デール・ブレッケンリッジ・カーネギー(Dale Breckenridge Carnegie:1922年頃までは「Carnagey」と表記)(1888年11月24日 – 1955年11月1日)は、アメリカの作家で教師にして、自己開発、セールス、企業トレーニング、スピーチおよび対人スキルに関する各種コースの開発者。ミズーリ州の貧しい農家に生まれ、今日でも支持の高いベストセラー『人を動かす』(1936年)(原題:How to Win Friends and Influence People)の著者として有名である。また、『道は開ける』(1948年)(原題:How to Stop Worrying and Start Living)、『知られざるリンカーン』(原題:Lincoln the Unknown)(1932年)なども著している。カーネギーの著書では、他者に対する自己の行動を変えることにより、他者の行動を変えることができる、という考えが柱のひとつとなっている。 デール・カーネギーは1888年、ミズーリ州メリービルで、貧しい農家の父、ジェームス・ウィリアム・カーネギー(1852年2月インディアナ州生まれ、1910年までは生存)と、母、アマンダ・エリザベス・ハービソン(1858年2月ミズーリ州生まれ、1910年までは生存)の間の次男として生まれた。カーネギーがまだ幼い頃、一家はミズーリ州ベルトンへ移住した。10代のカーネギーは、毎朝4時に起きて両親が所有する牛の乳搾りをしながら、 ウォーレンバーグ州立教員養成大学で教育を受けた。大学を卒業後、最初に就いた仕事は、牧場主に通信教育を販売する仕事であった。その後、Armour & Companyにてベーコン、石鹸およびラードの販売を手掛け、ネブラスカ州、南オマハの販売担当として同社の国内リーダーとなるまで成功した。[1] 貯金が500ドル(現在の価値にしておよそ1万2,300ドル)に達した1911年、 デール・カーネギーは講演会(シャトークア)の講師になるという長年の夢を叶えるために販売職を退職した。そして、ニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツに入学し、その上、原題:Polly of the Circusの巡回興行でハートレイ牧師を演じたとの記述はあるものの[2]、役者としてはまったくといっていいほど日の目を見なかった。興行が終わると、カーネギーは無職のほぼ一文無しの状態でニューヨークへ戻り、125丁目のYMCAを住まいとした。そこで、スピーチを教えるという構想を抱き、クラスを受け持たせてもらう見返りとして純利益の80%を渡すと言って、「Y」というマネージャーを説得したという。 最初のクラスでは教材に事欠いた。カーネギーは即興で「何が自分を怒らせるか」について話すよう生徒たちに提案したとき、それによって話し手は公衆の面前で話すことを恐れなくなるという発見をした。[3] この1912年の初講義から、デール・カーネギーのコースは徐々に進化を遂げた。カーネギーは、極普通のアメリカ人の、もっと自分に自信を持ちたいという願望に応える形で、1914年までには、500ドル (現在の価値にしておよそ1万1,500ドル) を毎週稼ぎ出した。 おそらくカーネギーのマーケティング戦略でもっとも成功したもののひとつは、アンドリュー・カーネギー(カーネギー本人とは親戚関係にない)が広く知られ尊敬を集める当時、「Carnagey」から「Carnegie」へと名前の綴りを変更したことだろう。1916年までには、デール・カーネギーは、講義会場のカーネギーホールを満員にできた。[4] カーネギーの最初の著作は、後に『Public Speaking and Influencing Men in Business』(1932年)と改題された『Public Speaking: a Practical Course for Business Men』(1926年)であった。しかしながら、カーネギーの名声が最高潮に達したのは、なんといっても1936年、Simon & Schusterから『人を動かす』が出版されたときであろう。同書は、発売と同時にベストセラーとなり[5]、数ヶ月のうちに17版が刷られた。[4] カーネギーが息を引き取るまでには、31言語に訳され、500万部を売り上げた。また、デール・カーネギー学院の修了生は45万名にのぼった。[6] 『人を動かす』の中でカーネギーは、当時の社会人向け教育において、15万件以上のスピーチを評論したとしている。[7] 第一次世界大戦では、米国陸軍に従軍した。[8] カーネギーの最初の結婚は、1931年に破綻した。1944年11月5日には、オクラホマ州タルサでドロシー・プライス・ヴァンダプールと再婚するも、その後離婚している。