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水無月 (睦月型駆逐艦)

水無月(みなづき)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。一等駆逐艦「水無月」は、睦月型駆逐艦の6番艦。当初の艦名は第二十八号駆逐艦。艦名は旧暦の6月に由来する。同名艦に初代神風型駆逐艦の「水無月」がある為、こちらは「水無月 (2代)」や「水無月II」などとも表記される。太平洋戦争開戦時、本艦以下睦月型4隻(水無月、皐月、文月、長月)は第五水雷戦隊所属の第22駆逐隊を編制しており、フィリピン攻略戦や蘭印作戦に参加。1942年(昭和17年)3月10日附で第五水雷戦隊が解隊されると、第22駆逐隊は4月上旬より第一海上護衛隊に所属して、東シナ海や南シナ海の船団護衛任務に従事した。1943年(昭和18年)3月以降、第22駆逐隊は第八艦隊麾下の第三水雷戦隊所属となり、ニュージョージア島の戦いやブーゲンビル島の戦いに伴う強行輸送任務に従事。この戦いで第22駆逐隊や第30駆逐隊所属の睦月型駆逐艦は次々に失われた。1944年(昭和19年)2月以降、第22駆逐隊は内南洋諸島方面における船団護衛任務に従事。マリアナ沖海戦の直前にあたる同年6月上旬、本艦は米潜水艦ハーダーの魚雷攻撃により沈没した。1923年(大正12年)度計画艦。浦賀船渠で建造。浦賀船渠で建造の睦月型駆逐艦は本艦を含め3隻(弥生、水無月、望月)である。1924年(大正13年)11月10日、藤永田造船所で建造の一等駆逐艦に「第二十九号駆逐艦《文月》」、浦賀船渠で建造の駆逐艦に「第二十八号駆逐艦《水無月》」、石川島造船所で建造の駆逐艦に「第三十号駆逐艦《長月》」、舞鶴海軍工作部で建造の駆逐艦に「第三十一号駆逐艦《菊月》」の艦名が与えられる。同日附で各艦(第28号《水無月》、第29号《文月》、第30号《長月》、第31号《菊月》)は艦艇類別等級表に登録。1925年(大正14年)3月24日、第二十八号駆逐艦(水無月)は浦賀船渠で起工。1926年(大正15年)5月25日、進水。12月1日、日本海軍は第27号駆逐艦《皐月》、第29号駆逐艦《文月》で第二水雷戦隊(旗艦「夕張」)麾下に第22駆逐隊を編成。第22駆逐隊司令は池田武義大佐。同日附で古賀七三郎中佐(当時、第九号《旗風》駆逐艦長)は第二十八号駆逐艦艤装員長に補職。12月3日、浦賀船渠の第二十八号駆逐艦艤装員事務所は事務を開始する。1927年(昭和2年)3月22日、竣工。古賀中佐(艤装員長)は制式に第28号駆逐艦長(初代)となる。主要初代幹部は、砲術長高橋三治大尉、水雷長阿部俊雄大尉(後日、空母「信濃」艦長)、航海長大野小郎大尉、乗組花岡雄二中尉(後日、マリアナ沖海戦時の空母「隼鷹」副長)、機関長細淵精一機関大尉。竣工により、艤装員事務所を撤去。佐世保鎮守府に在籍した。4月1日、第28号駆逐艦《水無月》は第22駆逐隊に編入。5月20日、第30号駆逐艦《長月》が第22駆逐隊に編入。同隊は定数4隻を揃えた。1928年(昭和3年)8月1日附で第二十八号駆逐艦は「水無月」と改名。また各艦の改名(命名)と同時に、第十九号型駆逐艦は睦月型駆逐艦に改訂された。一方、既に駆逐艦から掃海艇に類別変更されていた神風型駆逐艦《初代》の「水無月」は、第10号掃海艇に改称。1930年(昭和5年)6月1日に除籍された。1927年(昭和2年)8月24日の美保関事件を経て、11月15日附で池田武義大佐(第22駆逐隊司令)は長良型軽巡4番艦「由良」艦長へ転任(後日、戦艦「扶桑」艦長、「伊勢」艦長等)。第16駆逐隊司令斎藤直彦大佐が第22駆逐隊司令となる。12月1日の編制替により第二水雷戦隊旗艦は「夕張」から長良型軽巡洋艦3番艦「名取」に変更。