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ムガル帝国

ムガル帝国(ムガルていこく、、英語:Mughal Empire)は、16世紀初頭から北インド、17世紀末から18世紀初頭にはインド南端部を除くインド亜大陸を支配し、19世紀後半まで存続したトルコ系イスラーム王朝(1526年 - 1858年)。首都はデリー、アーグラなど。ムガル朝(Mughal dynasty)とも呼ばれる。チンギス・ハーン以来モンゴル帝国系の諸将によってインダス川流域やカシミール地方から度々侵入を受けたが、インドの諸政権はムガル帝国の成立までモンゴル帝国一門に連なる諸勢力による領土的な支配を許していなかった。ムガル帝国の創始者バーブルは中央アジア出身で、ティムール朝の王族を父、チンギス・ハーンの二男チャガタイを祖とするモグーリスターン・ハン家のユーヌス・ハーンの娘を母とするテュルク・モンゴル系の遊牧貴族で、モンゴル帝国におけるチンギス・ハーン家と同族の帝国重臣バルラス部の出自かつモンゴル帝室の王女を后として娶って帝室の娘婿となるキュレゲンの家柄を誇る名門であった。彼がティムール朝の中央アジアにおける没落を機に現在のアフガニスタンからインドに移って第二次ティムール朝と言えるこの帝国を建国した。こうした経緯から、ムガル帝国は最後の君主バハードゥル・シャー2世の治世まで一貫してティムールを始祖と仰いでおり、ティムールの称号「アミール・ティムール・グーラカーン」、すなわち「グーラカーン Gūrakān (チンギス・ハーン家より子女の降嫁を受けたその娘婿(グレゲン mon:Güregen 、キュレゲン trc:Küregen)であるアミール・ティムールの一門」という意味で、自らは Gūrakānī などと呼んでいた。王朝名の「ムガル」とは、モンゴルを意味するペルシア語の「ムグール」(モゴール ; مغول Mughūl)の短縮した読みであるムグル(Mughul)が、ムガル(Mughal)に転訛したものである。すなわち、「ムガル帝国」とは「モンゴル人の帝国」という意味の国名になるが、これは飽くまでも他称である。ティムールの5代後の直系子孫である創始者バーブルは、中央アジアのトランスオクシアナをウズベクのシャイバーン朝に追われ、南のカーブルを本拠地として雌伏していた。だが、晩年に目標を中央アジア奪還からインドの奪取に切り替え、1526年4月21日に第一次パーニーパットの戦いでデリー・スルターン朝最後の王朝ローディー朝を破り、デリー、アーグラを制圧し、インドにおけるティムール王朝として、ムガル朝を建国した。バーブルの死後、後を継いだフマーユーンは、グジャラートに勢力を広げるが、ローディー朝と同じアフガン系のスール朝を開いたシェール・シャーによって1540年にデリーを追われ、やがてアフガニスタン方面にいた諸弟もフマーユーンに離反したため、ムガル朝は一時崩壊した。フマーユーンはシンド地方を放浪した末にイランのサファヴィー朝のもとに逃れ、その支援を受けて、1545年に弟たちの支配するカンダハール、カーブルを相次いで奪還した。その後、シェール・シャー死後内紛によって分裂したスール朝を討って、1555年にデリーに返り咲き、ムガル帝国を再建した。ムガル朝を真に帝国と呼ぶにふさわしい国家に発展させたのは、1556年に不慮の事故死を遂げたフマーユーンを継いだ、アクバルの治世である。治世の最初は、スール朝の武将ヘームーがデリーを占領したものの、第二次パーニーパットの戦いでこれを破った。アクバルの統治方針は、多様な社会階層からの人材抜擢とその方針の徹底であった。そのため、アクバルの政府にはシーア派のペルシャ人、アラブ人、現地ヒンドゥスターンで生まれ育ったムスリム、ラージプート、バラモン層、あるいは、マラーター人までが参画していた。また、ラージプートなどの在地勢力を自らの支配層に取り組むために、彼らが所有する領地からの収入を認めるとともに、ヒンドゥーであるラージプート出身の女性を妻とした。また、アクバルはイスラーム以外の宗教に対しても寛容であったことが知られ、1564年にムスリム以外に課せられるジズヤの廃止も行った。