ヴァンダプールは、彼女の最初の結婚で娘ローズマリー、カーネギーとの結婚でドナ・デールの2人の娘をもうけている。 カーネギーは、ニューヨークのフォレストヒルの自宅で息を引き取った。[9] ミズーリ州カス郡ベルトンの墓地に埋葬されている。Dale Carnegie & Associates, Inc. 出版の公式の伝記によれば、カーネギーはホジキン病で尿毒症を併発し、1955年11月1日に死亡した。[10]1936年出版の『人を動かす 』(原題:How to Win Friends and Influence Peoples)は現在でもなおも支持されるビジネスおよびビジネスコミュニケーションのスキルに関する著作である。デール・カーネギーが著した4部構成の同書は、ビジネスならびに人生において成功するためのアドバイスが詰まっている。『人を動かす』は、デール・カーネギー・トレーニングにてツールとして使用されており、以下の4部が含まれる。1. 第1部:人を動かす三原則2. 第2部:人に好かれる六原則3. 第3部:人を説得する十二原則4. 第4部:人を変える九原則デール・カーネギー・コースは、デール・カーネギーのテクニックに基づき、効果的な話し方と人間関係について実践的に学ぶプログラムである。1912年の発足以来、90カ国以上で開催され、800万人以上がコースを修了している。[5]コースでは、対人スキルを強化し、ストレスを管理、そして急速に変化する職場環境に対処するために、チームダイナミクスとグループ活動を軸とする独自のプロセスが用いられる。その他のテーマには、コミュニケーション、建設的な問題解決、リーダーシップなどがある。コースは、以下の5段階の継続的な向上サイクルに基づく。1. 自信の構築2. ピープルスキル(人間関係)3. コミュニケーションスキル4. リーダーシップスキル5. 悩み・ストレスのコントロール1932年、デール・カーネギーは初めて日本の地に降り立った (それは4回の来日のうちの最初の訪問だった)。1939年(昭和14年)7月24日、カーネギーは2回目の来日を果たした。日米間のコミュニケーションの向上と文化理解を深めることを目指していた日本の国際観光局と鉄道省に招かれ、デール・カーネギーは「教育とくつろぎのための旅行」と自ら呼んだ旅で日本を訪れたのだった。。カーネギーを乗せた汽船は横浜に到着すると、波止場で開かれたインタビューで彼は、日本の伝統的な宿に泊まり、本物の日本を体験したいと語った。また、日本の農場を訪問することを希望した。彼自身も農場で育ち、今でもミズーリ州に農場を所有しており、日本の農業がどんなものか知りたいと語った。日本人の印象について訊かれると、今まで出会った人の中で「最も礼儀正しい人たち」と語った。礼儀についてはアメリカ人も日本人からたくさん学ぶことがあるとも語った。カーネギーは、そのまま東京の帝国ホテルに向かった。7月24日から30日まで、東京の外務省や軽井沢の東京日日新聞の代表者らと会談した後、7月31日には東京アメリカンクラブで開催された特別昼食会で主賓として人間関係についてのスピーチを行った。カーネギーは宮の下、川奈、熱海、蒲郡、岐阜、山田、鳥羽、奈良、京都、広島をそれぞれ訪問しながら下関まで旅行した。旅行中、宮の下の富士屋ホテル、奈良市の奈良ホテル、蒲郡の常盤館、岐阜の長良川ホテルなどに宿泊し、三重県の伊勢神宮や鳥羽のミキモト真珠養殖場を見学する機会もあった。。8月6日に下関から日本領朝鮮・釜山行きの汽船に乗り、朝鮮半島を通りながらやがて北京と上海に到着した。 1939年9月1日、カーネギーは帰国前に3回目の来日を果たした。その際は鎌倉の大仏を訪れ、再度、東京の帝国ホテルに宿泊した。そして1939年9月4日にアメリカ帰国の途についた。 1953年7月、カーネギーは4回目となる来日を果たし、前回の旅で知り合った友人と再会して京都観光を楽しんだ。。望月・フランク・幸長がデール・カーネギーと出会ったのは 1939年、ちょうど太平洋戦争が始まる直前であり、後にデール・カーネギー・トレーニングが日本にもたらされることになった。[13]望月は1928年に山梨県鰍沢地域にあった五開村の農家に生まれた。彼の父は彼が10歳の時に亡くなり、彼もデール・カーネギーと同様に、農村での貧困がどのようなものであるか知っていた。貧しい生まれにもかかわらず、東京の有名な慶応大学に進み、卒業後、1年間YMCAでホテルマネジメントを学び、その後岐阜県にある長良川ホテルに就職した。1939年、まだ慶応の学生だった頃、望月はローランド・イーストレイク教授に請われ、最初に派遣された通訳の後任としてデール・カーネギーの通訳になった。