二水戦は、第22駆逐隊、第23駆逐隊(第31号駆逐艦《菊月》、第32号駆逐艦《三日月》、第33号駆逐艦《望月:昭和3年6月30日編入》、第34号駆逐艦《夕月》)、第30駆逐隊(第19号駆逐艦《睦月》、第21号駆逐艦《如月》、第23号駆逐艦《弥生》、第25号駆逐艦《卯月》)で編制。同日附で、第28号駆逐艦長は古賀七三郎中佐(補呉海軍工廠総務部部員)から第十七号駆逐艦《夕凪》初代艦長等を歴任した山田定男中佐(当時、特務艦襟裳副長)に交代。1928年(昭和3年)8月1日附で第二十八号駆逐艦は「水無月」と改名。12月10日、山田定男中佐(水無月艦長)は第6駆逐隊司令へ転任。同時に長月艦長柏木英中佐が第1掃海隊司令へ転任。山口常太郎少佐(当時楢型駆逐艦「榎」艦長)は、水無月艦長と長月艦長の兼務を命じられた。1929年(昭和4年)10月5日、第22駆逐隊司令斎藤直彦大佐は軽巡「北上」艦長へ転任、第30駆逐隊司令今泉美啓中佐が第22駆逐隊司令を兼務した。1930年(昭和5年)12月1日、第22駆逐隊司令山下深志大佐は佐世保鎮守府附となり、境澄信中佐(当時、吹雪型6番艦「東雲」艦長)が第22駆逐隊司令と第21駆逐隊司令を兼務する。さらに山口常太郎少佐(水無月艦長兼長月艦長)は室戸型給炭艦2番艦「野島」運用長に補職。桃型駆逐艦「桃」艦長益田康彦少佐が水無月駆逐艦長に、平井泰次少佐(蓼駆逐艦長)が長月駆逐艦長に、それぞれ任命された。1931年(昭和6年)4月1日、境澄信中佐(第22駆逐隊と第21駆逐隊司令)は兼務を解かれる。12月1日の艦隊再編で、第一艦隊麾下の第一水雷戦隊は軽巡「夕張」と第22駆逐隊(皐月、水無月、文月、長月)、第23駆逐隊(菊月、三日月、望月、夕月)、第30駆逐隊(睦月、如月、弥生、卯月)で編成。11月2日、益田康彦少佐(水無月兼皐月艦長)は軍令部出仕。松原博少佐(当時樅型駆逐艦「蓬」艦長。後日、軽巡「阿賀野」艦長、空母「翔鶴」沈没時艦長)が皐月艦長と水無月艦長を兼務する。11月15日、境澄雄中佐も第22駆逐隊司令から馬公要港部港務部長へ転任。海軍省教育局局員木幡行中佐が第22駆逐隊司令となる。12月1日、松原博少佐(皐月および水無月艦長)は水無月駆逐艦長の職務を解かれ、天津風型駆逐艦4番艦「時津風」艦長成田忠良少佐が水無月駆逐艦長として着任した。また峯風型13番艦「野風」水雷長人見豊治大尉が水無月水雷長に補職。1932年(昭和7年)2月、第一水雷戦隊は臨時に第三艦隊に所属。その後、12月1日の艦隊再編でも第一水雷戦隊は同編制(夕張、第22駆逐隊、第23駆逐隊、第30駆逐隊)を維持した。1933年(昭和8年)11月15日、第22駆逐隊司令木幡大佐は長良型軽巡5番艦「鬼怒」艦長に転じ、難波祐之中佐(当時の吹雪型13番艦「朝霧」艦長)が後任の第22駆逐隊司令となる。同日、成田忠良中佐(水無月艦長)は吹雪型14番艦「夕霧」艦長に補職。松原博少佐(皐月艦長)は再び皐月艦長と水無月艦長を兼務した。1934年(昭和9年)2月1日、松原博少佐(皐月艦長および水無月艦長)は浦賀船渠で建造中の初春型駆逐艦4番艦「初霜」艤装員長へ転任(9月27日附で初霜初代駆逐艦長)。桃艦長と柳艦長を兼務していた橘雄次少佐は、皐月艦長と水無月艦長の兼務を命じられた。4月1日、橘雄次少佐(皐月艦長および水無月艦長)の職務は皐月艦長のみとなり、金剛型戦艦4番艦「霧島」水雷長小川莚喜少佐が水無月艦長に補職される。9月27日、演習中に姉妹艦「皐月」(22駆3番艦)が発射した魚雷が迷走して「水無月」(22駆4番艦)艦尾に命中、スクリューを損傷した。10月12日、第四艦隊(旗艦「伊勢」)との演習に参加中の長良型軽巡洋艦5番艦「阿武隈」(第三水雷戦隊旗艦)および麾下駆逐艦群(子日、初霜、島風、夕風、灘風、文月、皐月、水無月)等は、午後10時19分地点で「水無月」と峯風型駆逐艦10番艦「夕風」の衝突事故を起こす。人員に死傷者はなかったが、2隻とも損傷を受けた。11月15日、難波祐之中佐(第22駆逐隊司令)は第12駆逐隊司令へ転任。