石原 慎太郎(いしはら しんたろう、旧字体:石原 愼太郎、1932年 (昭和7年) 9月30日 - )は、日本の元政治家、作家。参議院議員(1期)、環境庁長官(第8代)、運輸大臣(第59代)、東京都知事(第14代・第15代・第16代・第17代)、衆議院議員(9期)、日本維新の会代表、共同代表、次世代の党最高顧問を歴任した。実弟は俳優の石原裕次郎。長男は自由民主党衆議院議員の石原伸晃。次男は俳優・タレント・気象予報士の石原良純。三男は自由民主党衆議院議員の石原宏高。四男は画家の石原延啓。兵庫県神戸市生まれ。神奈川県立湘南高等学校、一橋大学法学部卒業。一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。大学在学中の1956年(昭和31年) に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞、平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』(盛田昭夫との共著)、裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、田中角栄の金権選挙を批判。1968年(昭和43年)に第8回参議院議員通常選挙に全国区から出馬し初当選。1972年(昭和47年) には衆議院に鞍替え出馬し当選、以後当選8回。1975年(昭和50年)、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選挙に自民党推薦で出馬するも落選した。その後衆議院議員に復帰し、1976年(昭和51年) に福田赳夫内閣で環境庁長官を、1987年(昭和62年) に竹下内閣で運輸大臣を歴任、1989年(平成元年) には自民党総裁選に立候補し、海部俊樹に敗れる。1995年(平成7年)、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰の本会議場で、突如衆議院議員辞職を表明した。1999年東京都知事選挙に出馬。立候補の表明は有力候補中最も遅かったが、舛添要一・鳩山邦夫・明石康・柿澤弘治といった有力候補を抑え初当選する。2003年東京都知事選挙では都知事選史上最高の得票率で再選、2007年東京都知事選挙では浅野史郎らを破り3選。2011年東京都知事選挙では当初不出馬が取り沙汰されたものの、東国原英夫らを破り4選。2012年(平成24年)、後継に猪瀬直樹副知事を指名し、次期衆議院選挙に出馬するため東京都知事を辞職。同年の第46回衆議院議員総選挙に日本維新の会の候補として比例東京ブロックで当選し17年ぶりに国政に復帰。個人として300万票以上の得票数を選挙で、2度獲得したのは石原のみである(1968年参院選全国区と2003年都知事選)。2014年の第47回衆議院議員総選挙では引退を決意していたが、党の熱意により出馬。ただし、比例東京ブロック最下位に当たる9位に自ら回った。最初の都知事選以来の落選となり、同年12月16日に政界引退を表明。晴れ晴れとした心境であったという。公私問わず、毎年8月15日に靖国神社に参拝している。新しい歴史教科書をつくる会に賛同。日本会議代表委員、戸塚ヨットスクールを支援する会会長を務める。江藤淳の後を引き継ぎ、産経新聞にエッセイ『日本よ』を連載している。また2012年10月から6ヶ月掛けて、全集『石原愼太郎の思想と行為』(全8巻 内容は自分の著作をまとめたもの)を産経新聞出版から刊行。趣味はサッカー、ヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃。湘南高校サッカー部、一橋大学柔道部、サッカー部と体育会系の一面も持つ。サッカーに関しては高校大学ともにレギュラーで試合に出場している。文芸評論家の江藤淳とは同級生であり、ともに高校の先輩である歴史学者江口朴郎宅に訪問したりしていた。江藤とは作家となってから共著を出版するなど、1999年に江藤が自死するまで交流があった。文学では、ジャン・コクトーやレイモン・ラディゲ、アーネスト・ヘミングウェイを読んでいたという。公認会計士になるために一橋大学に入学したものの、会計士には向かないことを自覚した慎太郎は、休刊していた一橋大学の同人誌『一橋文藝』の復刊に尽力する。ある日、神田の一橋講堂で「如水会」(一橋大学のOB会)主催の公開講座にOBの伊藤整が来た際、受付にいた慎太郎は伊藤の講演記録をとり、それを『一橋文藝』に掲載してもよいか伊藤に訊ねた。その翌年、同人誌は刷れたが金が足りずに困り、慎太郎は友人と久我山に住む伊藤に資金援助を頼みに行った。その時のことを伊藤は以下のように述懐している。慎太郎はこの同人誌に処女作である『灰色の教室』を発表し、文芸評論家の浅見淵に激賞されて自信をつけたのをきっかけに、第2作目の『太陽の季節』を執筆することになる。『太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、マスコミは慎太郎をこぞってとりあげた。以下はそのうちの一つ。石原は後にこの点について、『芸術生活』編集長・御木白日との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている。一橋大学在学中に、『太陽の季節』で、第1回(1955年度)文學界新人賞と、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞した。『ひばり裕次郎 昭和の謎』によると、「昭和三十年、まだ一橋大生だった石原慎太郎が書いた『太陽の季節』が芥川賞を受賞したが、その余りにえげつない風俗描写に世間は眼を剥(む)いた」とされ、以下の“勃起 (ぼっき) する男性シンボル”の場面などの性描写が注目された。映画化された際には、“太陽族”という流行語が生まれた。