司馬 龍生(しば りゅうしょう)は落語の司馬派の名跡。司馬派の祖。初代三遊亭圓生門下の初代司馬龍生を祖とする司馬派は、江戸時代において隆盛を極めたが、明治時代以降は衰え、龍生の名跡を襲名する者は50年以上現れていない。現在は司馬派の名跡の土橋亭里う馬がいるのみ。4代目は2人確認されているが同時に存在したわけではない。尚司馬派の名跡に上記の土橋亭里う馬以外に司馬龍蝶、司馬龍斎、司馬斎次郎、登龍亭鱗蝶、龍我、龍女などがある。司馬龍生(生没年不詳) - 初代三遊亭圓生の門人で三遊亭圓盛といい、さらに司馬雲亭から司馬龍生となった。経歴などはあまりよく伝わっていない。弟が三笑亭世楽といった。弟子に初代司馬龍蝶「目玉の龍蝶」、初代桃月庵雛太郎、初代司馬龍斎、2代目龍生(後の初代土橋亭里う馬)らがいた。司馬龍生 - 後の初代土橋亭里う馬。司馬龍生(生年未詳 - 1626年6月18日) - 初代船遊亭扇橋の門人で入船(または萬笑亭)扇幸から天保期には初代土橋亭里う馬の門下で土橋亭扇好となり天保半ば?に3代目龍生を継いだ。妻は女髪結いのきくといい龍生没後、弟子の2代目柳亭左楽の妻になった。没後日暮里に「米の飯食うや乞食も花のもと」と刻まれた碑を残したという。弟子に4代目龍生、龍我(後の2代目柳亭左楽)、龍女(後の2代目瀧川鯉橋「ズイコ」)らがいた。4代目?司馬龍生(生没年不詳) - 後の3代目土橋亭里う馬。4代目 司馬龍生(生没年不詳) - 2代目柳亭佐楽(左楽とは別人)の門下で佐喜次郎、天保の末に2代目司馬龍生(後の初代土橋亭里う馬)の門下で、龍女、嘉永時代には3代目扇好となり嘉永の末に4代目龍生を継いだ。1852年5月に剃髪して正覚坊を名乗る。さらに花枝坊佐喜丸を名乗った。2代目橘家圓太郎時代が著名。司馬龍生(1845年2月 - 明治20年代没?) - 本名:永島勝之助。安政末ころに5代目桂文治の門で文勇、万延頃ころに2代目三升亭小勝の門で勝之助から2代目三升家勝蔵、自立し東里から登龍亭麟生。三遊亭圓朝の門で初代三遊亭圓窓から三遊亭圓丈となった、まもなくして1881年ころに6代目龍生を継ぎ1886年に宝集家金之助(本名:笹川たみ)と上方に駆け落ちした。1888年に帰京し4代目三遊亭圓生の身内になり、1889年ころに柳派に移って柳窓から1892年以後に2代目麗々亭柳昇となった。弟子に初代三遊亭遊三がいた。司馬龍生 - 後の7代目土橋亭里う馬。司馬龍生(1860年1月 - 大正末頃没?) - 明治10年代末に俗に初代三遊亭圓遊「ステテコの圓遊」の門で遊楽、1901年7月に三遊亭志う雀となる。1902年頃に亭号は「雀家」「竹の家」等に変わる。1910年6月に8代目龍生を継ぐが1915年に5代目三升家小勝の門で三升亭志う雀に復した。本名:鈴木芳三郎。司馬龍生(1883年4月15日 - 1946年3月26日) - 本名:浦島四郎。4代目橘家圓喬の門で花喬、4代目春風亭柳枝の門で5代目栄枝から1911年に柳亭小燕路に1916年 - 1917年ころに圓吉、1918年3月に桃生、翌年4月に桃昇、同年7月に柳都、1920年12月に柳生となる、1924年6月に龍生を継いだ、昭和に入り2代目広沢虎造の一座で指南役(マネージャー)として活動していた。虎造の演目には龍生のアドバイスで演じられた物も多い。大正時代は何度も改名し三遊派、演芸会社、誠睦会、睦会などを転々、不遇であった。
出典:wikipedia
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