第30駆逐隊司令山本正夫大佐が第22駆逐隊司令となり、睦月型1番艦「睦月」艦長井原美岐雄中佐が第30駆逐隊司令に補職される。また人見豊治少佐(水無月水雷長)は軽巡「大井」水雷長に転じた(後日、夕雲型5番艦「巻波」艦長としてセント・ジョージ岬沖海戦で戦死)。12月1日の艦隊再編で第一水雷戦隊は長良型軽巡洋艦6番艦「阿武隈」、第21駆逐隊(初春、子日、若葉、初霜)、第22駆逐隊(皐月、水無月、文月、長月)、第29駆逐隊(追風、疾風、朝凪、夕凪)という戦力となる。1935年(昭和10年)11月1日、第22駆逐隊司令山本正夫大佐は軽巡「夕張」艦長を命じられ、第30駆逐隊司令井原美岐雄中佐(元睦月艦長)が第22駆逐隊司令となる。12月1日、水無月駆逐艦長は小川莚喜少佐(翌年2月より夕霧駆逐艦長)から成冨武光少佐に交代。1936年(昭和11年)5月26日、睦月型2隻(望月、夕月)艦長を兼務していた脇田喜一郎少佐は望月艦長を免じられる。成冨少佐(水無月艦長)は望月艦長へ転任(成冨は12月1日より白露型駆逐艦7番艦「海風」艤装員長。翌年4月、海風初代艦長)。日本海軍は、樅型駆逐艦3隻(藤、薄、蔦)艦長を兼務していた宇垣環少佐を水無月駆逐艦長に任命する。樅型3隻(藤、薄、蔦)艦長には愛甲文雄大尉が補職(後日、愛甲は九一式魚雷を開発)。12月1日の連合艦隊編制で、空母「加賀」と第22駆逐隊(文月、水無月、皐月、長月)は第二航空戦隊を編制、支那事変のため中国大陸沿岸部を行動した。1937年(昭和12年)10月20日、第二航空戦隊(空母「加賀」)の所属駆逐隊は白露型駆逐艦4隻(江風、涼風、山風、海風)の第24駆逐隊に交代。10月31日、井原美岐雄中佐(第22駆逐隊司令)は、第25駆逐隊司令の兼務を命じられる。第25駆逐隊は竣工したばかりの朝潮型駆逐艦(朝潮、大潮、荒潮)で編成されていた。11月15日、宇垣環少佐(水無月艦長)は古鷹型重巡洋艦2番艦「加古」水雷長へ転任(宇垣は開戦時の陽炎型駆逐艦3番艦「黒潮」艦長《三代目》)。長月艦長磯久研磨少佐は、長月艦長と水無月艦長の兼務を命じられた。12月1日、清水他喜雄大佐(当時、第12駆逐隊司令)が第25駆逐隊司令に補職。また磯久研磨少佐(長月および水無月艦長)は初春型5番艦「有明」艦長へ転任(後日、磯久は第4駆逐隊司令に補職。トラック島空襲における陽炎型18番艦「舞風」沈没時に戦死)。金田清之少佐が長月艦長と水無月艦長を兼務した。1938年(昭和13年)1月8日、金田清之少佐は兼務を解かれて長月艦長に専念(後日、秋月型5番艦「新月」艦長。同艦沈没時に戦死)。古賀彌周次少佐(葵艦長)が水無月艦長に任命され、松原瀧三郎少佐(菊艦長)が葵艦長を兼務。また朝潮型2番艦「大潮」より多くの士官が「水無月」に着任。村上忠臣大尉(大潮水雷長)が水無月水雷長、太田一道大尉(大潮航海長)が水無月航海長、中尾静夫大尉(大潮砲術長)が水無月砲術長となる。10月20日、西岡茂泰中佐(第21駆逐隊司令と第28駆逐隊司令兼務)は第22駆逐隊司令へ転任、それまでの第22駆逐隊司令井原美岐雄大佐が第21駆逐隊司令と第28駆逐隊司令を兼務する。同日附で水無月艦長は古賀彌周次少佐から久保木英雄少佐に交代。古賀彌は翌年11月に朝潮型駆逐艦6番艦「山雲」艦長に任命され、続いて秋月型駆逐艦1番艦「秋月」艦長(初代)となる。12月1日、睦月型5番艦「皐月」艦長山隈和喜人中佐(元、荒潮初代艦長)は吹雪型3番艦「初雪」艦長へ転任。久保木(水無月艦長)は、本艦と皐月艦長を兼務する。12月5日、駆逐艦2隻(夕凪、峯風)艦長兼務の岩崎透少佐は兼務を解かれ(夕凪艦長のみ)、久保木少佐は「峯風」艦長も兼務、駆逐艦3隻(水無月、皐月、峯風)艦長となった。12月15日、峯風型9番艦「秋風」艦長青木久治少佐が峯風艦長に補職(後任の秋風艦長は有本輝美智少佐)、久保木少佐の艦長兼務は睦月型2隻(水無月、皐月)に戻った1939年(昭和14年)10月15日、睦月型2隻(文月、長月)艦長を兼務していた本倉正義少佐は、初春型駆逐艦4番艦「初霜」艦長へ転任。