なお、石原が一橋の同人誌に発表した処女作『灰色の教室』を評価していた文芸評論家の浅見淵は、石原のデビュー後も度々石原作品に関してエッセイ、全集等の解説で執筆している。『太陽の季節』は文壇にも旋風を巻き起こし、支持派と反対派に分れた。支持派の舟橋聖一は、「この作品が私をとらえたのは、達者だとか手法が映画的だとかいうことではなくて、一番純粋な“快楽”と、素直にまっ正面から取組んでいる点だった」「佐藤春夫氏の指摘したような、押しつけがましい、これでもか、これでもかの、ハッタリや嫌味があっても、非常に明るくはっきりしているこの小説の目的が、それらの欠陥を補ってあまりある」と評し、反対派の佐藤春夫は、「この作者の鋭敏げな時代感覚もジャナリストや興行者の域を出ず、決して文学者のものではないと思ったし、またこの作品から作者の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった」と評するなど、賛否両極端の選考だった。その後『処刑の部屋』 (映画原作)、『聖餐』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。1957年10月『新潮』に発表した『完全な遊戯』について、高見順宅へ行った際、『群像』編集長の大久保房男と口論になり、『群像』には一度も執筆していない。石原が1959年(昭和34年)に文芸雑誌『文學界』8月号に発表した実験的ジャズ短編小説『ファンキー・ジャンプ』を三島由紀夫は見事な傑作と述べ、「現実の脱落してゆくありさまを、言葉のこのやうな脱落でとらへようとする(石原)氏の態度には、小説家といふよりは一人の逆説的な詩人があらはれてゐる」と評した。政界進出以降、発表する作品数は減ったものの、現在に至るまで一貫して創作活動を行っている。1970年 (昭和45年) に書き下ろし長篇『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、1988年 (昭和63年) 『生還』で平林たい子文学賞を受賞。弟裕次郎を描いた1996年 (平成8年) の『弟』は120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。創作以外にも多くの著作があり、『スパルタ教育』 (1969年、70万部) 『「NO」と言える日本』 (1989年、125万部)、『法華経を生きる』 (1998年、33万部) 『老いてこそ人生』 (2002年、82万部)、『新・堕落論』(2011年、25万部)、『天才』(2016年、67万部) などがベストセラーとなっている。2001年『わが人生の時の人々』で文藝春秋読者賞受賞。1995年から2012年まで芥川賞の選考委員を務めた。辛口の批評も多かったが、又吉栄喜、辻仁成、花村萬月、町田康、青来有一、中村文則、青山七恵、西村賢太など強く推して受賞に至った作家もいる。また1992年から1999年まで三島由紀夫賞選考委員を務めた。映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、1958年 (昭和33年)、東宝映画『若い獣』で初監督を務める。2007年 (平成19年) 5月には“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメと特攻隊員の交流にスポットを当てた映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。石原は、総理だった宮澤喜一に、鳥濱トメに国民栄誉賞を贈るよう進言したことがある。映画公開同年、鹿児島の「知覧特攻平和記念会館」内に自らデザインした鳥濱への顕彰碑を建てた。顕彰碑には、石原による文言、「トメさんは、人々を救う菩薩でした」などが刻まれている。文芸評論家福田和也は、日本の現役小説家を採点した自著『作家の値うち』(2000年)の中で『わが人生の時の時』に100点満点中96点と最高点を付け、情景の鮮烈さが特に魅力的で、「数世紀後に、20世紀日本文学をふり返った時に名前が挙がるのはこの作品ではないだろうか」と評した。また、俳句については、日本人の感性ならではの定型詩とする見解である。数学者の岡潔の「芭蕉の俳句研究で数学の難問を解けた」とする述懐を紹介しながら日本の俳句について度々話している。季刊文芸誌「en-taxi」2013年11月号のインタビューで集英社の文芸誌『すばる』の女性編集長に、三国人発言を理由に、作品の掲載を拒否されたエピソードを明かしている。政界復帰後の2013年には、文芸誌に『やや暴力的に』等の、短編を立て続けに発表したり、政界引退後の2015年には、回顧録『歴史の十字路に立って 戦後七十年の回顧』や長編恋愛小説『フォアビート・ノスタルジー』を発表している。1987年に運輸大臣に就任した石原は、1988年(昭和63年)5月のゴールデンウィークに、当時の新東京国際空港を視察した。その際、成田新幹線用に造られ、放置されたままになっている成田空港駅を見学した。成田新幹線は、沿線住民の建設反対運動や、日本国有鉄道財政悪化の影響で建設工事が殆ど進まず、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化で、工事計画そのものが失効したが、成田線と交差する位置から成田空港駅までは、ほぼ工事が完成していた。その出来上がっている成田空港駅を見学した石原は、日本国政府の法規制に縛られている成田空港関係者の懸念をよそに「既存の鉄道を入れろ」と発言し、その年の10月には上下分離方式の成田空港高速鉄道が設立され、2年半後の1991年(平成3年)3月にはJR東日本と京成電鉄が成田空港駅に乗り入れを開始した。