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御真影

御真影(御眞影, ごしんえい)は、日本の明治から昭和期にかけての戦前における、天皇の肖像写真や肖像画を敬っていう語。エドアルド・キヨッソーネが描いた明治天皇の肖像画をもとに作られた御真影がもっとも有名。天皇の肖像写真は明治初期から崇拝や儀礼の対象となり、1920年代からは奉安殿に保管されるようになった。ただし、天皇の写真で御真影の対象となったのは教育現場に配布されたものなどごく一部に留まり、戦前の皇室写真の大半を占めるマスコミ等を通じて商業的に流通した写真やブロマイドは崇拝の対象とはならなかった。天皇の肖像写真については御写真(御冩眞)ともいう。1873年に奈良県知事四条隆平が県庁に掲げるために天皇の肖像写真の下賜を申請し認められたことがきっかけとなり、各府県が次々と同様の申請をはじめた。宮内省から「貸与」されている物だけに、非常に慎重な取り扱いが要求され、1898年(明治31年)に長野県の町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)で、火事により明治天皇の御真影が焼けてしまった際には、当時の校長・久米由太郎(小説家久米正雄の父)が責任を取って割腹自殺するという事件が起きたこともあった。また、1933年(昭和8年)、沖縄県南城市の第一大里小学校(現在の大里北小学校)で火事が起こって御真影が焼けてしまった際にも同様に、当時の校長が割腹自殺をした。安全のため、学校ではなく町村役場で保管した例もあった。しかし天皇の写真が儀礼的に丁重に扱われたのは教育現場などごく少数に限られる事例であり、戦前の皇室の写真は大半が役所や学校などの公共空間ではなく、商業マスメディアを通じて各家庭に持ち込まれたもので、それらの扱い方については全く各家庭に任されていた。1890年代から皇室のブロマイドや絵は市中で大量に売られており、商業誌や新聞にも掲載された。皇室グラビアは国民から非常に人気があったので商業誌にとっては読者獲得のコマーシャルの要素があったためである。これら商業誌を通じてお茶の間に届けられていた天皇の写真は学校現場の御真影よりもはるかにバリエーションが多く、国民にとって身近な物であった。国民の皇室に対する心情には教育現場の御真影よりこちらの方が大きく影響したと見られている。明治初期の頃には政府が民間が天皇の写真を販売するのを禁止した時期があり、複写して販売する写真家が出て1874年(明治7年)4月には売買禁止が発令されたが、希望者が多かったため違反者は絶えず、1875年(明治8年)2月にも禁止が発令された。しかし国民の間の需要は大きく、天皇の写真は闇で販売され続けた。そのため錦絵や石版画については比較的早期に黙認されるようになり、さらに1891年(明治24年)には皇室の肖像画や写真画の販売が解禁され、1898年(明治32年)には皇室写真の販売についても解禁された。この解禁と印刷技術の発展によって商業誌や新聞は盛んに皇室の写真や絵の付録として付けるようになった。こうした皇室付録は当時の国民に非常に喜ばれ、これが付いている回は付いていない回と比べて売り上げが大きく上昇した。これらマスメディアによる写真販売を通じて大量の皇室グラビアが国民に広まった。当時輸入を担当していた小西六本店(コニカを経て現コニカミノルタ)が1928年(昭和3年)3月に出版したPR誌によると、昭和天皇夫妻の御真影はヘリアーで撮影されている。第二次世界大戦の敗北に伴い1945年12月に文部省は学校からの御真影回収を指示し、これに応じて御真影は都道府県単位で回収され焼却処分(「奉焼」)された。回収後再下付が行われるものとされていたが、実際には文部省は再下付に消極的だった。サンフランシスコ講和条約が発効し日本の占領が終わった1952年6月に秋田県の敬愛学園高校が再下付を申請し認められたことを初めとして、1950年代には学校で御写真を掲げる儀式を再開する動きが一部にあった。

出典:wikipedia

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