それまでの初霜艦長塚本守太郎少佐が長月艦長に補職。久保木少佐は文月艦長の兼務も命じられ、睦月型3隻(水無月、皐月、文月)艦長となった。11月15日、当時の第23駆逐隊司令伊集院松治大佐が第8駆逐隊司令へ転任。第22駆逐隊司令と第30駆逐隊司令を兼務していた西岡茂泰大佐の兼務は第22駆逐隊司令と第23駆逐隊司令となる。第30駆逐隊司令には篠田勝清大佐が着任。同日附で松崎辰治少佐(第2号掃海艇長)が皐月艦長に、山下正倫少佐(第3号掃海艇長)が文月艦長に任命される。久保木少佐の職務は「水無月」艦長のみとなった。1940年(昭和15年)7月15日、杉本道雄大佐が第23駆逐隊司令に補職され、西岡大佐(第22駆逐隊司令)は兼務を解かれた。10月19日、第22駆逐隊司令は西岡茂泰大佐から泊満義中佐に交代(西岡は軽巡「北上」艦長に補職)。11月15日、日本海軍は第五水雷戦隊を編制した(五水戦司令官原顕三郎少将)。1941年(昭和16年)1月、本艦は第五水雷戦隊(名取)等と共に中国大陸方面で行動。4月10日、第22駆逐隊は第五水雷戦隊に編入。5月24日、「水無月」は臨時に第五水雷戦隊旗艦となる。7月1日、第22駆逐隊司令は泊満義大佐から杉野修一中佐(当時、第32駆逐隊司令。白露型駆逐艦2番艦「時雨」初代艦長等を歴任)に交代。9月20日、久保木英雄少佐(水無月艦長)は朝潮型4番艦「荒潮」艦長へ転任(久保木はビスマルク海海戦における荒潮沈没時に戦死)。峯風型駆逐艦14番艦「波風」艦長平山敏夫少佐が水無月艦長に任命される。太平洋戦争開戦時の本艦は、引続き第三艦隊・第五水雷戦隊(司令官原顕三郎少将)・第22駆逐隊(駆逐隊司令杉野中佐)に所属。当時の第五水雷戦隊は長良型軽巡洋艦3番艦「名取」(旗艦)、第5駆逐隊(朝風、春風、松風、旗風)、第22駆逐隊(皐月、水無月、文月、長月)という戦力だった。緒戦のフィリピン攻略戦やジャワ島攻略戦に参加。1942年(昭和17年)3月10日、第五水雷戦隊は解隊(五水戦司令官原顕三郎少将は第十六戦隊《名取、長良、鬼怒》司令官に補職)。これに伴い第22駆逐隊は第二南遣艦隊附属となる。3月下旬、第22駆逐隊は陸軍第十六軍のジャワ第二次輸送任務終了後、主隊(第十六戦隊《名取、長良》)への合流とクリスマス島への進出を命じられた(クリスマス島攻略作戦)。3月31日、第十六戦隊指揮下で占領作戦に従事していた第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将)の川内型軽巡洋艦3番艦「那珂」が米潜水艦の雷撃で大破。第22駆逐隊第2小隊(長月、水無月)は、護衛各艦と共に退避する「那珂」救援におもむき、同艦の護衛に加わった。4月上旬も、第22駆逐隊は第十六戦隊(名取、鬼怒、五十鈴《4月10日編入》)指揮下で行動。22駆第2小隊(長月、水無月)はクーパン(ティモール島)への輸送作戦に従事した。4月10日、日本海軍は第一海上護衛隊を新編(司令官井上保雄中将)。第22駆逐隊は同隊に編入され、南西方面で船団護衛に従事する。同時期、月型(睦月型)と若竹型駆逐艦各艦(朝顔、芙蓉、皐月、水無月、文月、長月)に対して爆雷18個(魚雷4本撤去)搭載の訓令が出される。4月15日夕刻、本艦は輸送船「豊岡丸」を護衛してバタヴィア(ジャカルタ)を出発。クーパンへの輸送船護衛に従事した。7月6日、第22駆逐隊司令は杉野修一大佐(7月15日より第11駆逐隊司令)から脇田喜一郎中佐に交代。8月18日、佐世保港へ帰港。約二ヶ月間、佐世保で修理と整備に従事。9月25日、水無月駆逐艦長は平山敏夫少佐から福山強少佐に交代。後日、平山は駆逐艦複数隻(白雲、秋霜、早霜、涼月)艦長等を歴任した。9月下旬、本艦の修理完了。その後は内地と台湾、パラオ間の船団護衛に従事する。