従来の官庁会計である単式簿記・現金主義会計を改め東京都は石原の肝いりで戦後初めて自治体公会計に複式簿記・発生主義を導入、銀行への外形標準課税(銀行税)の導入、日本初で世界三番目のキャップ・アンド・トレード型排出量取引制度の導入、浮遊粒子状物質(SPM)を減らすためのディーゼル車排ガス規制での硫黄除去装置導入、中小企業の支援のため1000億円の都予算を投入した新銀行東京(石原銀行とも)の設立、首都大学東京の開学など、全国に先駆けた政策は注目を浴びた。都知事就任後の1999年(平成11年)、「地域環境の保全やまちづくりの観点から、自動車専用部の地下化案を基本として計画の具体化について取り組む」方針を表明し、1970年(昭和45年)以来、美濃部都知事(当時)や国に凍結されていた東京外かく環状道路整備を解禁し、効率的な物流ネットワークの構築や慢性化した渋滞の緩和等を提唱・推進する。2001年(平成13年)、芸術家の支援と拠点提供を目的としてトーキョーワンダーサイトという名称の機関を立ち上げた。他都県市と協定を結び、災害や事故などの緊急事態に協定を結ぶ都道府県に控える警察官・消防・自衛官が一体的に対応する仕組みを構築。2003年、大規模災害発生時など緊急事態の際に陣頭指揮を執る危機管理監ポストを新設。2003年4月、行政主導のエコツーリズムを小笠原で初めて実施する。2004年、都レンジャー(自然保護官)を立ち上げる。都心部の公道を使った大規模なマラソン大会「東京マラソン」構想を発表し、2007年に第一回大会が実現。2006年(平成18年)から、東京オリンピック開催の実現を選挙公約とした。2016年の東京オリンピック招致成功は叶わなかったが、2020年夏季オリンピック招致にも手を上げ、オリンピック招致に再チャレンジし、2020年の東京オリンピック開催への下地を作った。石原は米国政府に横田基地の返還請願を継続して行い、石原の要求は2005年に見通しがついた2006年10月27日の横田空域の航空交通管制権の一部返還日米合意により部分的に実現する。自らの知事給与の減額や会計制度の複式簿記・発生主義化による「機能するバランスシート」の導入で採算性向上・財政の透明化を図って雑用経費を抑えつつ、自らの発案になる大型プロジェクト・スポーツ・臨海開発事業などへの積極投資で振興を行う。日本の警察官の増員、「治安担当副知事」と呼ばれた警察官僚出身の竹花豊の副知事への任命(「東京都青少年・治安対策本部」は竹花が新設)や元陸上自衛官の志方俊之を東京都災害対策担当参与に任命など治安対策・危機管理を重視しており、新宿歌舞伎町などの違法営業店の数・不法滞在者などが激減した。2007年(平成19年)には猪瀬直樹を副知事に起用。猪瀬は東京DC特区構想(山手線の中側を中心とした区域を政府直轄地にして東京から切り離す)を提案し、オリンピック誘致にも懐疑的であるなど主張が異なる部分もあるが、石原は猪瀬について、「個人的に次の知事にふさわしいと思う」と話している。知事・副知事共に現役の作家というのは異例の組み合わせである。一橋大学在学中に公認会計士になるための勉強をしたことがあった経験から、官庁や自治体会計に単式簿記・現金主義会計が採用されている現状に疑問を持っていた。石原は都知事就任後、2002年に新たな会計制度を導入すると宣言。石原2期目の2006年、東京都は他の自治体に先駆けて、会計制度に複式簿記・発生主義を採用した。石原は都知事3期目に入った2007年4月、この施策は自身の過去2期における「一番いい仕事」だったと述べた。「この国には健全なバランスシート、財務諸表がない。」として、国家の会計制度にも複式簿記・発生主義の導入を提起している。東京港の中心にある中央防波堤内側埋立地に建設中である植樹による海の森公園構想は、2005年(平成17年)2月24日に開催された第74回東京都港湾審議会において答申され、「10年後の東京」の「水と緑の回廊」づくりの一環の構想として建築家安藤忠雄と石原が発案・推進役となって進められている。10年後の東京を構想する水と緑の回廊構想における政策の方向性は「東京の成長過程で失われた、水と緑に囲まれた都市空間を再生するとともに、美しい都市景観を創出し、東京の価値を更に高める。」とされ、植樹による海の森公園構想や街路樹の増加や校庭の芝生化等による東京都内緑化と都内の無電柱化エリア拡大・都内の大規模緑地を街路樹でつなぐヒートアイランド現象を緩和する「風の道」の整備・水辺の整備と水質改善が主な目標となっている。国立公園の監督者は国だが、自然環境保護のための施策は停滞が現状だったため、石原は東京都で、観光振興と自然保護を目的とした、日本初の行政主導のエコツーリズム導入を決める。行政主導のエコツーリズムは、2003年(平成15年)の4月から小笠原で初めて実施されるに至った。アルピニストの野口健が2003年に地方自治体におけるレンジャー(自然保護官)の必要性を直訴し、石原は、その翌朝に都レンジャー立ち上げを発表。野口健を隊長に2004年から始動が決定した。6人からスタートし19人体制となった。石原は、都知事辞任直前に都レンジャーの非常勤職員から東京都専門委員への格上げを決定した。青島幸男都政の政策を引き継ぎ、かねてより環境研究者に指摘されてきた、国の自動車排出ガス規制での対応では不足となっていた東京都の自動車排ガス公害の深刻さに対応するため、ディーゼル車への粒子状物質排出規制を首都圏の他の自治体と共同して行い、2000年(平成12年)には、都民の健康と安全を確保する環境に関する条例(通称:環境確保条例)を制定し、粒子状物質排出基準を超えるディーゼル車の、新車登録7年経過後の走行を禁止した(条例第37条、第38条)。この条例については、違法な上乗せ条例であるとの見解や、地域的な特殊性を考慮した適法な条例であるとの見解がある。石原はディーゼル車の数は全ての自動車の中の2割に過ぎないが、全ての自動車から排出される窒素酸化物の約7割と浮遊粒子物質(SPM)のほとんどを排出していることを示し、東京でディーゼル自動車の排気に含まれ排出される粉塵の量が、1日に500ccのペットボトル12万本分にも達するとして、会見等でペットボトル入りの煤を撒いて見せた。