LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

秋津洲 (水上機母艦)

秋津洲(あきつしま)は、大日本帝国海軍の水上機母艦。秋津洲型の1番艦(同型艦は建造されず)。日本海軍の類別上は水上機母艦だが、実際には大型飛行艇への補給、整備を任務とする艦艇であり、飛行艇母艦と呼ばれる事もある。艦名は明治期の防護巡洋艦「秋津洲」に続き2代目。秋津洲とは、日本の別称。帝国海軍では、真珠湾攻撃の5年前から航空機によるハワイ攻撃作戦の研究が組織的に進められていた。1936年(昭和11年)に海軍大学校がまとめた文書、「対米作戦用兵ニ関スル研究」には、「開戦前敵主要艦艇特ニ航空母艦AL(=真珠湾)ニ在泊スル場合ハ敵ノ不意ニ乗ジ航空機(空母(艦載機)並ニ中艇、大艇)ニ依ル急襲ヲ以テ開戦スルノ着意アルヲ要ス」とある。もし対米戦が始まっても、アメリカ艦隊が出撃して来なければ、帝国海軍の想定した速戦即決の艦隊決戦は起きない。そこで敵の根拠地である真珠湾を航空機で(宣戦布告前に)奇襲攻撃することで開戦し、アメリカ艦隊に早期の出撃を強要することを考えたのである。その奇襲攻撃には空母艦載機の他に、航続力の大きい飛行艇(大艇、中艇)を使用するつもりだったのである。この文書には、続いて、「而シテ現状ニ於テハ大艇、中艇ハGK(=マーシャル諸島)東端付近ヨリ出発シ予メ洋上静穏ナル地域ニ配備セル水上機母艦ニ於テ中継補給ヲ行フ等ノ手段ヲ講ズルヲ要ス」とある。この手段を、水上艦艇で具体化したものが、飛行艇母艦「秋津洲」であり、潜水艦で具体化したものが、「潜補型」であった。水上機戦力に力を入れた帝国海軍は、大型飛行艇(九七式飛行艇や二式飛行艇)を洋上補給・整備するための新造飛行艇母艦(移動基地)を要望した。そのため「神威」を改装したが十分でなく、昭和14年度計画(マル4計画)において新艦(仮称第131号艦)を建造することとなった。当初、飛行艇母艦大型(9,950トン)と小型飛行艇母艦(2,550トン)の二種を検討したが、最終的に中型艦案にまとまった。また昭和17年度の改マル5計画では秋津洲型3隻が建造予定だったが、戦局の変遷により建造中止になった。開戦の準備として発動された戦時急備計画(マル急計画)でも同型艦(第303号艦、予定艦名「千早」)の建造が決まり、昭和17年7月25日に起工されたが、昭和17年秋には建造中止となる。このほかに、1万1000トン級の艦隊随伴型大型飛行艇母艦、3300トン級の小型飛行艇母艦も計画された。さらに福田啓二造船中将により排水量3万トン、全長200m、幅24mの巨大艦も検討されたが、いずれも太平洋戦争の勃発により実現しなかった。「秋津洲」は排水量5000トン程度であり、大型飛行艇1機を艦上で整備するという構想には無理があった。当初の計画では、艦尾のスロープから大型飛行艇をウインチで船体後部の飛行艇収容区画へ引き揚げる計画だった。ところが川西航空機が開発した二式飛行艇(重量31トン)をウインチで引き揚げるのは無理という判断により、設計を変更して艦尾に35トン電動クレーンを装備した。このクレーンが秋津洲型の最大の特徴となった。艦内には航空隊員用の居住施設、飛行艇に搭載する魚雷(36本)・爆弾・機銃弾等の弾薬庫、軽質油用タンク、工作施設を備え、通信設備も充実していた。なお秋津洲型は大型飛行艇を艦上に収容した場合、搭載機が航行中に損傷したり、あるいは操艦そのものが困難となるため、揚収中は航行しない事を前提に運用されている。本艦が施していた特異な迷彩塗装は、初代艦長黛治夫大佐の影響であった。第一次ソロモン海戦後のラバウルで、第八艦隊参謀長大西新蔵少将が本艦の迷彩の事を「厚化粧みたいにゴテゴテ塗ってきたな」と指摘した時には「攻撃力がないから、昆虫のように保護色にしたんですよ」と黛艦長は説明している。