マリア・インマクラータ・クレメンティーナ・フォン・ネアペル=ズィツィーリエン(独:Maria Immaculata Clementina von Neapel-Sizilien, 1844年4月14日 ナポリ - 1899年2月18日 ウィーン)は、南イタリアのブルボン=シチリア家の王女。イタリア語名はマリーア・インマコラータ・クレメンティーナ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ(Maria Immacolata Clementina di Borbone-Due Sicilie)。ハプスブルク=トスカーナ家のカール・ザルヴァトール大公に嫁した。両シチリア王フェルディナンド2世と、その2番目の妻のオーストリア大公女マリーア・テレジアの間の次女として生まれた。家族からは「ペティッタ("Petitta")」の愛称で呼ばれた。1860年、千人隊の侵略により両シチリア王国が崩壊すると、家族と一緒に教皇ピウス9世に保護され、ローマのクイリナーレ宮殿に住んだ。1861年9月19日にローマにおいて、トスカーナ大公レオポルド2世の次男で、オーストリア帝国の陸軍士官だったカール・ザルヴァトールと結婚した。夫の実家も1859年に支配者の座を失っており、夫妻は双方とも亡命王族の身分だった。翌1862年には、姉のマリア・アンヌンツィアータがオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟カール・ルートヴィヒ大公と結婚した。マリア・インマクラータは美人として有名で、彼女の写真はフランツ・ヨーゼフ1世の妻で美容狂いの皇后エリーザベト・イン・バイエルンの『美人写真帖("Schönheitsalbum")』に収められていた。また、フランツ・ヨーゼフ1世は多産なマリア・インマクラータが子供を出産するたびに真珠のネックレスを贈呈したが、彼女は計10人もの子供をもうけた。このため皇后エリーザベトはカール・ザルヴァトール一家を「真珠採り("Perlenfischer")」と皮肉った。1890年、次男フランツ・ザルヴァトールが皇帝夫妻の末娘マリー・ヴァレリー大公女と結婚したことで、一家と帝室との結びつきは強まった。1899年に死去し、カプツィーナー納骨堂内のフェルディナント納骨堂(Ferdinandsgruft)に埋葬された。この納骨堂には彼女に先立った死んだ夫、そして5人の子供たちも葬られていた。夫カール・ザルヴァトールとの間に5男5女、計10人の子女をもうけた。
出典:wikipedia
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