望月は熱心に英語を学んでおり、カーネギーの日本滞在中、ずっと彼に付き添った。戦時中、望月は徴兵され、日本軍が占領していた香港のペニンシュラホテルの副支配人になった(1942~1945)。彼は43か国から来た1,000人の従業員を管理するのに苦労し、デール・カーネギーの『人を動かす(How to Win Friends and Influence People)』に書かれている最初の9原則を頼りにした。戦後、彼は荒廃した日本に戻った。英語が話せたので、当時、米軍の第8陸軍が運営していた軽井沢の万平ホテルで通訳とアシスタントマネージャーの職を得た。そこで得たコネによって、アメリカで勉強したいという彼の希望を支援してくれる人たちに後に出会うことができた。その頃、彼はフミと結婚した。彼女は、明治時代に長野県松本に移ってきた、愛知県の武家の出身だった。1950年望月とフミはアメリカに渡り、アリゾナ州のフェニックス・カレッジとミシガン州立大学でホテル経営とツーリズムを学んだ(彼はミシガン州でホテル経営の学位を得た最初の日本人だった。1954年の修了後、ヒルトンホテルの招待を受け、ヒルトンの経営システムを学んだ。当時、ヒルトンは東京に新しいホテルを建築する予定であり、日本人の大卒を入社させる方針だった 。このようなヒルトンの支援があり、望月はアメリカに滞在するために必要な労働ビザを入手できた。シカゴのヒルトンで働いているときに、彼はデール・カーネギーと再会した。「カーネギーはとても謙虚な人でした。人の短所を批判する代わりに、人の長所を心から賞賛しました」。望月はシカゴのコンラッド・ヒルトン・ホテルとパーマー・ハウスで研修生として4年間、ホテル経営のさまざまな部署で働いた。副社長のハンドンは、デール・カーネギーのコースを受講するように彼に提案した。「私がパーマー・ハウスにいた頃、ヒルトンの役員はリーダーシップに長けていることに気づきました。また、お客様の対処に優れているのは当然のことながら、特に部下の対処にも優れていました。その理由を尋ねたとき、多くの人たちがデール・カーネギー・コースの卒業生だったことが分かりました。このコースを受講する以前は、自分にとっての第2言語である英語を使って、アメリカ人の前でスピーチを行うなんて考えてみたこともありませんでした。しかし、5回目のセッションまでには、私は完全に変わっていたのです」。当時、シカゴのスポンサー(フランチャイズ)だったエヴァンスも、英語で受講することは彼にとって困難であることを認めつつ、望月にコースを受講するように勧めた。彼の講師で、シカゴ銀行の代表だったブラウンは望月のことを「勇気のある日本人」と褒め称えた。修了式で、シカゴ・デール・カーネギー・コース・クラス#615の44名のクラスメートから優秀なスピーカーの3人のうちの1人に選ばれ、最優秀努力賞が贈られた。エヴァンスは、いつの日か、望月はデール・カーネギーの日本進出に貢献するだろうと予言した。1959年の終わりに帰国すると、望月はビジネス界、金融界、産業界のトップと会談を始めた。アメリカの教育システムが本当に日本の水に合うか疑う人がたくさんいた。米国商工会議所の日本支部長だったA.L.バリッジは望月に、デール・カーネギーは日本のビジネスマンの考え方に革命を起こすだろうと語り、デール・カーネギーの宣伝を奨励した。望月は、日本生産性本部の郷司浩平、日本経済連合(経団連)の花村仁八郎、青山大学の大木金次郎、一橋大学の久武雅夫など、日本のリーダーたちから支援を受けた。日本政府は、1960~1964年の池田勇人内閣の下で、日本人の所得を10年間で倍増する計画を立てていた。1960年代の後半、日本のGNPは平均11.8%という驚異的な成長率を記録していた。また、日本が世界的な貿易と投資に門戸を開いたことで、企業研修の国際化を求める声も増えていた。そのため、望月とウィットローが日本でデール・カーネギーを立ち上げたタイミングは完璧だった。日本でのローカルパートナーを探してウィットローがドロシーにコンタクトを取ったとき、シカゴのスポンサー、エヴァンスは日本から来たフランク・望月がデール・カーネギーを修了し、数年前、1959年の初めに帰国したことを思い出した。ビジネスが1963年に立ち上げられるまで、望月はおそらく、デール・カーネギーのコースを修了した唯一の日本人だった。そのため、日本におけるパートナーとして最初に考えられたのが望月だった。ウィットローはハワイから日本に頻繁に飛び、その度に数週間、クラスを実施し、望月に助言した。望月が日本のデール・カーネギー・コースを自分の力で引き継げるようになるまで、ウィットローはアソシエイト・スポンサーの望月にとって力強い支援者となった。望月はビジネス界、金融界、産業界のトップと会談を始めた。