10月1日、第二次ソロモン海戦(8月25日)で沈没した睦月型1番艦「睦月」の除籍にともない、睦月型駆逐艦は『卯月型駆逐艦』と改定。12月10日、第13駆逐隊(若竹、呉竹、早苗)・第22駆逐隊(皐月、文月、水無月、長月)・第32駆逐隊(朝顔、芙蓉、刈萱)は解隊。脇田喜一郎大佐(第22駆逐隊司令)と山本岩多中佐(第32駆逐隊司令)は佐世保鎮守府附(後日、脇田は第41駆逐隊司令として乗艦「霜月」沈没時に戦死)。金岡国三中佐(第13駆逐隊司令)は舞鶴鎮守府附となり、翌年2月1日附で第5駆逐隊司令となる。パラオ輸送船団護衛後の「水無月」は、1943年(昭和18年)1月14日から16日まで佐世保滞在後、パラオ方面護衛任務に従事。その後、2月6日から2月24日まで佐世保滞在。修理と整備を実施。2月24日、佐世保を出撃した。2月25日、日本海軍は卯月型駆逐艦4隻(皐月、水無月、文月、長月)で第22駆逐隊を再編制する。同日附で解隊された第5駆逐隊(朝風、春風、松風)の駆逐隊司令金岡国三中佐が、第22駆逐隊司令に任命された。3月1日時点で第22駆逐隊は第8駆逐隊、第11駆逐隊、第19駆逐隊と共に第三水雷戦隊(司令官木村昌福少将:旗艦「川内」)に所属していた。だが3月3日のビスマルク海海戦で吹雪型2番艦「白雪」沈没時に木村司令官は負傷、三水戦司令官は江戸兵太郎少将を経て秋山輝男少将にかわった。3月20日、日本海軍は旧式化した峯風型駆逐艦、神風型、睦月型(卯月型)の改造訓令を通達するが、この中で睦月型(卯月型)は『望月型』と『水無月型』と呼称されている。本艦はラバウル(ニューブリテン島)方面へ進出し、3月上旬よりソロモン諸島方面で輸送任務に就く。3月7日、スルミ(ニューブリテン島南部)輸送中に座礁、姉妹艦「文月」の曳航で窮地を脱した。4月、第22駆逐隊は輸送作戦に従事。い号作戦実施中の同月上旬、カビエン(ニューアイルランド島)で空襲を受け青葉型重巡洋艦1番艦「青葉」と「文月」が損傷を受ける。第22駆逐隊はしばらく3隻(長月、皐月、水無月)で行動した。5月と6月、外南洋部隊(第八艦隊)および麾下の第22駆逐隊はコロンバンガラ島(ニュージョージア諸島)各地への輸送任務に従事。5月28日、第22駆逐隊(長月、皐月、水無月)はショートランド泊地(ブーゲンビル島)を出撃するが、2隻(長月、皐月)が座礁。「水無月」は「長月」の救援を行い、29日午前4時頃、離礁に成功した。「長月」の損傷は軽微だったが「皐月」は修理が必要となり、しばらく戦線から離脱した。6月2日、22駆(長月、水無月)のみでコロンバンガラ輸送を実施。同時期、連合国軍はカートホイール作戦を発動して、米軍はレンドバ島に上陸を開始、ニュージョージア島の戦いが始まる。米軍攻撃開始時、第22駆逐隊は外南洋部隊増援部隊(指揮官秋山輝男第三水雷戦隊司令官)に所属。卯月型3隻(長月、水無月、三日月)と第11駆逐隊(天霧、初雪)はブイン方面にあった。7月1日の第一次レントバ島突入作戦は、第11駆逐隊司令指揮の先行隊(天霧、初雪、長月、水無月、三日月)と第三水雷戦隊司令官直率隊(新月、望月、皐月、夕凪)で実施されるが、米艦隊は出現しなかった。7月6日、クラ湾夜戦で日本側は駆逐艦2隻(新月《夜間水上戦闘》、長月《座礁放棄》)を喪失。第22駆逐隊は3隻編制となった。また秋月型駆逐艦5番艦「新月」(艦長金田清之少佐)沈没により第三水雷戦隊司令部は全滅(三水戦司令官秋山輝男少将戦死)。高雄型重巡洋艦3番艦「鳥海」艦長有賀幸作大佐が増援部隊の指揮を継承した後(鳥海の代艦として駆逐艦雪風を臨時第八艦隊旗艦に指定)、伊集院松治大佐(金剛型戦艦1番艦金剛艦長)が7月7日附で第三水雷戦隊司令官に任命される(着任10日)。第三水雷戦隊の準備が整うまで、第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将が増援部隊の指揮を執ることになった。