またラバウル停泊時、空襲を回避するため、連日の爆撃から航海士が米重爆の水平爆撃のクセを見抜き、黛艦長に進言、独自の回避行動を実践した。これは停泊中に空襲を受けた場合に、両舷の錨を右舷側に偏らせ150mの所まで錨鎖を伸ばしておき、敵機が仰角38度になった時に前進一杯を号令すると艦が急速に右舷側に動いて回避できるという方法であった。ソロモン諸島で行動する時には、座礁すれすれの場所を通ることで米潜水艦の襲撃を防いでいる。黛は単艦指揮官としての工夫を「秋津洲流兵法」、航海方法については「秋津洲流戦場航海術」と称していた。機関は22号10型ディーゼル4基を搭載、2組ずつフルカンギアで接続し2軸とした。その他補助缶2基を搭載した。電源は200KVAディーゼル発電機2基、2770KVA同1基を搭載、交流電源だった大戦中は飛行艇用の広い後甲板とクレーンを利用して魚雷艇数隻を搭載し前線への輸送を行った。1944年(昭和19年)3月に横須賀海軍工廠で損傷修理を行った際に21号電探を前部マスト上に1基装備、機銃を増備し25mm3連装機銃6基、同単装3挺となった。また後甲板に軌条3組を設けて、魚雷艇または大発などの運搬設備を設けた。日本海軍は1944年前半に工作艦船のほとんどを喪失したため、同年8月に呉海軍工廠で臨時の工作艦任務のための改造を行った。1940年(昭和15年)10月29日、神戸川崎重工業で起工。1941年(昭和16年)6月30日、正式に「秋津洲」の艦名が与えられる。同日附で水上機母艦に類別。7月25日に進水。10月15日、日本海軍は岩淵三次大佐を秋津洲艤装員長に任命する(岩淵は10月15日まで練習巡洋艦「香椎」艦長)。11月5日、神戸川崎重工業に秋津洲艤装員事務所を設置する。1942年(昭和17年)3月25日附で秋津洲艤装員長は、重巡「古鷹」副長、大和型戦艦1番艦「大和」副長、第三遣支艦隊参謀等を歴任した黛治夫大佐に交代する(岩淵大佐は4月20日より金剛型戦艦4番艦「霧島」艦長。黛は4月3日に到着して、岩淵から職務を引き継いだ。当時、海軍省人事局第一課長中瀬泝大佐は黛に対し、単艦行動の多い本艦の任務は危険であること、建造予定3隻のために試用実験報告を提出するよう伝えたという。4月18日、アメリカ軍は米軍機動部隊およびB-25中爆によるドーリットル空襲を敢行する。4月21日、神戸沖で公試中の「秋津洲」は『B-25を発見、砲撃して撃退した』と報告する。実際は、九六式陸上攻撃機かダグラス輸送機に対する誤射であり、弾丸の破片が関西汽船所有の小型客船「天女丸」に降り注いだ。友軍機が敵味方識別信号を発しなかったため、黛艦長の判断で発砲した結果だった。「秋津洲」は4月29日に竣工。同時附で秋津洲艤装員事務所を撤去。黛艤装員長は制式に秋津洲艦長(初代)となる。横須賀鎮守府籍。ただちに横須賀に回航された。1942年(昭和17年)4月30日、本艦は横須賀に到着する。5月1日、水上機母艦「瑞穂」は横須賀を出発して内海西部へ向かうが、米潜水艦(ドラム)の雷撃を受け、5月2日未明に沈没した。5月5日、横須賀鎮守府司令長官平田昇中将は「秋津洲」を視察、御真影の伝達式も行われた。5月15日、本艦以下4隻(秋津洲、ぶら志゛る丸、第一号型哨戒艇2隻《旧島風、旧灘風》)は横須賀を出撃、サイパン島へ向かう。途中、ぶら志゛る丸(ミッドウェー攻略部隊、第二連合特別陸戦隊指揮官大田実大佐乗艦)以下ミッドウェー作戦従事中の輸送船団と別れる(ぶらじる丸、哨戒艇2隻は19日サイパン着)。サイパン入港直前、本艦は米潜水艦から雷撃されるが命中しなかった。入港後、サイパン島守備隊(第五根拠地隊、司令官春日篤少将)に説明したが信用されなかったという。潜水作業により、左舷後部(推進器軸上)に魚雷命中(不発)の痕跡があった。