楢型駆逐艦(ならかたくちくかん)は、日本海軍の2等駆逐艦。同型艦6隻。第一次世界大戦中に建造された桃型駆逐艦4隻は、竣工すると樺型駆逐艦の8隻に続いて地中海に派遣されることになった。1917年(大正6年)5月21日、海軍大臣から内閣総理大臣に地中海派遣の代艦として駆逐艦6隻建造の請議を提出、その予算は翌22日に直裁を受けて建造が決まった。予算額は大正6年度のみで1隻1,696,792円、総額10,180,752円、実際の支出は10,175,240円(円未満省略)だった。建造は各海軍工廠4カ所で行い同年10月から11月に起工、翌1918年(大正7年)3月から4月に全艦竣工した。基本計画番号は前型である桃型と同じF27。船体に変更は無いが、地中海での使用実績から船体の各部を補強し、排水量が15トン増えた。機関出力も増えているが、これは増加した排水量で桃型と同じ計画速力31.5ノットとするためで、機関に変更は無い。その他の詳細は桃型駆逐艦#艦型を参照。大正末から昭和の初めにかけて中国方面へ警備のためしばしば進出している。これは二等駆逐艦は吃水が浅く長江河口付近の行動に便利なこと、また艦形小型による航続力、凌波性の不足が中国沿岸では問題にならないこと、からである。楢型は6隻からなり、定数4隻の駆逐隊は一個半隊編成できる。それまで建造された二等駆逐艦は計16隻で四個隊を編成していたため、半個隊は一等駆逐艦の海風型駆逐艦2隻と混成駆逐隊を編成している。横須賀鎮守府籍の楢・榎で編成した。編成日は両艦の竣工日である。前日まで第二駆逐隊を編成していた一等駆逐艦海風・山風は、楢・榎と交代する形でいったん駆逐隊から離れた。しかし、同年8月1日に二駆へ復帰し、2等級2形式の混成駆逐隊となり、昭和11年の除籍までこのメンバーとなる。大正7年11月に舞鶴鎮守府へ転出して二代目第三十二駆逐隊となる。舞鶴鎮守府廃止に伴い、大正11年に呉鎮守府へ転出し、二代目第十七駆逐隊となる。昭和5年に駆逐艦より掃海艇に転じたため、4隻ともそろって第六掃海隊に転じた。楢・榎と交代するまでの海風型駆逐艦からなる駆逐隊の変遷いついては海風型駆逐艦#駆逐隊・掃海隊の変遷を参照。所属部隊と所属駆逐艦の変遷は以下のとおり。各艦の戦歴は各艦の項目を参照。同じく横須賀鎮守府籍からなる桑・槙・欅・椿からなり、編成から除籍まで顔ぶれは変わらない。四駆としては三代目。大正11年12月1日、これまで飛び番だった峯風型駆逐艦の駆逐隊を第一~第四にそろえるため、楢型四駆が峯風型五駆に番号を譲り、第九駆逐隊にずれた。九駆は、大正7年4月1日の駆逐隊番号改定まで長らく佐世保鎮守府の第二十五駆逐隊が名乗っていた番号で、横鎮では初めての隊番号である。後半は中国大陸駐留が長い。所属部隊と所属駆逐艦の変遷は以下のとおり。各艦の戦歴は各艦の項目を参照。
出典:wikipedia
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