帝都ファテープル・シークリーには、バラモン、ヨーガの行者、ジャイナ教徒、イエズス会士(彼らはゴアに滞在していたポルトガル人である)、ゾロアスター教徒が集まり、議論をさせることを好んだ。さらに、サンスクリットで著述されていたインドにおける二大叙事詩『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』を翻訳させた。アクバルは行政改革をも実施した。イスラーム王朝の性格が強いムガル帝国であるが、帝国初期の行政機構は、農業に基盤を置いていた近代のほかのアジアにおける諸帝国との共通点が多い。一つが貴族制を導入したことである。貴族は「マンサブ」と呼ばれる位階が授与された。その位階は10の単位で表示され、貴族にはその数だけの騎兵を皇帝のために準備することが義務化された。さらに、文官と武官の区別が明確化され、相互にチェックできる仕組みであり、彼らには一定の「ジャギール」と呼ばれる一定の土地の徴税権が割り当てられたが、定期的にジャギールは、別の地域が割り当てられるようにすることで、彼らが地方で拠点を確保して帝国に反抗することを阻止した。アクバルは東はベンガル、南はデカン高原まで進出して北インドのほとんど全域を平定した。アクバルの他宗教への寛容性と完成された官僚制は息子、ジャハーンギールに引き継がれた。ムガル帝国はアクバルの活躍した16世紀後半から、その子孫たちが統治する17世紀末にかけて最盛期を迎えた。だが、領土の拡大に関しては、各方面で一進一退を繰り返した。ジャハーンギールの時代は、ラージャスターン地方で抵抗していたメーワール王国の征服に着手したが果たすことができず、その半独立的な地位を認めた。また、カンダハールをサファヴィー朝のアッバース1世に奪取されると有効な対策を採ることができなかった。さらに、デカン高原方面の進出では、アフマドナガル王国の抵抗が続いた。1628年、父ジャハーンギールの死亡により、シャー・ジャハーン(在位1628 - 1658)が皇帝として即位すると、1633年にアフマドナガル王国を滅ぼすことに成功した。1636年には、ビジャープル王国と講和を結び、その旧領を分割した。だが、デカン高原での前進と比べて、アフガニスタン問題は大きな問題を抱えていた。カンダハールの再攻略に成功したものの、1649年、ムガル帝国による中央アジア遠征の間隙を縫って、サファヴィー朝が再度、カンダハールを攻略した。このことにより、カンダハールは、ムガル帝国領から離脱した。シャー・ジャハーンの治世は、息子たちによる血生臭い王位継承戦争によって終わり、1658年に勝利した第6代皇帝アウラングゼーブによって、彼自身はアーグラ城のタージ・マハルの見える部屋に幽閉された。アウラングゼーブは曾祖父アクバルから受け継がれてきた宗教融和を否定し、シャリーア(イスラーム法)による統治を行い、1679年にはジズヤを復活した。デカン高原方面の領域拡大は、アウラングゼーブの時代に達成された。アウラングゼーブは、1681年からデカン高原方面への遠征(デカン戦争、1681年 - 1707年)に繰り出し、1686年にはビジャープル王国、1687年にはゴールコンダ王国を滅ぼし、 1707年3月3日に死ぬまでに南端部を除くインド亜大陸にまたがる、帝国の最大領土を実現した。しかし、強勢を誇ったムガル帝国も18世紀初頭にアウラングゼーブが死ぬと、帝国の没落、繁栄を支えた政治、軍事的構造の崩壊が起こった。帝国の崩壊の原因は、大きくまとめて3つに要約される。アウラングゼーブの後を継いだのが、バハードゥル・シャー1世で、即位したときには既に64歳と老齢であり、彼に対して、シク教徒のリーダーであったが挑戦した。シク教徒は、数世紀にわたり、イスラーム政権と影響しあいながら形成された勢力であった。アクバルの時代に、シク教団はアクバルの保護を獲得し、アムリトサルを拠点に事実上の自治国を建設した。その後、シク教団は世俗的権力の獲得に乗り出す。しかし、アウラングゼーブの時代の指導者であるゴービンド・シングは、ムガル帝国を利用し、さらには、その支配に抵抗を試みた。