「考え方のまったく異なる相手を説得するのに、当初は大変苦労しました。しかし、2年間の苦労の末、とうとう成功したのです」。最初の3年間、デール・カーネギー・コースは英語で教えられた 。今日、日本語が授業の主要言語だが、英語コースも依然として提供されている。1962-63年、デール・カーネギー・トレーニングが日本で立ち上げられた。フランク・望月が自力で日本でのデール・カーネギー運営を果たせるようになるまではハワイ出身のエドウィン・ウィットローがスポンサーとなった。エドウィン・ウィットローはオレゴン訪問中だった1980年3月8日に、不慮の交通事故により帰らぬ人となった.[14]。1960年代初頭、望月は、 米国のデール・カーネギー ・アンド・アソシエイツに連絡をとり、日本でのデール・カーネギー・トレーニングの立ち上げについて相談するが、まずは彼にトレーニングの方法論とブランドについて理解を得るためのメンターが必要だという判断がなされる。ウィットローは、最初のスポンサーになることに同意し、 1962年10月にライセンスを取得する。ウィットローは日本とハワイを行き来しながら、数週間ずつ日本でクラスを実施、望月のメンターを務めた。第一回目のクラスは1963年1月3日に行われた。「主に、恐怖心をなくし、劣等感を克服することで、生徒が自分の力を最大限に発揮できるように努めました。生徒それぞれが努力して引き出そうとすれば、最も良いと評価しました。生徒には他人と自分自身を比べないように– 人それぞれ持つ能力が違うということを教えました。人はありのままの自分となり、過去の自分と比べてはならないのです」1963年のその最初のクラスの直後、日本の講師陣を養成するためにトレーナーの特別開発クラスが実施された。1975年1月までに、26人のトレーナーが免許を得て、デール・カーネギーのカリキュラムを教えていた 。望月はダイナミックなセールスマンとして知られ、 日本においてデール・カーネギー・トレーニングを見事に発展させていく。 また、日本で外資系企業を経営する優秀なビジネスマンを彼のトレーナーとして採用することにも力を発揮。ワーナー・ブラザーズやバンク・オブ・アメリカなどの有名企業の社長たちが初期のトレーナー陣を占める。彼らは、英語力も高く、国際感覚を持ち、デール・カーネギーのコンテンツの力を理解していた。1966年、望月は最初の大学講座を開設する。それ以前に、彼は、大学生の実態を調査していた。 彼は、318社の人事部長と10大学の学生部長にインタビューを行い、その調査によって彼が確信したことは、大学生と若い大学卒業生の90%がコミュニケーションと人間関係能力に自信を持っておらず、孤立した(閉ざされた)世界で生活しているため、ほとんどが人間関係の必要性に気づいていないことだった。また、学生の 90%が強い向上心をもっておらず、そのほとんどはあいまいな目的しか持っていないか、これといった目的なしに大学に通っていることが判明する。望月は、慶応大学の学生の10%が、彼が紹介したデール・カーネギー・コースについて関心を持っていることを発見し、中には社会人向けのコースを見学に来る者もいた。慶応大学では、モチヅキがインタビューした学生の80%が大学生向け講座を受講し、他の大学では40%が受講した。1966年以降、この講座は、東京のソフィア大学構内で行われる。1967年10月、デール・カーネギー・セールス・コースの試験講座として、J. エドウィン・ウィットローをハワイから迎え、トレーニングが行われた。その頃、1960年代の終わりに、草柳大蔵が著名な雑誌の記事でデール・カーネギーのコースを「昭和の寺子屋」と評した。1975年1月、望月は雑誌『マネジメント・ガイド』に長い記事を寄稿し、日本におけるデール・カーネギーの展開について説明した。望月は非常に成功した。彼は1980年と1981年に最もアクティブなカーネギー・フランチャイズとして表彰された 。1988年、世界デール・カーネギー集会が日本で開催された。1989年まで、望月は年間3,000人の受講者に研修を行っフランク・望月がカーネギー・フランチャイズを離れ、山本徳源が1994年に後任となったが、翌年の1995年に急逝した[8]。山本は「頭脳明晰」と言われ、彼のリーダーシップのもと、当ブランドへの期待は高まった。急逝したため、急遽、彼の妻の山本悠紀子が日本におけるカーネギーの代表を務め、2007年に後進に引き継いだ。その後クレイグ・カークウッドが代表者となり、日本におけるデール・カーネギーの責任者としては、2010年にグレッグ・ストーリー博士にそのバトンが渡された。
出典:wikipedia
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