ロイ・キャンパネラ(Roy Campanella, 1921年11月19日 - 1993年6月26日)は、1940 - 1950年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグ、およびニグロリーグの選手。ポジションは捕手。ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。右投げ右打ち。ニックネームは"Campy"(キャンピー)。リーグ最優秀選手を3度獲得、ドジャース在籍10年間でチームを5度のワールドシリーズに導いた。イタリア人の父と、アフリカ系アメリカ人の母を持つキャンパネラは、1937年に15歳でニグロリーグのワシントン・エリート・ジャイアンツに入団。チームのスター選手になる。またこの頃は時折メキシカンリーグでも野球をしていた。にキャンパネラはブルックリン・ドジャースとマイナー契約を結び、当時のクラスBリーグのナシュア球団に所属。同年キャンパネラは前任のウォルター・オルストンから監督職を引き継ぎ、アフリカ系アメリカ人としては初めての監督職を務めている。ジャッキー・ロビンソンがデビューした翌年の、26歳でドジャース昇格を果たす。MLBでも、打力に加え機敏な守備、強肩など総合力の高さを発揮し、翌にはオールスターゲーム、ワールドシリーズへの出場も果たした。には、打率.325、108打点を上げ、リーグのMVPに選ばれた。には142打点、103得点、41本塁打で二度目のMVPを獲得、3度目のMVPはで、この時は打率.318、107得点、32本塁打を記録した。同年のワールドシリーズでは、それまで何度も対戦し敗退してきたニューヨーク・ヤンキースと再び対戦、キャンパネラは2勝先行された後の第3戦と第4戦に本塁打を放って対戦成績をタイに持ち込み、念願だったワールドシリーズ制覇を成し遂げた。シーズン最終戦、ドジャースのエベッツ・フィールドでの最終戦に出場する。この年のオフに、交通事故が元で現役を引退したため、この試合が彼の現役最後の試合となった。1958年シーズン開幕前、ニューヨークのハーレムで酒屋を営んでいたキャンパネラは、車を運転して店からロングアイランドの自宅に戻る途中、路上の氷片にぶつかって横転する事故を起こした。この事故で下半身麻痺となり、以後ずっと車椅子での生活を余儀なくされた。最初は手も動かせない状態だったのだが、懸命にリハビリに取り組み両手を動かせるまでに回復した。1959年にはヤンキースとの引退試合が挙行され、キャプテンのピー・ウィー・リースが押す車椅子に座ったキャンパネラが登場すると、本拠地ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムを埋めた93,103人の大観衆は、一度もロサンゼルスでプレイすることのなかった名捕手に大歓声と総立ちの拍手を送り、キャンパネラは涙が止まらなかった。この試合は非公式戦(オープン戦)であったが、MLB史上最多観客を記録した試合として、半世紀近く記録に残った。(2008年3月29日、ドジャースのロサンゼルス移転50周年を記念したオープン戦(対レッドソックス)が同じロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで開催され、米国スポーツ史上最多、そして世界の野球史上でも最多となる115,300人の観客を動員し、更新された。)1969年、投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。アフリカ系アメリカ人関係の選手としては、チームメイトだったジャッキー・ロビンソンに次ぐ栄誉だった。1972年6月4日には、彼の背番号『39』が、サンディ・コーファックスの背番号『32』と共にドジャースの永久欠番に指定された。1993年に心臓発作のため、カリフォルニア州ウッドランドヒルズの自宅で死去。
出典:wikipedia
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