7月9日、外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官鮫島具重中将)直率の日本艦隊はニュージョージア諸島に向かうが米艦隊は出現せず、コロンバンガラ島輸送作戦を実施して全艦無事にブインへ帰投した。7月12日の輸送作戦は、増援部隊指揮官伊崎俊二少将(第二水雷戦隊司令官)を指揮官とする警戒隊(神通、清波、雪風、浜風、夕暮、三日月)と輸送隊(皐月、水無月、夕凪、松風)で実施。エインスワース少将指揮下の米巡洋艦部隊と夜間戦闘になり、米艦隊に損害を与えた上で輸送作戦も成功したが、日本側は「神通」を喪失。第22駆逐隊(皐月、水無月)は神通遭難現場に向かうが生存者を発見できず、7時35分に救助をやめブインに戻った。「神通」沈没により伊崎少将及び第二水雷戦隊司令部は全滅した。日本海軍は7月20日附で第四水雷戦隊を解隊し、第四水雷戦隊司令官高間完少将を第二水雷戦隊司令官に任命。白露型駆逐艦2番艦「時雨」以下四水戦戦力と二水戦残存戦力を統合し、新たな第二水雷戦隊を編制する。7月17日朝、ショートランド泊地において22駆(水無月、皐月)はラバウルから来た駆逐艦2隻(初雪、望月)に横付けして魚雷や重油の燃料補給を受けていたが、爆撃を受けて「初雪」は沈没。「水無月」と「皐月」も損傷した。また「夕凪」の損傷により、「水無月」は輸送隊に編入された。7月19日、弟七戦隊司令官西村祥治少将(旗艦「熊野」)の指揮下、夜戦部隊(重巡洋艦3隻《熊野、鈴谷、鳥海》、第三水雷戦隊《川内、雪風、浜風、清波、夕暮》)、輸送隊(三日月、水無月、松風)としてコロンバンガラ島方面に出撃。夜間空襲により駆逐艦2隻(清波、夕暮)が沈没、命中弾および至近弾で3隻(熊野、水無月、松風)も損傷した。7月20日11時、輸送隊(三日月、水無月、松風)は主隊と合同。ラバウル帰投後、損傷各艦は同地で応急修理を実施。7月29日、駆逐艦2隻(夕凪、水無月)は輸送船2隻(白山丸、国川丸)を護衛してラバウルを出発、8月2日トラック到着。サイパンを経由し、内地に向かった。8月10日、本艦は呉に帰投して呉海軍工廠で修理する。同時期、卯月型3隻(皐月、水無月、望月)に対して対空火力増強工事の訓令が出される。9月13日、呉を出撃。横須賀回航後、サイパンとトラック泊地を経由し、ラバウル方面へ進出。第22駆逐隊および増援部隊各艦(時雨、松風、夕凪等)は、同方面で輸送作戦に従事した。9月下旬、第三水雷戦隊によるコロンバンガラ島からの撤退作戦(セ号作戦)が行われることなり、三水戦司令官直率の夜襲部隊(秋雲《第三水雷戦隊旗艦》、磯風、 風雲、夕雲)、警戒隊(天霧、夕凪)、輸送隊(皐月、文月、水無月)、陽動隊(松風)という区分が決定。9月28日からはじまったセ号作戦は成功した。その後も、「望月」沈没・「皐月」座礁等を被害を出しながら第三水雷戦隊および麾下各艦は輸送作戦を実施。10月25日、水無月駆逐艦長は福山強少佐から磯部慶二大尉に交代。福山は11月5日より神風型3番艦「春風」艦長となる。10月31日、南東方面部隊指揮官(草鹿任一中将)指揮下の連合襲撃部隊(第五戦隊司令官大森仙太郎少将)は、可動全艦(妙高、羽黒、川内、文月、水無月、時雨、五月雨、白露)をもって連合軍輸送船団を撃退すべく出撃したが、天候不良のため発見できず(連合軍輸送船団まで距離30浬以内まで接近と推定)、ラバウルに帰投した。11月1日、連合軍はブーゲンビル島に上陸を開始、ブーゲンビル島の戦いが始まる。同日15時30分、第五戦隊司令官大森仙太郎少将(旗艦「妙高」)指揮下の連合襲撃部隊(本隊《妙高、羽黒》、第一警戒隊《指揮官伊集院松治第三水雷戦隊司令官:川内、時雨、五月雨、白露》、第二警戒隊《指揮官大杉守一第十戦隊司令官:阿賀野、長波、初風、若月》、輸送隊《第11駆逐隊司令山代勝守大佐:天霧、文月、卯月、夕凪、水無月》)はラバウルを出撃。本艦のみブカ島に向かい、輸送成功後の11月2日午前9時にラバウルへ帰投。また輸送隊は逆上陸の目途がたたず反転。