴い戦線を離脱した。夜明けとともにアメリカ軍の攻撃機、雷撃機による空襲を受ける。空襲は損傷を受け待避していた重巡洋艦最上に集中。その後、最上は沈没した。阿武隈もP-38戦闘機による機銃掃射などの攻撃を受けるが、対空機銃により応戦。この時の空襲は何とか乗り切ることに成功した。翌26日、ミンダナオ島ダピタンで応急修理を行い、駆逐艦潮とともにコロンへ向け出航した。その途上、午前十時ごろにB-24爆撃機30機の空襲を受ける。まず対空砲火の届かない高度3,000メートル以上からの高空から爆撃を受け、その後700メートルから低空爆撃を受ける。この攻撃で250kg爆弾により直撃弾3発、至近弾4発を受け上甲板の人員は全滅。艦橋の人員も大部分が負傷または戦死。機関も停止し火災も発生した。米軍機はこれをみて攻撃目標を潮に変更した。阿武隈は停止後も必死の応急処置によりなんとか浮かんでいたが、発射管の魚雷(予備魚雷との証言もあり)が火災により誘爆。艦体に亀裂が生じ重油が流出した。これによって応急処置は諦め、総員退去命令が下され生存者は艦首より退艦。阿武隈は3時間後に艦首を立てた状態でネグロス島沖に沈んだ。戦死者は512名。阿武隈の生存者はなんとか米軍機の攻撃を回避した潮に救助され、全員マニラへ送り届けられた。沈没位置: ダピタン200度37浬地点付近 1944年10月26日 午後0:42

出典:wikipedia

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