脇坂氏(わきざかし / わきさかし)は、日本の氏族。脇坂氏が史上に現れるのは脇坂安明の子の安治の代からであり、藤原姓を称していたものの、安明以前の系譜は明確ではない。『寛永諸家系図伝』の編纂にあたっては、安明から系図を書き起こし「北南それとも知らずこの糸のゆかりばかりの末の藤原」という和歌を添えたという逸話がある。これは『寛政重修諸家譜』でも踏襲されている。家紋は輪違い、通字は「安」。『野史』では、浅井秀政の三男・生秀の孫・教政が、九条家の所領近江国浅井郡脇坂庄の下司となったのが脇坂氏の祖で、その5代後が安明であるという。安治は織田・豊臣に歴仕し、賤ヶ岳の七本槍として名を揚げた。その後淡路洲本藩に3万石を与えられ、水軍の大将となった。2代安元が堀田氏から養嗣子安政を迎えたことで、願譜代としての待遇を受けるようになった。10代当主の安董は寺社奉行や老中として活躍し、正式な譜代扱いを受けるようになった。子の安宅も老中を務めている。関ヶ原の戦いでは本領安堵を受け、慶長9年(1609年)に伊予大洲藩5万3,000石、元和3年(1617年)には信濃飯田藩5万5,000石(後に分知で5万3,000石)、寛文12年(1672年)に播磨龍野藩5万3,000石(後に分知で5万1,089石)と移封され、以後定着した。明治時代には子爵。凡例:∥=養親子
出典:wikipedia
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