本艦はサイパンに一時寄港したのち、5月20日にサイパンを出発。5月24日午後2時にラバウル(ニューブリテン島)到着。第25航空戦隊(司令官山田定義少将)の指揮下に入る。第25航空戦隊には九七式飛行艇を装備した横浜海軍航空隊(司令官宮崎重敏大佐)が所属しており、本艦は第5空襲部隊・第一特務隊(指揮官黛治夫秋津洲艦長)として、航空部隊の補給・整備・救難に従事することになった。またラバウル所在航空隊(第十一航空艦隊)の雷撃訓練や、ラバウルを空襲する連合軍爆撃機への対空戦闘にも協力した。爆撃回避後、浮かんだ魚は艦内神社(秋津洲神社)に奉納されたあと、乗組員の食卓に供された。6月下旬、南洋方面部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官、旗艦「鹿島」)は、ソロモン諸島およびニューギニア方面に航空基地を建設する為の『SN作戦』を発動。第25航空戦隊(第5空襲部隊)は飛行場を新設するため、事前にソロモン諸島で偵察を実施、ガダルカナル島に適地を発見する(8月上旬完成見込み)。他方面での作戦と並行しつつ、ガダルカナル島へ向かう輸送船団の護衛や哨戒に従事する。飛行艇母艦として行動していた頃は、単艦もしくは「秋風」などの駆逐艦1隻を護衛に伴っての行動が多かった。7月14日、日本海軍は第八艦隊(司令長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将、参謀神重徳大佐他)を編制、三川中将は外南洋部隊(第八艦隊、第六戦隊《司令官五藤存知少将》)の指揮官として、ニューギニア・ソロモン諸島方面の作戦を指揮する。1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦にともないガダルカナル島とフロリダ諸島(ツラギ島)に上陸を敢行、ガダルカナル島の戦いが始まる。黛治夫(当時秋津洲艦長)によれば、当時の「秋津洲」はラバウルにあって、第25航空戦隊(司令官山田定義少将)の下令により、近いうちに実施予定のポートモレスビー作戦の研究を行なおうとしていた。米軍の上陸が判明すると「秋津洲」は不時着機の救助を命じられ、ガダルカナル方面に進出した。このフロリダ諸島の戦いで、同諸島配備の横浜海軍航空隊は玉砕した(宮崎司令官以下全滅、3名捕虜生存)。8月8日夕刻、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官(海軍中将)が指揮する第八艦隊(鳥海、青葉、加古、衣笠、古鷹、天龍、夕張、夕凪)と遭遇し、情報を交換した。第八艦隊側は、迷彩を施した本艦を見て敵艦と誤認しかけている。これが前述の「厚化粧」発言につながった。従軍記者として旗艦「鳥海」艦橋にいた丹羽文雄記者は、第八艦隊と「秋津洲」の遭遇について以下のように描写している。第八艦隊はその夜、第一次ソロモン海戦で大勝利をおさめた。なお黛(秋津洲艦長)は1939年から40年にかけての古鷹副長である。8月10日、本艦はラバウルに帰投した。8月15日、2隻(秋津洲、秋風)はラバウルを出撃、飛行艇補給・整備のためショートランド泊地に進出する。同泊地でもB-17重爆の空襲を受けるが、特に被害はなかった。第二次ソロモン海戦直前の8月22日には、陽炎型駆逐艦1番艦「陽炎」(第15駆逐隊)に燃料補給を行った事も記録されている。その後も各地で飛行艇の母艦任務、索敵哨戒等に従事した。また、艦形を活かして基地設営、物資輸送、魚雷艇の輸送、工作艦任務などにも活躍した。9月に入るとショートランド泊地に外南洋部隊増援部隊(第三水雷戦隊《司令官橋本信太郎少将、旗艦「川内」》、第四水雷戦隊《司令官高間完少将、旗艦「由良」》)、水上機母艦3隻(千歳、千代田、日進)等が進出。9月22日、2隻(秋津洲、秋風)は一旦ショートランド泊地からラバウルへ戻る。