金町(かなまち)は、東京都葛飾区の地名。住居表示実施済み。金町一丁目から六丁目が設置されている。2011年4月1日現在の人口は17,368人。郵便番号は125-0042。金町という名称には広義での呼ばれ方と狭義での呼ばれ方が存在する。狭義での金町は、当町域のみを示す場合であり、広義での金町は住居表示が実施される前の金町全体を示して呼びその対象は金町駅の南北にある金町・東金町を併せて全体を呼ぶ場合とに使い分けて呼ばれている。葛飾区の北西部、金町駅の南に位置する。市街地・住宅地が殆どを占める。北で東金町一・三・六丁目、東で江戸川を挟んだ対岸に千葉県松戸市中矢切、南で金町浄水場及び柴又二・三丁目、西は新宿三・四・五丁目に隣接する。本節では葛飾区の前身の一つである南葛飾郡金町について記す。金町は古くは金町郷といい、下総国香取神宮領の中心地として栄え、古利根川沿いの鎌倉街道に面した町屋が形成されていた。その後、金町屋と呼ばれていた時期を経て後に金町村になる。応永5年(1399年)の『葛西御厨注文』、永禄2年(1559年)の『小田原衆所領役帳』に地名が載り、中世には葛西神社(香取宮)が香取神宮造営の役所をつとめたと「香取文書」に記述がある。旧南葛飾郡金町にあたるのは、金町・金町浄水場の全域と、東金町(二丁目を除く)、柴又(四・五・六・七丁目)である。古墳時代には既に拓けていたと考えられており、古墳時代の遺物は半田稲荷神社(東金町4-28-22)・金町浄水場工事現場ほか各所から発見され、同時代にはかなりの集落が散在し、人々が住みついていたことが伺える。時代を下り、飛鳥・奈良時代の711年(和同4年)に半田稲荷神社が、平安時代の1185年(元暦2年)には葛西神社が創立されており、これら時代にはある程度の大きさの郷となっていた。室町時代の1325年(正中2年)に記された「三浦和田文書」には「下総国金町郷」として地名としての金町の記述が見られる。江戸時代初期の1612年(慶長17年)には江戸幕府により水戸道中の要所として江戸川の渡舟場を利用した関所である「金町松戸御関所」(葛飾区東金町8-23)が武蔵国金町村(幕府領)に設置され、以後1869年(明治2年)に関所廃止まで江戸幕府の防備上の機能を果たした。また1822年(文政5年)の『駅逓志』の記録によれば、五街道・四往還のうち東海道・奥州道中に次ぐ三番目の交通量があり、宿場に常置する伝馬の人数も五街道と同数とあり、かなりの重要な役割を担っていた。1300年代には既に史料には金町の地名は見られるものの「金町」という地名がどのようにしてつけられたか詳しくは不明である。現在の「区画」としての名称の旧来の南葛飾郡金町(町制施行以前は「金町村」)を引き継いでいる。金町駅北口と南口にそれぞれバスターミナルがある。詳しくは金町駅を参照。道路橋梁史跡はそのほとんどが、住居表示実施で分離された東金町地域に集中して存在する。 明治末に金町(現葛飾区東金町)の長谷碌之助が、「下千葉中生」という小蕪を4月に早どりできるように改良したもの。 春に花芽が出にくい性質をもっていて春の栽培がしやすいため、金町周辺では盛んに生産が行われた。
出典:wikipedia
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