このような訴えは、環境省始め国による環境規制の強化を促したとされる。しかし、国は自動車NOx・PM法などで窒素酸化物の排出量がガソリン車の10倍であるディーゼル車からガソリン車への転換を図る政策をとっているが、それに乗じCO2排出量が少ないディーゼル車に対する過度の規制や、殊更にディーゼル車を悪者視するかのようなパフォーマンスは地球温暖化対策に逆行するという主張もある。都知事就任後の1999年(平成11年)、「地域環境の保全やまちづくりの観点から、自動車専用部の地下化案を基本として計画の具体化について取り組む」方針を表明し、美濃部亮吉都知事(当時)や国が1970年(昭和45年)以降、反対運動側に付いて凍結していた、東京外かく環状道路整備を解禁し、効率的な物流ネットワークの構築や慢性化した渋滞の緩和等を提唱・推進する。2003年には、当初の高架構造から大深度地下(地下40m)を通す計画に変更する「方針」を公表する。2007年3月15日、東京都の都市計画審議会にて、関越道・中央道・東名高速と接続する3ジャンクション(JCT) と、目白通り、青梅街道、東八道路の3インターチェンジ(IC)を設置する案が承認され、同年12月25日、国土交通省の第3回国土開発幹線自動車道建設会議にて基本計画が承認される。決定された計画では、関越自動車道の起点を練馬区から三鷹市に変更した上で、関越道から中央道までを関越自動車道として、中央道から東名までを中央自動車道として整備することとされた。石原はその後も折に触れ着工の前提となる整備計画を定めることを要望し、2009年4月27日の第4回国土開発幹線自動車道建設会議で整備計画が承認された。2011年12月12日に、国土交通省が同区間の着工方針を明らかにし、2013年9月8日に開催が決定した2020年夏季オリンピック大会までの完成を目指している。シールドトンネル等の主要部分は国が直轄施工し、大泉JCT - 中央JCT間(約9.9km)はNEXCO東日本、中央JCT - 東名JCT間(約6.3km)はNEXCO中日本が舗装・設備工事等を施工し完工後は有料道路として運営する見通し。2010年(平成22年)10月に完成して供用が開始された東京国際空港の四本目の滑走路(D滑走路)は、世界が時間的・空間的に狭小なものとなってきた国際化の時代に、空からのアクセスが国力の維持に絶対に必要なこととの考えのもと、当時政調会長であった親友の亀井静香とともに、当時の運輸省と協議して、15分の交渉で調査費をつけさせ着手に持ちこんだものとされる。お台場の臨海副都心開発計画は鈴木都政下で開始された。石原は事業推進の立場に立っている。当選直後の1999年度(平成11年度)には第三セクター3社に対して270億円の財政支援をおこなう計画を追認、さらに都によるビルの借り上げ支援や土地代の減免などさまざまな支援策を継続した。その後も投資は継続され、「首都東京の活力と創造力を生み出す新しい重要な事業」として投資や土地の提供など就任後の7年間で2兆5000億円(2006年(平成18年度)まで)を費やした。谷中霊園や青山霊園など、使用料の払われていない無縁墓地を整理・除去し、空いたスペースを2003年(平成15年)より新たな貸付スペースとしている。米軍横田基地の返還・軍民共同利用を公約とし、また麻布ヘリコプター基地(赤坂プレスセンター、ハーディバラックス)が不法占拠している都立青山公園の該当部分返還を要求している。2005年に横田空域の一部返還で日米両政府が合意の見通しとなり、2006年10月27日に日米両政府は横田空域の一部返還合意し石原の横田基地返還要請は航空交通管制権の一部返還という形で部分的に実現する。都道府県が主催し、警察・消防・自衛隊・防災関係機関などが参加する大規模災害を想定した総合防災訓練であるビッグレスキューが、石原の提唱により2000年9月3日に首都東京で初めて行われた。1995年1月の阪神淡路大震災、3月の地下鉄サリン事件発生を受け、近年中に発災が危惧される首都圏直下型地震とそれに付随する不測事態の対処能力を検証するためという大義名分で実施され、初の自衛隊参画による首都開催のビッグレスキューは首都に自衛隊と共に航空機や艦船といった防衛装備の軍機も集まり稼動される大規模な訓練となった。都内の主要官公庁のほかNTTや東京電力、帝都高速度交通営団(現東京メトロ)・都営地下鉄なども参加した。1999年から石原の要請により東京都災害対策担当参与に就任していた元陸上自衛官の志方俊之も訓練に参加した。訓練は約2万5000人が参加して、葛西・晴海・銀座など都内の計10会場で行われた。2001年9月1日には、七都県市合同防災訓練の一環として、東京都総合防災訓練「ビッグレスキュー東京2001」が東京都の多摩地域を中心に実施された。訓練は約1万5000人が参加して、調布基地跡地・立川広域防災基地・JR八王子駅など計7会場で行われ、防災訓練で初めて在日米軍基地(横田基地と赤坂プレスセンター)が使用された。2001年9月11日に米国で発生したアメリカ同時多発テロ事件発生下の緊急事態における、FEMA(連邦緊急事態管理庁)の機能に感心した石原は、8都県市と協定を結び「首都圏FEMA」を組織した。政府にも日本版FEMAの創設を提言した。「首都圏FEMA」により、東京直下型地震発生などの緊急時に都知事の要請で8都県市に控える警察官・消防・自衛官が一体となって対応する体制になった。「首都圏FEMA」構想の骨子は佐々淳行が立案した。合わせて、2003年に、大規模災害発生時など緊急事態の際に陣頭指揮を執る危機管理監ポストを新設し、2012年には、陸上自衛隊第10師団長を務め、東日本大震災発生時に陣頭指揮を執り、部内から定評があった宮崎泰樹を危機管理監に起用した 。2003年(平成15年10月17日)に『首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する共同宣言』を発表し不法滞在外国人(不法移民)を5年で半減するとした。