9月25日附で第十一航空艦隊附属。以後もショートランド泊地を拠点にソロモン諸島で行動した。12月3日、秋津洲艦長は黛治夫大佐から高尾儀六大佐に交代(黛は第八艦隊参謀や横須賀海軍砲術学校教頭等を経て、利根型重巡洋艦1番艦「利根」艦長を務める)。砲術科の黛にとって後方支援艦の「秋津洲」艦長は本意でなかったが、艦長任期中に戦死者を出さなかったことについては「艦長として感謝のきわみである」と回想している。12月4日、新艦長を迎えた「秋津洲」はラバウルを出発。12月12日、横須賀到着。修理と整備を実施する。なお本艦横須賀到着の前日、横須賀を出撃した空母「龍鳳」(旧潜水母艦大鯨)と駆逐艦「時津風」は米潜水艦ドラム(同年5月、瑞穂を撃沈)に襲われ、「龍鳳」は12日に被雷して損傷。横須賀に引き返すことになった。12月24日、日本海軍は第十一航空艦隊と第八艦隊をもって南東方面艦隊を編成(司令長官草鹿任一中将、第十一航空艦隊司令長官兼務)。「秋津洲」も南東方面艦隊附属となる。1943年(昭和18年)1月15日、横須賀を出発して再びソロモン諸島へ向かう。1月22日、カビエン(ニューアイルランド島)到着。1月23日、「秋津洲」は峯風型駆逐艦7番艦「羽風」と共にカビエン近海で行動中、護衛の「羽風」は米潜水艦の雷撃を受け地点で轟沈した。この潜水艦はガードフィッシュ ("USS Guardfish, SS-217") だった。「秋津洲」は羽風生存者約140名を救助した。1月24日にラバウル着。28日以降、ショートランド泊地に停泊する。2月21日、ショートランド泊地を出発、ナウル島に向かう。以後、ナウル、ヤルート環礁、ルオット島(ロイ=ナムル島)、マキン島など、中部太平洋諸島を拠点に行動した。6月12日、ラバウルを出発。航海中の6月15日附で第二基地航空部隊に編入。作戦参加予定期間は約二ヶ月だった。トラック泊地を経由し、6月25日、横須賀着。6月30日、第八〇一海軍航空隊の物件を搭載して横須賀を出港>。函館を経由して、7月6日に柏原湾(幌筵島)へ進出。北方方面の哨戒や、第五艦隊および第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将)によるキスカ島撤退作戦に協力した。8月26日、秋津洲艦長は藤牧美穂大佐(7月17日まで給油艦「尻矢」特務艦長)に交代する(高尾は11月23日より空母「海鷹」艦長)。8月28日、「秋津洲」と第八〇一海軍航空隊は第21空襲部隊より除かれる。8月29日、八〇一空の物件を搭載して幌筵島を出発、9月2日に横須賀へ到着した。9月3日附で、本艦は連合艦隊附属に編入。9月中旬、本艦は陸軍兵力の上海からトラック泊地への輸送『丁二号輸送作戦』に参加する。9月16日、朝潮型駆逐艦6番艦「山雲」と特設巡洋艦「護国丸」、特設巡洋艦「清澄丸」(夕雲型駆逐艦5番艦「巻波」と合流予定)はそれぞれ呉を出発。同日午後、旗艦「平安丸」(第一潜水戦隊司令官古宇田武郎少将)と「秋津洲」は吹雪型駆逐艦22番艦「響」に護衛されて横須賀を出発。20日迄に上海市に到着。丁二号輸送部隊各艦は集結を終えた。9月24日、輸送部隊7隻(平安丸、護国丸、清澄丸、秋津洲、巻波、山雲、響)は上海を出撃する。29日、「響」は燃料補給のためサイパン島へ向かう。10月2日、丁二号輸送部隊はトラック泊地に到着。ラバウルに物資と人員を輸送し、10月9日にトラック帰投。ここに丁二号輸送部隊は編成を解かれ、3隻(護国丸、清澄丸、山雲)は丁四号輸送部隊に編入。第十四戦隊司令官伊藤賢三少将指揮下の第二輸送部隊(那珂、五十鈴、清澄丸、護国丸、山雲)としてトラックを出発した。10月14日、「秋津洲」はトラック泊地を出発、21日に横須賀へ戻った。12月3日、「秋津洲」は択捉型海防艦「天草」に護衛されて横須賀を出撃。12月9日トラック泊地着。