一撃離脱戦法(いちげきりだつせんぽう、)は、相手を攻撃した後にすぐさま退避する戦法(戦術)。ヒットエンドラン戦法ともヒットアンドアウェイとも言う。騎馬を使った一撃離脱戦法の歴史は古く、有名なものにはパルティア王国のパルティアンショットがある。戦いの最前線に出ては馬上で後ろ向きに矢を放ってから後退することを繰り返す戦闘方法である。戦闘機による一撃離脱戦法は、目標となる敵機を見つけたら上空から一気に襲いかかって射撃を浴びせ、敵の前に出るより先に、急降下のまま逃げていく方法であった。高速かつ重武装ないわゆる「重戦闘機」の得意な戦闘法である。一撃離脱戦法は、格闘戦で勝てない相手にも対等に戦える可能性を持つが、格闘戦を得意とする敵機に必ずしも有利というわけではない。零式艦上戦闘機とF4F、スピットファイアとBf 109のように格闘戦と一撃離脱のどちらが有利な空戦に持ち込むかが勝敗に関係した。空戦機動の「ダイブアンドズーム」を一撃離脱戦法と訳する文献もあるが、ダイブアンドズームは上昇後に再度攻撃をうかがう戦法であるため、必ずしも一撃離脱戦法と同義ではない。1934年、ドイツでは、ウィリー・メッサーシュミット博士の「戦闘機は速度、上昇力、急降下性能に優れていれば相手を攻撃することもいったん不利となれば振り切って逃げることもできる」という考えが反映され、無駄のない小型機に最高のエンジンを搭載するという設計思想で作られたBf 109(Me 109)によって一撃離脱戦法の思想がドイツ空軍にていち早く取り入れられていた。1939年のノモンハン事件において、ソ連赤色空軍のI-16は良好な運動性を持つ機体だったが、より優れた運動性を持つ日本陸軍の九七式戦闘機との格闘戦では劣勢であった(前期ノモンハン航空戦)。しかし後期戦になると、スペイン内戦で実戦経験を積んだパイロットが投入され、それらは一撃離脱に徹して互角の戦いになった。日本陸軍においてもノモンハン事件の戦訓や欧米空軍や新戦術の研究により、従来の単機格闘戦のみならず一撃離脱の編隊空戦を模索することとなり高速重武装かつ上昇力に優れた重戦闘機を開発、併せて編隊機動や無線電話や防弾装備の活用を重視していくこととなる。陸軍航空本部昭和15年度『陸軍航空兵器研究方針』において、この「重戦」は高速重武装かつ航続距離や防弾装備にも優れ対爆撃機戦のみならず対戦闘機戦にも用いる「万能機」たる本命機となり、格闘戦を重視し主に対戦闘機戦に用いる「軽戦」は性能装備面で妥協した補助戦闘機的ものとなっている。さらに昭和18年度『陸軍航空兵器研究方針』では「軽戦」と「重戦」の区分は廃止され、妥協の産物である「軽戦」は「重戦」に併呑され「近距離戦闘機(近戦)」となった。アメリカ軍において一撃離脱は、日本海軍の零戦対策として1943年ごろから広まった。太平洋戦争初期、運動性に優れた零戦との格闘戦でF4Fなどのアメリカ海軍戦闘機は劣勢にあったが、新たな戦術として「エシュロン隊形」や「サッチウィーブ」とともに一撃離脱戦法を採用、F4Fは次第に零戦に対して互角以上に戦えるようになった。急降下に弱く、防弾装備が皆無という零戦の弱点を突いた攻撃方法であった。アメリカ陸軍航空軍のP-38は低高度での格闘戦では零戦や一式戦「隼」に対し劣勢であったが、一撃離脱戦法を主用し高速・重武装かつ急降下性能に優れる長所を生かすようになってからの活躍は目覚ましく、全軍最多の撃墜数40機を誇るリチャード・ボング、38機撃墜のトーマス・マクガイアといったエース・パイロットはこのP-38で戦果を上げている。一方で、トーマス・マクガイアを長機とするP-38L 4機編隊はフィリピンの戦いにおいて、日本陸軍の一式戦闘機「隼」・四式戦闘機「疾風」との超低空域下かつ不意遭遇の格闘戦に巻き込まれ、マクガイア機を含む2機を撃墜された事案がある。1943年春から秋にかけてポートダーウィン上空では、欧州戦線でドイツ空軍相手に格闘戦で対抗してきたイギリス空軍のスピットファイアが零戦と交戦した。スピットファイアは最高速では零戦に優るが、低速時の運動性や上昇力では負けていると判断、零戦との格闘戦を禁止し一撃離脱を採用した。しかし、日本海軍側では鈴木實少佐が相手のダイブに注意し深追いしないように部下に徹底し、零戦の得意な格闘戦に巻き込んでいた。一撃離脱戦法は目視による索敵、高度差を生かした加速、先制攻撃による襲撃のためのものであり、現代の戦闘機は全てレーダーを搭載しており、目視を前提にした死角を突いての攻撃は不可能となっている。レシプロ機の場合は高空からの急降下により最高速度以上に加速することが可能であったが、ジェット戦闘機の場合は機体の強度限界を超えたり、エアインテークからの空気流入に悪影響をもたらしたりするため、最高速度以上の加速は不可能である(そもそも水平飛行での最高速度すら、エンジン推力でなく機体の耐用限界で設定されている)。ミサイルやコンピューターの発達によってベトナム戦争以降の空中戦は、視認できない遠距離からの空対空ミサイル攻撃による戦闘が行われた後、格闘戦が展開されることが想定されている。ドイツ空軍のエース、エーリヒ・ハルトマンは一撃離脱戦法に徹した代表的なパイロットである。ハルトマンは「観察」・「決定」・「攻撃」・「離脱」または「小休止(コーヒー・ブレーク)」という4段階の一撃離脱戦法に徹した。上空から相手をよく観察して、こちらの存在にもし気づかれれば小休止してその敵機と離れ2度とその相手とは交戦はしない。もし気づかれなければ一撃離脱攻撃を行った。日本海軍のエース岩本徹三は、一撃離脱を鉄則にしていた。岩本は「敵が来る時は退いて敵の引き際に落とすんだ。つまり上空で待機してて離脱して帰ろうとする奴を一撃必墜するんだ。すでに里心ついた敵は反撃の意思がないから楽に落とせるよ」、「敵の数が多すぎて勝ち目の無い時は目をつむって真正面から機銃撃ちっぱなしにして操縦桿をぐりぐり回しながら突っ込んで離脱する時もあるよ」と語っている。しかし、これに対し西沢広義の「途中で帰る奴なんか、被弾したか、臆病風に吹かれた奴でしょう。それでは(他機との)協同撃墜じゃないですか」という指摘もある。このほか、菅野直は大型爆撃機の邀撃に直上方より行う一撃離脱戦法を考案し戦果を上げた。前方高度差1,000m以上をとり背転し真っ逆さまに垂直で敵編隊に突っ込み死角となる真上から攻める。しかし敵機との衝突を避けるため尾部を通っているとそこに弾幕を準備されたため、主翼前方を抜けることにした。敵機の銃座から射撃されない位置だが衝突の危険が高く、高い反射神経と恐怖に打ち勝つ精神力が求められる攻撃であった。また、この戦法は同期の森岡寛に菅野から伝授され、302空で訓練され1944年11月からの迎撃戦で威力を発揮していた。
出典:wikipedia
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