目標達成と不法移民撲滅のため、「外国人滞在適正化連絡会議」の設置による違法活動の取り締まり及び啓発活動や警察官僚出身の竹花豊の副知事起用や警察官の増員を図って、「歌舞伎町浄化作戦」と言われた歌舞伎町治安対策などの治安対策を強化・実施した。東京都治安対策本部の発表によると共同宣言発表から5年間で全国の不法滞在者はおおむね半減したという。移民については2002年に、「アジアの人々を秩序ある移民政策のもとで正式に受け入れるべきである」という姿勢を示していた。2003年、石原は「経済波及効果、スポーツや観光の振興につながる」と述べ、銀座などの目抜き通りを走る構想を発表。石原の提唱により、東京都と日本陸上競技連盟で大都市マラソンを開催することを目指して協議を開始し、2005年両者は「東京マラソンに関する基本合意」を締結。2007年の第1回大会には抽選で選ばれた約3万人が参加した。大会会長を務める石原は、2008年2月15日の会見において当初よりも参加枠を広げていることを示し、「将来的に5万人」にして世界の市民マラソンに匹敵する大会にしたいという目標を述べた。また、2009年3月19日の定例会見では「多額の参加費を支払う人の別参加枠を 1,000人ほど設けて、参加費を超える部分をチャリティに使いたい」と目標を述べ、2010年10月15日の定例会見においてチャリティー枠を1,000人募集すると発表。2011年大会では参加費10万円のチャリティー枠に応募した707名から約7,300万円の寄付金が集まり、寄付金は東日本大震災の復興支援などに充てられた。応募者が参加枠の1000名を超えると期待していた石原は707名という応募者数について、他国の事例からすると募集をアナウンスしてから締め切るまでの時間が短すぎたことが誤算であったとし、それでも7000万の寄付金が集まったことは良い事例ができたものであり、翌年からはもっと多くの応募があることを期待していると声明を出した。ウォール・ストリート・ジャーナル日本語版の山口肇記者は、石原の肝いりで始まった東京マラソンは市民ランナーの増加に大きく貢献してきたとし、2011年大会において石原が都知事最後となる可能性があったことから、石原が都知事を辞めた場合、2012年以降の大会運営が気になるとして、後任知事の「事業仕分け」の対象になることを危惧するという一市民ランナーとしての見解を伝えた。2016年夏季オリンピック・2020年夏季オリンピックの東京都での開催を目指し、招致活動を進めた。2006年(平成18年)8月30日には国内候補地選定委員会において福岡市を破った。招致経費は55億円とされている。東京都は開催に向けて2006年度すでにオリンピック基金1000億円を積み立てており、その後3年間でさらに3000億円積み立てると表明した。「五輪が決まれば国が動かざるをえない。東京の欠点は交通渋滞。五輪を引き金に東京の暮らしがよくなる」とオリンピック招致の理由の一つとして道路渋滞の解消を挙げた。開催都市が決定する2009年(平成21年)10月2日に各国の候補都市から東京が選ばれない場合については、「責任を取らなきゃいかんでしょうね」と発言している。2008年(平成20年)6月には皇太子徳仁親王に招致活動への支援を求めるつもりである旨発言。宮内庁東宮職から「招致活動の段階からというのは…」と難色を示された事について「政府が正式に申し込んだら別な話だと思うね。宮内庁ごときが決めることじゃない。国家の問題なんだから。木っ端役人が、こんな大事な問題、宮内庁の見解で決めるもんじゃない」と述べた。この発言は都議会民主党に7月、「1964年東京、1972年札幌、1998年長野、いずれの招致にも皇族は関与していない。"一種の国家の総力戦”なる発言は国際親善を旨とする皇族の活動とは相容れない、"皇太子が日本のために一席弁じてもらうことに反対する人は誰もいない"なる発言は是非の議論を封じる危険な側面さえ持つ」と批判されている。また、瑞穂町議会で招致賛同決議案が否決されたことに対して「頭がどうかしているんじゃないのか、あとでほえ面かくな」と発言した。なお、2016年夏季オリンピックは、2009年(平成21年)10月のIOC総会でリオデジャネイロにて開催される事が決定した。この結果に対して6日、「ブラジルの大統領が、聞くところ、アフリカの人にかなり思い切った約束をしたというようです。サルコジ大統領もフランスの戦闘機を買ってくれるなら、ブラジルを支持するとか」と裏工作の存在を臭わせる発言を行ない、ブラジルの国内委員会から"聞き捨てならない。ルール違反でありIOCに通知する"とクレームを表明されたが、石原は「本当の事を言ったまでのことだけ」と反論している。石原は2009年(平成21年)11月9日、2020年夏季オリンピックにも東京都を再度立候補させる意向を表明し、後任の猪瀬直樹が引き継いだ。有識者会議メンバー(平成24年度のみ)を務めていた新国立競技場に関して、2015年7月には「建設費が足りないなら、都が新税をつくればいい」との持論を表明した。2003年(平成15年)、東京都が石原の発案で「東京発金融改革」と銘打ち、「資金調達に悩む中小企業を救済すること」を理念として設立した。2008年(平成20年)3月までに1016億円の累積赤字となっており、既に東京都の出資分1000億円を超過している。さらに、2005年(平成17年)4月から2008年(平成20年)1月までに出資した2300社が経営破綻し、285億円が不良債権化している。石原は同銀行の再建について「経営者に責任がある」「不退転の決意で必ず再建する」として、400億円の東京都による追加出資を行う方針を示したが、『産経新聞』や『読売新聞』も社説で銀行廃止を求めたほか、与党自民党も含め都議会の一部も増資に反対した。