しばらくトラック泊地で待機した。1944年(昭和19年)2月上旬、ポナペ島への輸送作戦(2回)を終えた本艦は、2月17日と18日のトラック島空襲に遭遇。2月17日の空襲時、「秋津洲」は特設運送船「愛国丸」よりメレヨン島行きの海軍第68警備隊を受け入れており、「日豊丸」と共にメレヨン島へ向かう予定だった。この空襲で「愛国丸」が沈没、第68警備隊司令も後日死亡した。同泊地脱出後の本艦はメレヨン島に立ち寄り(19-22日)、パラオから出迎えに来た夕雲型駆逐艦12番艦「早波」(第32駆逐隊)と2月24日朝に合同。25日昼前、2隻(秋津洲、早波)はパラオ到着。3月4日にパラオを出発し、サイパンを経由(7-9日)して、駆逐艦2隻(島風、雷)に護衛されつつ、3月14日に横須賀到着。同時期、帝国海軍は工作艦「明石」(3月31日パラオ大空襲で沈没)や多数の特設工作艦を喪失する。それにともない「秋津洲」も工作艦として投入されることになった。1944年(昭和19年)7月20日附で、本艦は連合艦隊附属となる。9月8日、ヒ75船団の護衛艦(空母神鷹、第30駆逐隊《夕月、卯月》、海防艦3隻《三宅、満珠、干珠》)、加入船舶(秋津洲、西貢丸、浅間丸、雄鳳丸、良栄丸、日栄丸、万栄丸、あまと丸、東邦丸、せりあ丸)は、シンガポールを目指して日本本土(門司)を出撃。立ち寄った先の伊万里港では、「秋津洲」の内火艇が船舶間の連絡に用いられることになった。9月12日夕刻に「浅間丸」は台湾基隆市へ向かい、残るヒ75船団は9月13日に高雄市へ到着。9月14日、護衛艦3隻(海防艦18号、水雷艇鵯、第28号掃海艇)と油槽船3隻(富士山丸、黒潮丸、大邦丸)を加えて出港する。9月17日、水上機母艦「秋津洲」、特設巡洋艦「西貢丸」、司令澤村成二大佐指揮下の第30駆逐隊(夕月、卯月)はヒ75船団から分離してフィリピンマニラ港へ向かう。夕刻、駆逐艦「秋風」(第30駆逐隊)が合流する。9月18日午前10時40-50分頃、米潜水艦フラッシャー("USS Flasher, SS-249")の雷撃で「西貢丸」が轟沈。第30駆逐隊(夕月、卯月)は対潜掃蕩作戦を行い(19日夕刻マニラ着)、本艦は「秋風」と共に退避するも途中で「秋風」を対潜掃蕩へ向かわせた。「秋津洲」は単艦でマニラに先行した。だが同地は既に米軍機動部隊の脅威にさらされていた。9月21日午後、マニラ湾で出撃準備中だった駆逐艦「皐月」(第30駆逐隊所属)が、米軍機動部隊艦載機の攻撃で沈没する(生存者は給糧艦「伊良湖」等に救助)。「皐月」沈没の直前、第30駆逐隊(卯月、夕月、秋風)は別の船団を護衛してマニラを離れていた。「皐月」沈没の他にも、マニラ停泊中や近海行動中の輸送船も大損害を受けた。そこで日本軍は、米軍機動部隊艦載機の行動圏外と判断していたコロン島(コロン湾)に、日本側艦船を退避させることにした。9月23日昼過ぎ、第三南遣艦隊はマニラからコロン湾に避退した艦船に、マニラへ戻るよう命じる。だが米軍機動部隊は去っていなかった。9月24日、「秋津洲」は退避した先のコロン湾で、特務艦「神威」等と共に米空母艦載機の攻撃を受ける。「秋津洲」は対空戦闘で撃墜1機を記録するも、午前9時頃に直撃弾を受けて爆発。間もなく沈没した。他に、給糧艦「伊良湖」、給油艦「興川丸」等も沈没した。11月10日、軍艦「秋津洲」は水上機母艦から削除。また空母「雲鷹」、潜水母艦「迅鯨」等と共に帝国軍艦籍から除籍された。「秋津洲」最後の艦長となった藤牧は、12月5日より運送艦(4月19日附で水上機母艦より艦種変更)「神威」特務艦長となった。現在ではダイビングの沈船スポットになっており、2015年時点でも海底に沈む船体を観察することができる。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。