だが、アウラングゼーブの治世の末期に、ムガル帝国軍と戦い、敗北してしまう。バンダ・バハードゥルは、パンジャーブ地方のザミーンダールと豪族を味方に、ムガル帝国と戦闘状態に入る。シク教徒の反乱自体は、1715年にバハードゥルの処刑によって終了した。この後、シク教徒が治めていた地域は、小規模の国家群に分裂してしまい、19世紀にシク王国を形成した。シヴァージーを中心にデカン高原でも自立の動きが強まった。シヴァージーは、マラーター族を率い、アウラングゼーブに対してゲリラ戦を展開し、アウラングゼーブを苦しめた。1674年、シヴァージーはマラーター王国を創始して、1680年に死ぬまで王座にあった。のち、1681年以降、アウラングゼーブによってデカン遠征が行われて、1689年息子サンバージーが殺されるなど、その息子と孫の治世には苦難が続いた。だが、アウラングゼーブの死後、1708年にマラーター王国を中心にマラーター同盟が結成され、バージー・ラーオの治世に勢力を拡大し、1737年には帝国の首都デリーを攻撃した(デリーの戦い)。当時のマラーター同盟を支えていたのは、地方の末端まで行政と軍が分離解消していたこと、単一の徴税請負制度が確立していたことが挙げられる。また、常備軍を整備し、ヨーロッパ出身の軍事教官を雇用していたこともその背景としてあった。しかし、1761年に第三次パーニーパットの戦いでアフガン勢力のドゥッラーニー朝に敗北して、同盟は崩壊してしまう。こうしたインド内だけの問題ではなく、イラン方面からも強敵が迫ってきた。18世紀になるとサファヴィー朝は完全に衰退して、混乱に乗じて軍人出身のナーディル・シャーが1736年にアフシャール朝を創始し、サファヴィー朝のアッバース3世は廃位された。1739年、ナーディル・シャーによってデリーを占領され、虐殺や略奪などといった蹂躙を受けて、甚大な打撃を蒙った。このとき、多くの財宝とともに、かの有名なシャー・ジャハーンの「孔雀の玉座」も奪われた。これにより、ムガル帝国の権威は地に落ち、以降帝国はさまざまな勢力の脅威にさらされることとなった。また、その死後、アフガニスタンに成立したドゥッラーニー朝も帝国の領土に何度も侵攻し、これを撃退するためにはアワド太守の助力を借りなければならなかった。このように、帝国はインド内部だけでなく、インド外部からの圧力にもさらされていた。1600年、イギリスは東インド会社を設立し、インド亜大陸に最初に商船団を派遣したのは、1608年のことで、西北インドの港スーラトに派遣したこの時、ジャハーンギールから有利な条件で貿易を行う許可を獲得した。1639年には、チェンナイの領主からこの地を買収し、東インド会社は要塞の建設が認められると同時に、イギリス東インド会社のこの地においての貿易において、関税は免除されると同時に、他の会社が貿易行った場合には、イギリス東インド会社にその会社に課せられる関税の半分が支払われるという条件で、マドラスと改称してインド貿易の橋頭堡を築いた。また、18世紀後半までにプラッシーの戦い、カーナティック戦争で、イギリス勢力は南インドとベンガル地方に浸透していた。だが、18世紀後半に即位した皇帝シャー・アーラム2世はイギリスの支配に抵抗した唯一の君主であり、帝権の回復を狙い、アワド太守とベンガル太守と結んで、1764年にイギリスに戦いを挑んだが敗北した(ブクサールの戦い)。そのため、1765年にアラーハーバード条約を締結。シャー・アーラム2世はイギリスに、ベンガル、ビハール、オリッサ三州のディーワーニー(収租権)を授けなければならず、これによりこの三州は事実上イギリスの領有するところになった。シャー・アーラム2世はその後、1771年にマラーター同盟の諸侯シンディア家と結んで、1784年にはその当主マハーダージー・シンディアを摂政に任命して、イギリスに抵抗しようとした。しかし、イギリスが1799年にマイソール戦争でマイソール王国に勝利したのち、1803年に第二次マラーター戦争で首都デリーが占領されて、ムガル帝国はイギリスの保護下に入ってしまった。