石原は2008年(平成20年)1月11日の都議会で「トップダウンで銀行設立を決めた知事の責任が大きい」との追及に対し、「私が社長ならもっと大きな銀行にしていた」「都民から預かった大事な税金を失いきる前に、私には銀行を再建する責任がある」と反論し、責任を否定すると共に存続を主張した。世論調査では都民の7割以上が反対していたが、結局都議会は400億円の税金投入による銀行再建を自民、公明両党の賛成多数により可決した。追加出資の400億円は都民1人当たり約3100円に相当し、すでに都が出資した 855億円を合わせて都民の負担は約11000円に達する。この問題ではNPO法人情報公開クリアリングハウスが2009年(平成21年)6月、出資金の計1255億円は回収が見込めない、石原と旧経営陣への賠償請求を都に求める住民訴訟を起こしている。石原は、新銀行東京が2009年(平成21年)5月に発表した2009年(平成21年)3月期決算において、同行の赤字が再建計画より少ない金額に留まったことについて「いい成り行きを見せており、とても嬉しい。早く単黒(単年度黒字)を出すようになってもらいたい」と述べている。2010年度も2009年度に引き続き黒字を確保している。国の基準では高校の必修科目になっていない日本史を全ての都立高校で必修とする方針と都独自の日本史科目「江戸から東京へ」科を都立高校で実施方針が2010年に決定し2012年に開始した。2012年に都が新たに開設した「江戸から東京へ」科の教材には、日本が対米戦争に踏み切った理由について「主に自衛のためだった」とするマッカーサーのアメリカ議会証言が掲載されている。同証言が公教育の教材で取り上げられるのは戦後初めてである。「江戸から東京へ」科のテキスト(教科書)は東京都教育委員会のホームページで公開されている。都立高校の歴史教材を変えるための活動には自民党から圧力がかかったという。都立高等学校は、1967年(昭和42年)の学校群制度導入以来、東京大学を初めとする難関大学への進学実績が大きく落ち込んでおり、1999年に都知事に就任した石原は、学区制を廃止して競争原理を導入し、生徒に選ばれる特色ある学校づくりが必要だという強い思いを持っていた。東京大学の鈴木啓和は、石原の就任後に実現していった「学区制の廃止」や「進学指導重点校」の制度、そして「エンカレッジスクール」は、石原の影響により実現していったものとしている。2000年2月には都立九段高校で特別授業の講師担当。2001年(平成13年、横山洋吉教育長(のち東京都副知事)は「進学指導重点校」を指定した。第一号に日比谷・西・戸山・八王子東が指定される。これによって「小尾通達」以来、都立学校としてはおよそ35年ぶりに公式に進学指導を打ち出す。「都立復権」をスローガンに各校が特色を出す方針を打ち出し、進学指導も都民の多様なニーズに応える一つの施策として位置づけられる。2003年(平成15年)には第二号として国立・立川・青山を追加した。2003年(平成15年)には学区制度を完全撤廃、2005年(平成17年)には都立学校では初となる附属中学を開校し中高一貫教育に乗り出した。中高一貫となる都立学校は、2010年(平成22年)には10校まで増える予定である(桜修館・小石川・白鴎・両国・富士・大泉・南多摩・北多摩・武蔵・三鷹)。2007年には「進学指導特別推進校」に新宿・駒場・小山台・国分寺・町田の5校が指定された。いわゆる中堅校に対しては「中堅校活性化推進事業」を展開し、学区撤廃に伴って各校が特色を出すことを推進。また、需要の少なくなった底辺校定時制などの廃統合を「下から順番につぶす。」「高校の事業整理。」として積極的に行った。自身は学歴観について「オール5を取っても使い物にならない役人にしかなれない。」「自分は東大に50人近く合格者を出した高校で東大へ行けなかったんだから落ちこぼれだった。」「何かひとつ秀でたものがあればいいんだ。」等と著書や講演や息子である良純の書いた著書の中での慎太郎の発言として述べている。「全く新しい大学をつくる」と公約。東京都立大学の改編により2005年(平成17年)に設立された大学である。一般の名称公募では「東京都立大学」が最多だったが、石原の意向で名称が「首都大学東京」となった。都立大法科大学院の入試が延期され、近代経済学グループ16名中15名が大学を去り経済学コースが設置できなくなり、採択された21世紀COEプログラム「金融市場のミクロ構造と制度設計」の補助金を返上した。石原は経済学部のCOE返上問題について「一部のバカ野郎が反対して(COEの)金が出なくなったが、あんなものどうでもいい」と発言している。一定規模以上(資金量の残高が5兆円以上)の大手銀行を対象に、5年間の時限措置として外形標準課税を導入した(いわゆる銀行税)。銀行側は「狙い撃ち」と反発し訴訟に発展、東京高裁・森脇勝裁判長は銀行への課税自体は合法と認めた上で、税率負担の水準が不公平で高すぎるとして違法と判断、都側は事実上敗訴した。平成12年度から15年度までの銀行税収入は3173億円にのぼったが、銀行側と税率引き下げを条件に和解し年率4.1 - 4.5%という高率で発生した還付加算金123億円を含め2344億円を銀行側に返還した。敗訴の結果、銀行税は導入時の3%から、過去10年間の銀行の納税額の平均である0.9%へと引き下げられ、都の税収は同税導入以前の水準とほぼ同じ829 億円に留った。「税収を増やす」という本来の目的としては失敗したものの、自治体の独自課税の動きに大きな影響を与えた。知事就任前年の1998年から在任最終年の2012年までの歳出分野別の歳出額は以下の通り。知事在任最終年の東京都の平成24年度(2012年度)一般会計 歳出予算で占める割合が最も多いのは福祉保健費で、一般会計歳出全体の15.4%を占めている。次に多いのが教育費の12.2% 警察費が10.2% 土木費が7.7%である。児童の医療費無料範囲拡大、児童扶養手当受給者に対する都営交通無料乗車券の交付。国の認可保育所に申し込み、要件を満たしているものの、保育所の不足により、入所待ちを余儀なくされている待機児童が増加しており、都内にはその受け皿となる無認可保育所が存在していた。