一六戦争(いちろくせんそう)は、自由民主党内における小沢“一”郎と梶山静“六”との確執の総称。1980年代から90年代にかけての日本の政争に大きく関与した。また、自由民主党内の派閥・宏池会における宮澤喜一と田中六助との対立も、「一六戦争」と呼ばれる。小沢と梶山は衆議院の当選が同期であるが、院生から世襲で当選した小沢に対し、梶山は県議上がりであるため、梶山は小沢を「昭和のひよっこ」(梶山は大正生まれである)と呼んで牽制していた。そんな中、梶山が、ロッキード事件で逮捕されて保釈された田中角栄を拘置所で出迎え、その模様がマスコミで大きく扱われたため、その後の総選挙で梶山は落選。当選回数が小沢より1回少なくなった。それでも小沢と梶山は共に田中に反旗を翻す形で竹下登を総裁候補に担いだ「創政会」旗揚げの立役者となるなど、深い盟友関係にあった。しかし、1989年の海部内閣発足時、竹下は小沢の幹事長就任に「まだ若い」と難色を示し 、年功序列を重視する立場から梶山を幹事長に推したが、竹下派会長の金丸信の強い意向で小沢が幹事長に就任。梶山にしてみれば、幹事長ポストを16歳も若い小沢に奪われた形となった。この一件で、以前からぎくしゃくしていた竹下と小沢の確執は決定的になり、小沢と梶山も対立するようになった。竹下派内は金丸・小沢グループと竹下・梶山グループに分裂していくことになった。1992年(平成4年)、東京佐川急便から金丸へ行われた5億円の政治献金を巡り、検察への徹底抗戦を訴える小沢に対し、梶山は政治資金収支報告書への申告漏れを認めて早期の事態収拾を図ることを主張した。金丸は収支報告書への記載漏れを認め、略式起訴による5万円の罰金で済んだものの世論が猛反発し金丸は議員辞職に追い込まれた。その後、金丸の後継竹下派会長を巡って、竹下の側近中の側近・小渕恵三を推す梶山と羽田孜を推す小沢の対立が激化。結局、竹下の働きかけにより小渕が後継会長に就任。小沢はこれを不服として、羽田、渡部恒三、奥田敬和らと共に羽田派を旗揚げ。竹下派は分裂した。小渕会長実現の論功で幹事長となった梶山は、党内を小沢派と反小沢派に色分けし、さらに党職員に対してもどちらにつくか迫った。このことに対し、当時自民党広報局長だった浜田幸一が激怒したと伝えられる(鈴木棟一「永田町大乱」)。その後、小沢の新生党旗揚げに伴う自民党離党により対立は終局に向かう。1994年に小沢が新進党を作り二大政党制を模索すると状況は一変する。日米地位協定問題などで当時の社会党に不信感を抱いていた官房長官の梶山は一転して小沢等との連帯を模索し救国内閣を提唱し大の小沢嫌いで知られた野中広務と対立するようになる。梶山は小沢率いる新進党との保保連携のため、自社さ派の加藤紘一幹事長の更迭を求めたが、橋本龍太郎首相は最終的に自社さ派につき、加藤の幹事長留任が決定。このため梶山は官房長官を辞任。自社さ派についた竹下や野中との関係は悪化した。1998年、参院選敗北の責任を取って橋本が退陣。竹下や野中が推す小渕後継の動きが表面化すると、梶山はそれに対抗し自ら総裁選に出馬。善戦したが小渕に敗れる。その小渕がかつて梶山が唱えた小沢率いる自由党との連立を実現させたのは皮肉である。2000年4月1日、小沢は連立からの離脱を表明した。翌日には小渕が脳梗塞で倒れ、5月14日に死去した。2000年6月6日、梶山が死去したことによってこの戦争は完全に消滅した。
出典:wikipedia
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