このように、マラーター戦争、シク戦争の戦争で帝国分裂後の地方政権に勝利し、従順なものは保護国(藩王国)化するなど、イギリスはインドの植民地化を急速に進めていった。19世紀、アクバル2世の治世に入ると、ムガル帝国はもはやすっかり崩壊し、デリーとその周辺を支配するのみの小勢力となっていた。だが、1857年に大規模な反英闘争、いわゆるインド大反乱(シパーヒーの乱、第一次インド独立戦争とも)が起こると、82歳の老皇帝バハードゥル・シャー2世が反乱軍の最高指導者として担ぎだされるほどの威光は保っていた。しかし、バハードゥル・シャー2世はデリーが攻撃されると降伏してしまい、1858年、大反乱を鎮圧したイギリスは彼を裁判にかけて有罪とし、ビルマへと流刑に処して退位させた。これによりティムール王朝から数えて約500年続いた王朝は完全に消滅し、ムガル帝国は332年にわたるインドにおける歴史を閉じた。イギリスはムガル帝国を滅ぼしたのち、イギリス東インド会社を解散させ、1858年に帝国に変わる形として、イギリス領インド帝国を成立させた。また、1877年にはイギリス国王をインド皇帝に推戴した。だが、インド帝国の支配は、インドの人々やガンディーなど知識人の強い抵抗をうけ、70年で崩壊した。1947年8月15日、インドがイギリスの植民地支配から独立したとき、インド初代首相ジャワーハルラール・ネルーが独立宣言の演説をしたのは、ムガル皇帝の居城だったデリー城であり、毎年8月15日のインド独立記念日には、この城で首相演説が行われている。ムガル帝国における文化で特筆すべき点は、建築と絵画、ペルシャ語の詩文である。建築分野はペルシャの影響を残しつつも、インド的な要素を取り入れていった。ムガル帝国は首都をデリー、アーグラ、ラホールと度々、移動したため、各地でイスラーム建築が建設され、インド亜大陸における建築様式に影響を与えた。初代皇帝バーブルはアヨーディヤーにバーブリー・マスジドを建設した。また、バーブルの庭園に対する嗜好は子供たちに受け継がれ、ムガル建築の特色となった。ムガル建築が、飛躍的な発展を遂げたのは、アクバルの時代である。フマーユーン廟の建設は北インドにおける中央集権国家が確立した証左であった。さらに、新都ファテープル・シークリーの建築群は、インドを代表する赤い石を使用し、木造建築を模した石造建築というインドの伝統的な建築工法を導入した。庭園建築は、ジャハーンギールも好んでおり、風光明媚であるカシミール地方に多くの庭園を建設した。その代表例がシュリーナガルのシャーリーマール庭園である。シャー・ジャハーンの嗜好は白大理石であったといわれ、特にタージ・マハルが名高い。デリーの赤い城のように赤砂岩を用いた建築物も残しているが、皇帝の私的空間には白大理石を好んで使用した。アウラングゼーブは、ラホールにバードシャーヒー・モスクを建設した。フマーユーンはスール朝との抗争で、サファヴィー朝のタフマースプ1世の宮廷に身を寄せた時期があったが、その際に、フマーユーンはペルシャの細密画に触れる事となった。ムガル絵画は、フマーユーンがペルシャから2人の画家を連れて帰った事を出発点とする。ムガル帝国が成長するにつれ、ヒンドゥーの要素を取り入れながら、発展を遂げていった。肖像画、動物や植物、風景、『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』といった叙事詩を題材に採用した。『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』など古典がペルシア語に翻訳され、18世紀以降はヒンディー語やウルドゥー語の詩も次第に栄えた。ウルドゥー文学では、恋愛詩を書いたミール・タキー・ミールや、ペルシア語彙を用いた複雑な作風のらが有名である。帝国末期にはデリーとラクナウを中心に詩が隆盛し、バハードゥル・シャー2世はウルドゥー詩を愛好し、自身がザファルと号する詩人でもあった。

出典:wikipedia

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