しかし無認可のため、有資格者が不足していたり、環境が劣悪なところもあった。そこで石原は国の認可保育所に頼るのではなく、都独自の基準を設けて、都市型保育のニーズに応える認証保育所を創設。2001年(平成13年)8月1日に都内の三カ所でオープンし、2011年(平成23年)の時点で615ヶ所の認証保育所が設置されるに至っている。東京都シルバーパス制度は、2000年(平成12年)の東京都シルバーパス条例(東京都条例第133号)によるものである。前身は東京都シルバーパス交付条例(昭和55年東京都条例第23号)。この福祉乗車証は東京都内在住で、満70歳以上であればパスの交付を受けることができる。ただし、寝たきりで公共交通機関が利用できない場合は購入できない。パスの有効期間は毎年10月1日から翌年9月30日までである。パス交付の費用は20,510円(一年間有効)であるが、有効期限が半年以内であれば10,255円となる。ただし、市町村民税(特別区民税含む)非課税者の場合は、期間によらず一律1,000円である。この乗車証を利用することによって、以下に記載された路線バス・都営交通を自由に乗り降りでき、交通弱者とされる高齢者の利便を図るものとなっている。首都機能移転には「膨大な経費をかけて新都市を建設するよりも、首都東京の歴史的文化的蓄積を活用すべき」とし、強く反対している。東京が「首都」であることを死守することも念頭に、都立大の後身となる大学の名称には、石原の意向により首都という言葉が組み込んだ「首都大学東京」が採用された。2001年(平成13年)11月21日の衆議院の「国会等の移転に関する特別委員会」では1990年(平成2年)に衆参両院で可決された「国会等の移転に関する決議」を「ばかな決議」と批判し、問題となった。しかし、その際に同委員会の委員長から「新聞社の写真等を見る限り、石原参考人は(同決議の際に)起立していた」と指摘された。この指摘を受けて「周囲を確認するためだった」との回答書を提出した。なお、大阪を副首都とすることには賛成している。都心部である千代田区紀尾井町に残るわずかな緑の空間を候補地にした、参議院による新清水谷議員宿舎建て替えに反対を表明した。2008年12月、石原と西岡武夫参院議院運営委員長、石川雅己・千代田区長の三者は計画を白紙に戻すことで合意した。東京都青少年の健全な育成に関する条例を、2010年(平成22年)に青少年の性的感情を刺激させる性行為の描写を視覚により認識する事の出来る青少年性的視覚描写物図書類の販売、頒布、貸し付けを経営者が認める時は、青少年に閲覧させないように務めなければならないとする条項を加え改正した。改正条例には、「作品に表現した芸術性、社会性などの趣旨をくみ取り、慎重に運用すること」という附帯決議が添えられた。東京都議会の平成22年第1回定例会で「児童ポルノや子供への強姦等を描いた漫画の蔓延を、見て楽しむだけなら個人の自由である、いかなる内容であっても表現の自由である、と許容することは、これは自由の履き違えであり、青少年を守り育てる大人としての責任と自覚を欠いた、未成熟な人間の自己保身に他ならない」と述べて、「青少年健全育成条例(東京都青少年の健全な育成に関する条例)を改正し、児童ポルノの根絶とこの種の図書類の蔓延の防止に向けて都が、都民、事業者と一体となって取り組み、現在のおぞましい状況にこの東京から決別していきたい」と宣言した。3月19日の定例会見では「私は残念ながらね、(規制の)対象となっているものは読んでもいないし、見てもいないのでねぇ」と言う一方で、漫画やアニメが青少年に害悪を与えることがあるのかどうかについては「ありますよ、そりゃ。(記者に向かって)ないと思うのか君」と述べた。同条例改正案は2010年(平成22年)6月14日都議会総務委員会において民主共産両党と生活者ネットワーク・みらいの反対票によって否決、同16日に本会議でも否決された。都議会で知事提出の条例案が否決されるのは12年ぶり。修正の上で民主、自民、公明の3党が再提出した結果、2010年(平成22年)12月15日に可決され成立した。同条例反対者からは、石原の過去の小説を引き合いに出した反対論が相次いだ。ちばてつやは18歳未満の児童に対する強姦・輪姦や、障害者女性に対する輪姦などを扱った石原の小説とその小説の映画化の内容がきっかけで設置されたのが映倫であった点に触れ、「知事が小説家としてどういう作品を書いてデビューしたかは皆さんご存じだと思う、表現は自由であり若者の支持を得てデビューした原点は忘れないで欲しい、文化が滅びる」と反対意見を述べている。2011年(平成23年) 5月17日、東京国際アニメフェアとこれに対抗して予定されていた「アニメ コンテンツ エキスポ」が共に東日本大震災の影響で中止されたことについて、生番組内で「両方とも震災でパーになった。ざまぁみろだ」と発言し、同時に、エロマンガを子どもの手の届くところに置くなという条例を作ったもので、なぜこれが言論統制なのか、と条例案への批判は当たらないとの見方を示し、その場に同席した 田原総一朗は「例えば大人の本でも、ヌードが多い本なんかは、ビニールで囲ってある。その程度のことをやれってことでしょ?」と同意を示した。この際の石原の「ざまぁみろ」の発言に関して、朝日新聞は「このような発言を続ける人物が首都の首長でいられること、そして選んだ都民の神経を疑う」という投書者の声を載せた。石原は衆議院議員時代の公設秘書で青嵐会の裏方も務めた浜渦武生を副知事に就任させた。2005年(平成17年)3月には、都が練馬区に建設した東京都社会福祉総合学院について都議会予算委で浜渦が民主党に質問を依頼した事実が35年ぶりに設置された百条委員会で判明し、同年5月12日には同委員会は質問依頼を否定した浜渦の偽証を認定した。6月2日の都議会では浜渦の問責決議が可決され、浜渦は7月に副知事を辞職した。