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矢矧 (防護巡洋艦)

矢矧(やはぎ)は、日本海軍の防護巡洋艦。筑摩型の2番艦である。艦名は、長野県から岐阜県を経て愛知県に至る「矢矧川」にちなんで名づけられた。1910年、三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工、1912年7月27日に竣工し、二等巡洋艦に類別。日本海軍の巡洋艦として初めてタービン機関を採用し、同型艦三隻にはそれぞれ異なるタイプの機関を搭載している。第一次世界大戦では、南洋諸島占領作戦に参加、さらに南シナ海、インド洋、スルー海での作戦に従事した。1917年11月20日、連合国艦船の護衛作戦を終えてオーストラリアのフリーマントルに入港しようとしていた矢矧に、沿岸砲から一発の砲弾が発射された。砲弾は矢矧のマストをかすめて甲板を超え海に落ちた。オーストラリア政府は、矢矧に乗り込んでいた水先案内人が適切な信号を送っていなかったことため、警告するために砲撃したと説明し、オーストラリア総督がその後パースに停泊中の矢矧に出向いて艦長に謝罪した。1923年から1937年までおもに中国水域の警備活動に従事した。1940年4月1日に除籍され廃艦第12号と仮称、呉海兵団の練習船として使用した。1943年には大竹に回航し海軍潜水学校で使用し終戦を迎えた。1947年1月31日から7月8日まで笠戸ドックで解体作業を行った。第一次世界大戦で日本は連合国側に参戦した。日本海軍は南方方面に二等巡洋艦などを派遣し、ドイツ東洋艦隊捜索及びドイツ領南洋諸島占領に従事した。巡洋艦矢矧も大正6年(1917)2月、呉軍港を出航し太平洋、インド洋方面で海上警備、索敵にあたっていたが、大正7年(1918)10月、軍艦千歳との交代命令に接し、オーストラリアシドニーを出航して艦隊司令部のあったシンガポールに11月9日に入港した。交代艦の到着まで碇泊、乗組員の上陸を許可した。この年は世界的にインフルエンザが流行し他の艦艇にも被害者が出ていたにもかかわらず特別の配慮を怠ったため、出航後それが艦内に蔓延し、凄惨な状況になった。11月30日シンガポールを出航、12月5日にマニラ入港、来艦者は、上下甲板至る所に倒れてうめいているという状態に「腰ヲ抜カサンバカリニ驚ク」という。12月9日普門副長死亡、10日に14名、11日に5名、12日8名、13日4名が死亡した。死亡者は艦内6名病院42名の48名に及んだ。(乗員471名のうち)大正10年1月19日に英国墓地サンピドロ、マガチに石造高さ一丈六尺の「在馬尼刺軍艦矢矧病没者墓碑」が建設され、墓碑銘が刻まれ、同日納骨式が行われた。このことが矢作神社への写真額の奉納(大正9年5月27日)、分霊の艦上安置(大正9年9月7日)、1/100模型の奉納(大正10年4月)と乗組員全員の参拝につながる。愛知県岡崎市の矢作神社には、ガラスケースに入った1/100の奉納模型が現存する。これは大正10年(1921)4月5日、6日の両日、蒲郡港に停泊中の同艦から全乗組員が半舷上陸により同神社に参拝した際に奉納されたものである。全乗組員の参拝は大正11年(1922)、大正14年(1925)にも知多郡武豊港に碇泊中に行われている。このほか大正9年(1920)5月27日付けの奉納写真額、2回分の参拝要領、艦長の名刺、新聞記事などの資料が巻子装資料で保存されている。なお明治44年(1911)10月3日の長崎三菱造船所の進水紀念絵葉書3点と矢作神社参拝の折に発行された『矢作の栞』(16P19cm)は岡崎市立中央図書館に所蔵されており、後者はデジタルアーカイブで公開されている。

出典:wikipedia

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