残る連合襲撃隊はアーロン・S・メリル少将指揮下の米艦隊と夜間水上戦闘となり、2隻(軽巡《川内》、駆逐艦《初風》)が沈没して敗北した(ブーゲンビル島沖海戦)。11月3日、トラックからラバウルに向かっていたT4号輸送部隊・第二輸送隊(第十四戦隊《那珂、五十鈴》、第17駆逐隊《磯風、浦風》、輸送船2隻《護国丸、清澄丸》)は空襲を受け小破2隻(那珂、護国丸)、航行不能(清澄丸)の被害を出す。「水無月」はラバウルを出発して輸送部隊に合流、「五十鈴」は「清澄丸」を曳航し、駆逐艦2隻(磯風、水無月)護衛下でカビエンに向かった。カビエン入泊時、2隻(五十鈴、磯風)は触雷、また物資移載のためカビエンに来た2隻(測量艦《筑紫》、輸送船《龍王山丸》)も触雷して沈没。「水無月」は4日夜ラバウルに戻り、輸送隊(那珂、五十鈴、護国丸、磯風)は順次トラック泊地へ戻った。11月6日夕刻、ブカ島輸送隊(夕張、時雨、水無月)はラバウルを出撃、輸送に成功して7日朝にラバウルに戻った。同日夕刻、2隻(夕張、水無月)だけでブカ島へ出撃するが、米軍機の空襲を受け作戦中止、8日朝にラバウルへ戻った。同日、第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将は「夕張」に将旗を掲げた。11月11日、米軍機動部隊の空襲によりラバウル在泊艦艇は被害を受け(沈没《涼波》、大破《阿賀野、長波》、小破《浦風、若月》)、第二水雷戦隊(旗艦「能代」)と第十戦隊(「阿賀野」)はトラック泊地に撤退。襲撃部隊は11隻(夕張、天霧、文月、水無月、卯月、夕凪、大波、長波、巻波、秋風、夕霧)となり、輸送作戦に従事する。11月24日、駆逐艦3隻(大波、巻波、夕霧)が11月24日のセント・ジョージ岬沖海戦で沈没。この海戦以降、南東方面(ニュージョージア諸島)に対する駆逐艦輸送(鼠輸送)は打ち切られ、潜水艦・大発動艇・空輸に頼らざるを得なくなった。損傷各艦はトラック泊地に後退し、三水戦司令部は12月2日よりラバウル陸上へ移動。12月3日、「水無月」は第二次ラバウル空襲(11月11日)で航行不能となっていた夕雲型4番艦「長波」を曳航し、2隻(夕張、文月)に護衛されてラバウルを出発。12月8日、4隻(夕張、文月、水無月、長波)はトラック泊地に到着。「夕張」と「五月雨」は内地に戻った。12月16日附で第三水雷戦隊司令官は伊集院松治少将から中川浩少将に交代(12月17日、退任および着任)。本艦はラバウルに戻ることになり、座礁した「夕凪」の救援等を行いつつ、引き続き最前線への強行輸送作戦に従事する。12月23日、「水無月」はガロベ島輸送中に空襲を受け小破した。本艦はトラック泊地に後退、修理を実施した。1944年(昭和19年)1月15日、第22駆逐隊司令は金岡国三大佐から岡三知夫中佐に交代。同日附で連合艦隊は第十戦隊所属の第4駆逐隊(駆逐隊司令磯久研磨大佐:舞風、野分、山風)を南東方面部隊に編入、1月18日附で第7駆逐隊(漣、曙)を北方部隊に復帰させた(米潜水艦の雷撃により、漣は1月14日に沈没。書類上の措置)。南東部隊襲撃部隊の軍隊区分は、一番隊(舞風、野分、山雲)、二番隊(文月、水無月、皐月、松風)、附属(夕張、天霧、夕月、秋風、夕凪)となり、第4駆逐隊は「国洋丸」を護衛してトラック泊地を出発、22日にラバウル到着。このうち陽炎型2隻(舞風、野分)は「国洋丸」を護衛してトラック泊地に戻った(2月10日、連合艦隊より機動部隊復帰命令)。2月、ラバウルは連日空襲を受け艦船燃料も逼迫、日本海軍は艦艇の大部分をトラック泊地に撤退させた。2月12日、駆逐艦2隻(夕月、水無月)はトラック泊地を出発、17日にラバウルへ到着。第三水雷戦隊司令部はラバウル陸上から「夕月」に将旗を移し、2隻(夕月、水無月)でガブブ(ニューブリテン島中部)輸送を実施した。2月17日と18日のトラック島空襲により姉妹艦「文月」が沈没(駆逐隊司令負傷)、他に駆逐艦複数隻(太刀風、追風、舞風《第4駆逐隊司令戦死》)が沈没。