第107師団(だいひゃくななしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。太平洋戦争中期以降、多くの師団が満州から南方に転用されたため、1944年(昭和19年)5月16日に、阿爾山(アルシャン)駐屯隊と独立混成第7連隊を基幹として第107師団が編成された。編成後、阿爾山方面の警備と治安維持に当る。1945年(昭和20年)8月9日のソ連対日参戦時には阿爾山南方に陣を構えていた。関東軍総司令部からの命令により、8月12日に、600km南方の新京(しんきょう、現在の長春)方面へ撤退を開始した。まず先遣隊は、ソ連軍戦車部隊に先回りされ壊滅的打撃を受けた。このソ連軍戦車部隊は8月14日には日本人避難民千数百人を虐殺する葛根廟事件を引き起こしている。 8月14日には南方90kmの西口(シーコー)にて進路を阻まれ、翌8月15日には追撃部隊との挟み撃ちにあってソ連軍に包囲されてしまった。最新兵器を備えたソ連軍の機械化師団に対し、旧式の装備しか持たない第107師団は大きな損害を受けたが、包囲を突破して北部の山岳地帯へ撤退した。このため孤立無援となり終戦の報が届かなかった。安部師団長によると8月18日に「無線機のラジオ受信により新京から放送した終戦の事実を知つたが(中略)謀略放送の疑なきにしもあらずと考え部下に之を知らせ」(安部師団長の手記『日ソ線における第百七師団の作戦』)ず、戦闘を続行したという。8月25日に、音徳爾西方でソ連軍と遭遇して戦闘となり、これを撃退した。驚いたソ連軍の要請により、関東軍参謀が派遣され、2日間の捜索後に師団を発見して停戦命令が伝えられた。停戦したのは8月29日のことであった。終戦後の戦闘で1500名あまりが戦死、さらにその後のシベリア抑留により2000名あまりが死亡した。
出典:wikipedia
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