アルフレド・デスパイネ・ロドリゲス(Alfredo Despaigne Rodriguez , 1986年6月17日 - )は、キューバのサンティアゴ・デ・クーバ州パルマ・ソリアーノ出身の野球選手(外野手)。右投右打。現在は、キューバの国内リーグであるセリエ・ナシオナル・デ・ベイスボルのアラサネス・デ・グランマに所属している。日本プロ野球のシーズン期間中は千葉ロッテマリーンズに派遣されている。キューバの名門体育大学マニュエル・ファハルド国立体育大学卒業。に台湾で開かれた第21回AAA世界野球選手権大会のキューバ代表に選出された。この大会では、4番打者だった。決勝の日本戦で勝利し優勝した。その年に国内リーグデビューし、新人王の次点に輝く。11月に、台湾で行われた第37回IBAFワールドカップのキューバ代表に選出された。8月に、北京オリンピックにおける野球競技のキューバ代表に選出された。準決勝戦のアメリカ合衆国戦では、スティーブン・ストラスバーグから本塁打を記録した。最終的に、9試合で3本塁打12打点を記録した。2008 -シーズンでは、国内リーグでのシーズン本塁打記録(前年アレクセイ・ベルが記録した31本)を上回る32本塁打を放った。2009年3月に、第2回WBCのキューバ代表に選出された。2月には長女が誕生した。2009 - シーズンは、初の首位打者(.404)と本塁打王(31本)の二冠、打点もリーグ2位を記録した。7月には、東京で開催された第5回世界大学野球選手権大会のキューバ代表に選出された。決勝戦のアメリカ戦では、2本塁打4打点を記録した。この大会では、MVPを獲得。10月に開催された第17回IBAFインターコンチネンタルカップのキューバ代表にも選出された。またこの大会においてアレックス・ラミレスからZETTのグローブとバットをもらって「なんてすばらしいバットなんだ」と大喜びしている。2010 - シーズンは、途中の公用や足の故障の影響もあり前年を下回る数字で無冠に終わった。2011 - シーズンは、36本塁打(前年の国内リーグシーズン本塁打記録33本を更新)・105打点とともに自己最高を記録して本塁打王と打点王の二冠に輝き、革命後の国内リーグではウィルフレッド・サンチェスとオマール・リナレスに並ぶ最多タイとなる3度目のMVPを獲得した。11月6日に、「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」」のキューバ代表が発表され代表入りした。同日、台湾で行われたサンダーシリーズのため来台した。サンダーシリーズ終了後の、14日に来日した。3月に、第3回WBCのキューバ代表に選出された。この大会では福岡ラウンドでMVPを受賞し、大会最多タイの3本塁打と2位タイの9打点を記録した。2013年6月22日にメキシカンリーグのカンペチェ・パイレーツに期間限定で移籍することがキューバ野球連盟から承認される。33試合の出場で打率.338、8本塁打、24打点、OPS.928の成績を残した。キューバ国内リーグの2013 - シーズンは途中からアビスパス・デ・サンティアーゴ・デ・クーバに所属した。2014年もメキシカンリーグで開幕からプレーし20試合で打率.346、5本塁打、15打点、OPS1.010の成績を残していたが、5月15日に偽造されたドミニカ共和国のパスポートで選手登録されていたことが発覚し出場停止処分を受け帰国した。デスパイネはこの問題について帰国後のインタビューで「何も知らなかったし、いまだに何が起こっているのか、本当の事がわからない」と述べている。2014年7月15日にロッテと契約することが発表され、7月24日に入団会見を行った。背番号は49。キューバへの帰国後、母国では「最強スラッガーの帰還」とデスパイネのキューバへの凱旋は大きく報道された。オフの12月8日に、翌シーズンの契約に合意された事が発表された。7月にはパンアメリカン競技大会にキューバ代表で出場。NPBレギュラーシーズンでは前半戦は打率.263、OPS.883と好調だったが、パンアメリカン競技大会から復帰後の後半戦は打率.253、OPS.759と調子を落とした。11月にはWBSCプレミア12にキューバ代表として出場。2015年からは背番号54に変更元チームメイトの同じスペイン語圏であるメキシコ出身のルイス・クルーズ、ドミニカ共和国出身のカルロス・ロサと仲が良く、千葉県の焼き肉店に行くことがある。
出典:wikipedia
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