第22駆逐隊は卯月型2隻(皐月、水無月)となった。2月20日、最後のカブブ輸送を実施後、2隻(夕月、水無月)はパラオに移動(24日着)。これが南東方面における最後の駆逐艦輸送となった。同地でトラック泊地から脱出してきた工作艦「明石」や駆逐艦「秋風」等と合流。本艦は重巡「羽黒」より燃料補給を受けた。3月10日、第三水雷戦隊および駆逐艦(松風、秋風、夕凪)は中部太平洋部隊に編入される。4月7日朝、護衛艦3隻(水無月、夕月、他1隻)はメレヨン島へ向かう陸軍部隊の輸送船3隻(松江丸、木津川丸、新玉丸)を護衛してサイパン島を出撃する。4月8日午前1時、米軍潜水艦(シーホース)の襲撃により「新玉丸」が沈没。「木津川丸」も地点でに雷撃されて航行不能となり、「水無月」は「木津川丸」を大宮島(グアム)まで曳航した。グアムに避退後、水無月以下メレヨン行部隊は4月9日に再出撃。4月12日12時30分、第261海軍航空隊の零式艦上戦闘機に掩護されつつメレヨン島に到着し、南洋第五支隊(陸軍兵3200名以上)を揚陸した。なおメレヨン島には輸送船「山陽丸」と護衛の吹雪型駆逐艦23番艦「雷」が向かっており、これを米潜水艦ハーダーが襲撃、4月13日に「雷」を撃沈している。4月17日、「松江丸」もハーダーに撃沈された。5月1日、神風型駆逐艦9番艦「夕凪」が第22駆逐隊に編入、同隊は3隻編制(皐月、水無月、夕凪)となる。5月4日、清田孝彦少将と参謀井上正夫中佐は神風型8番艦「朝凪」に座乗し、船舶14隻を朝凪・水無月等が護衛する第三五〇三船団を編成して東京湾を出撃。護衛艦艇を一部入れ替えてサイパンに向け航行中、5月10日に「慶洋丸」が被雷して損傷(米潜タンバーによる)。2隻(水無月、鴻)は現場にとどまって対潜掃蕩を実施した。グアム行船団(鴻、隠岐、第8昭南丸、黄浦丸、春川丸)分離後、第3503船団は5月14日にサイパンへ到着。このうち水無月以下3隻に護衛された輸送船4隻(泰国丸、日和丸、復興丸、大阪丸)は5月16日にサイパンを出発するが、米潜水艦2隻(タニー、サンドラス)の襲撃で輸送船2隻が沈没。サイパン帰投後、「大阪丸」に「台東丸」を加えて再出撃するが、5月25日になり「台東丸」と「大阪丸」は相次いで米潜水艦(フライングフィッシュ)に撃沈された。6月6日、駆逐艦2隻(卯月型《水無月》、秋月型駆逐艦《若月》)は給油船「興川丸」を護衛、バリクパパン(ボルネオ島)を目指してタウイタウイ泊地(スールー諸島)を出撃。出港後の23時45分、「水無月」は「敵浮上潜水艦」に対し攻撃に向かい、消息不明になる。本艦はダバオ南東海上でアメリカ軍潜水艦「ハーダー」("USS Harder, SS-257")の雷撃により沈没。同航していた「若月」も雷撃されるが被害はなく、同艦は8日にバリクパパン着。6月18日以降のマリアナ沖海戦に臨んだ。本艦沈没を含め、4月から6月にかけて日本海軍は米潜水艦の襲撃により駆逐艦多数(秋雲、雷、天霧、電、朝凪、水無月、早波、風雲、谷風、松風)を喪失。特に水無月以下4隻(雷《4月13日》、水無月《6月6日》、早波《6月7日》、谷風《6月9日》)はサミュエル・D・ディーレイ艦長率いるハーダー1隻の戦果だった。これら日本軍駆逐艦の急激な損耗は、艦隊決戦の実施すら危うくするものであった。この情勢について大井篤(当時、海上護衛総司令部参謀)は著書の中で『艦隊における駆逐艦は「歩」のようなものだが、「歩のない将棋は負け将棋」の態勢が決戦の日をまたずしてつくり出されたのである。』と回想している。8月10日、「水無月」は卯月型駆逐艦、第22駆逐隊、帝国駆逐艦籍のそれぞれより除籍。8月20日、第22駆逐隊は解隊され、残存2隻(皐月、夕凪)は第30駆逐隊に編入された。

出典:wikipedia

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