グアルディア・ピエモンテーゼ(; )は、イタリア共和国カラブリア州コゼンツァ県にある、人口約1900人の基礎自治体(コムーネ)。この地域には中世、キリスト教の異端とされたワルドー派の信者たちが、ピエモンテ山間部のオック語が話される地域()から迫害を逃れるため移り住んだ。この町は1561年の虐殺事件まで、カラブリアにおけるワルドー派の中心地のひとつであった。グアルディア・ピエモンテーゼには現代においても数百人のオック語話者がいる。地名は歴史の中で変遷を経ている。グアルディア () は「監視する」「外を見る」 () を意味しており、おそらくは11世紀に海岸に建設された監視塔に由来している。グアルディアは、地元の有力な領主であるフィスカルド家(. フスカルドに起源を持つ一族であり、フスカルド家 ともいう)にちなみ、グアルディア・フィスカルディ () と呼ばれるようになった。オック語を話すワルドー派の人々が定住するようになると、グアルディア・デイ・ヴァルディ () という名になり、ワルドー派が弾圧されるとグアルディア・ロンバルダ () と呼ばれるようになった。現在のグアルディア・ピエモンテーゼ () に改められたのは1863年のことである。この名はワルド派の人々がやってきたピエモンテに由来する。コゼンツァ県西部に位置するコムーネ。町域はティレニア海に面する。パオラから北北西へ約12km、ディアマンテから南南東へ約28km、県都コゼンツァから北西へ約29km、スペッツァーノ・アルバネーゼから南西へ約35km、州都カタンザーロから北西へ80kkmの距離にある。隣接するコムーネは以下の通り。グアルディアの町がいつ建設されたかは知られていない。「グアルディア」の地名のもととなった海岸監視塔 () は、11世紀に建設された。これは、沿岸部を襲撃するアラブの海賊(サラセン海賊)に対抗するためのものである。ワルドー派は12世紀後半にリヨン出身のピーター・ワルドーを中心に形成されたキリスト教の教派であるが、1184年にローマ教皇から異端宣告を受けた。12世紀から13世紀にかけて、ボッビオ・ペッリーチェおよびトッレ・ペッリチェ(現在はピエモンテ州トリノ県に所属する)一帯での異端審問から逃れたワルドー派の人々が、カラブリアに到着した。1315年までに、かれらはモンタルト・ウッフーゴに定住し、またのちにはサン・ソスティ、ヴァッカリッツォ、サン・ヴィンチェンツォにも定着した。地元の領主であるスピネッリ家(フスカルドの領主であった)は、かれらに避難所を与えた。1375年までには、かれらは海抜500mの丘に定住した。これが現在のグアルディアの「上の町」にあたる。長年にわたり、ワルドー派の人々は表向きローマ・カトリックの信者を装って生き、ミサに参加したり、子供をカトリック教会で洗礼させたりした。しかし私的な領域でかれらはその信仰を守り、およそ2年の間隔で巡ってきては数日間滞在していくワルドー派の巡回説教師の説教を受けた 。16世紀前半に展開された宗教改革の成功を受け、それまで潜んでいたワルドー派の人々の多くは、自らの本当の信仰を隠さないようになった。1532年、ワルドー派はピエモンテの Chanforan で開かれたシノドにおいて、信仰を公にすることを決議した。カラブリアのワルドー派の人々は、Marco Uscegli を特使としてジェノヴァに送り、説教者の派遣を求めた。これにより Gian Luigi Pascale がカラブリアに派遣され、グアルディア・ピエモンテーゼとサン・ソスティにワルドー派の教会が設立された。ピエモンテでのワルドー派の活動活発化を受け、影響力のあったモンドヴィ司教・枢機卿ミケーレ・ギスリエーリ(のちの教皇ピウス5世)は、1560年、ワルドー派に対する十字軍を開始した。カラブリアのローマ・カトリック教会修道院長 Giovan Antonio Anania はギスリエーリに対し、カラブリアのワルドー派が独自の説教師を採用していることを報告したため、ギスリエーリは修道院長に対し、コゼンツァ大司教 Taddeo Gaddi と連携して異端ワルドー派を根絶するよう命じた。まず、Anania は脅迫をもってワルドー派に改宗を強要しようとしたが、かれらはこれを拒否した。不吉な予感を得た多くのワルドー派の人々は、周辺地域から要塞化されたグアルディアへと逃げこんできた。グアルディアの領主サルヴァトーレ・スピネッリ(、1506年頃 – 1565年)はワルドー派を落ち着かせるよう試みるとともに、 Pascale と Uscegli には逃亡を勧めたが、無駄に終わった。異端に与しているという非難を受けることを望まなかったスピネッリは、謀略を用いた。1561年6月、彼は40人の家臣とともに町の中に入ることを求めたが、その際には非武装で赴くと伝えた。領主に忠実なグアルディアの人々は、かれらを町に入れた。6月4日から5日にかけての夜、スピネッリとその部下たちは隠し持っていた武器を執り、町を奪取した。そして続く2週間の虐殺(ポグロム)の中で、スピネッリたちはグアルディアとその周辺で2000人のワルドー派を殺害する。サルヴァトーレ・スピネッリは、異端ワルドー派の根絶を記念するために、グアルディアにドミニコ会の教会 を寄進した。1565年4月、彼はその功績をもってフスカルド侯爵に叙せられた。ワルドー派の教会は破壊された。虐殺を生き延びた人々は、ローマカトリック教会に改宗しなければならず、ともにワルドー派の子孫である男女の結婚は禁止された。町の家の正面扉には と呼ばれる覗き窓が外から穿たれることとなったが、これは住人が完全に改宗しワルドー派の伝統を本当に遠ざけているかを、異端審問官が確認できるようにするためのものであった。このような覗き窓が穿たれた扉は、現在も見ることができる。グアルディア・ピエモンテーゼはオック語の言語島として知られる。「エスノローグ」ではオック語の項目において、グアルディア・ピエモンテーゼでもこの言語が話されていることが挙げられている。オクシタニア・ナショナリズムの中には、グアルディア・ピエモンテーゼを「オクシタニア」に含む主張もある。当地で話されるオック語は、ヴィヴァロ・アルピーネ方言(アルピーネプロヴァンス語) の変種で、グアルディア語とも呼ばれる。「危機に瀕する言語のレッドブック」によればグアルディア語の話者は340人で、「重大な危険」(severely endangered)に置かれているとされる。この町の正門 (血の門)の名は、1561年の虐殺を記憶するもので、町内で殺戮された人々の血がすべてこの門から流れ出たとされることから名づけられた。この門の隣には今日 と名づけられた文化センターがあり、グアルディアのワルドー派の歴史に関する常設展示も行っている 。現在の (ワルドー教会広場)は、かつて破壊されたワルドー派教会のあった場所である。1975年、この広場にはピエモンテから贈られた岩が設置されているが、これはピエモンテの岩がちな山岳地帯から逃れたグアルディア人の子孫を記憶するために、グアルディアの姉妹都市であるトッレ・ペッリチェから贈られたものである。1561年の虐殺の中の犠牲者のうち、名前が知られている118人の犠牲者の名前が、岩にはめ込まれた銘板に刻まれている。
出典:wikipedia
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