石原は浜渦が民主党にやらせ質問を依頼したことについて、「やっぱり責任政党の自民党が質問してくれたら一番よかったと思うし、だから僕はそうさせろと言った」と述べ、自民党に質問を依頼するよう指示したことにも言及している。また、「どうも自民党も動きそうもない。それで、民主党ということになったのかな」と述べた。石原は「やらせ質問」の是非に関しても「話題になれば非常にいいなと思った。それが議会ってもんじゃないの?」と肯定的な見解を示している。石原は定例記者会見で浜渦を「非常に有能な腹心」「余人を持って代え難い」と再三持ち上げ、「最後は浜渦と私で涙を流して話した。泣いて馬謖を切る以上に大事な人材」と心境を吐露した。また、浜渦が度々暴力事件を起し、問題になっていたことについては「(殴り合いなど)男の世界には良くあること。むしろ無い方が嘆かわしいね」と発言している。浜渦は副知事辞任直後の2005年(平成17年)9月から、東京都が出資している外郭団体である第3セクターのビル会社東京交通会館の副社長に就任した。石原は「その後の就職の世話を都としてするのは当然じゃないですか」「あの人材を埋もらせるわけにいかないでしょう、それっきりにして。東京都のためにこれからも働いてもらいますよ」との見解を示し、2006年(平成18年)7月22日に浜渦を年度末まで都の参与(都政の課題について知事に助言する非常勤の特別職)に迎えたことを明らかにした。東京都議会では自民党と公明党が一貫して与党である。民主党や生活者ネット、社民党(ただし、社民党は2001年東京都議会議員選挙で公認候補全員落選以降議席0が続いている)なども、都知事選挙では対立候補を立てるものの、都議会での議案に対する姿勢などから通常はいわゆるオール与党であるという意見があり、日本共産党からは選挙前の批判はポーズに過ぎないと批判されている。2007年(平成19年)の知事選以降、民主党などは距離を取ることが増えていたが、政権交代後は築地市場の移転関連予算計上に一転賛成したりなど再接近の機会も増えている。共産党は初期には「是々非々」の立場を取っていたが、次第に対決姿勢を強めている。石原は自民党の都議の選挙には選挙ポスターに一緒に写ったり、応援の演説などを行っていたが、3 期目の知事選出馬の表明後は早々に自ら自民党に推薦を依頼していたが、2007年(平成19年)2月19日に突如「政党の看板に支えられた選挙は合わない」と自民党からの推薦を辞退することを表明した。石原は同年2月22日の都議会において、「手打ち」として都議補選の自民党候補に協力することを約束したが、メンツを潰された自民党都議団は「安倍内閣の支持率が落ちていることを気にしたのだろうが、知事は小心過ぎる」と不満を露わにした。また、石原は2007年(平成19年)3月21日に公明党に協力を要請しており、公明党側も実質的な支援を決定した。しかしかつては公明党及びその支持母体である創価学会を痛烈に批判していたこともあった。2010年(平成22年)4月10日、「たちあがれ日本」の命名者として、平沼新党の結党の発起人に名を連ねた。全国市民オンブズマン連絡会議による2006年(平成18年)の第11回全国情報公開度ランキングでは、東京都は閲覧手数料を徴収するという理由により「失格」となり、ランキング外となった(他の失格自治体は香川県のみ)。情報公開度のポイント評価は全国47都道府県中ワースト3に相当する位置付けとなっている。東京都のこの調査における失格評価は石原都政以前も含み2007年まで10年連続である。石原は「公開請求の55%は都外の人で、東京での業務展開に必要とする人が多い。都民の税金を使うわけにいかず、『失格』というのはとんちんかん」と反論している。石原は2000年(平成12年)に発生した三宅島火山の噴火による観光客減少への対策として、イギリスのマン島で行われているマン島TTレースを参考に、日本初となる一般道路を使用した本格的なオートバイレースを三宅島で開催することを提唱した。レースは東京都と三宅村が主催し、2007年(平成19年)11月9日から11日に開催が予定されていたが、「公道でスピードを競うのは危険すぎる」との意見が本田技研工業など二輪大手4社から続出し、中止が決定した。都は、専門家による検討経費などに4000万円、都道改修に3億円を2007年度予算に計上していた。結局、三宅村では代替イベントとしてチャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバルを開催することを発表している。東京都が2006年(平成18年)に三宅島で実施したテスト走行に参加したプロレーサー3人のうち2人が報告書で危険性を指摘し、公道レースの開催に反対を表明していることが2007年(平成19年)2月23日の都議会で明らかになっており、バイクレースの専門家からも「殺人レースだ。絶対にやめるべし」と批判されていることに対し、石原は「レースは危険があるからエキサイトする。ある程度ライダーの自己責任もある」として同レースを強行する姿勢を示していた。また、『朝日新聞』は「三宅島は現在も火山ガスが噴出しており航空路は再開していないため、観光客誘致の起爆剤となるのかは未知数」と報じた。石原は観光客や機材の輸送には海路を用いる考えを示していた。東京都では美濃部都政以前は公営ギャンブルによる収入があったが、美濃部都政の公営ギャンブル廃止方針により以後、東京都の収入は減少した。やまと新聞社によれば、都の収入減少と都民から娯楽を奪わないで欲しいとの声が相次いだ経緯があり、石原は公営ギャンブルによる収入を得るため、お台場カジノ構想と「後楽園競輪」の復活を提案していた。石原は、中央区築地にある築地市場を、施設の老朽化やアスベスト問題のため、2012年度を目処に江東区豊洲地区へ移転させる方針を明らかにしているが、予定地である東京ガスの工場跡地において、環境基準を超える毒物(鉛・ヒ素・六価クロム・シアン・水銀・ベンゼンの6種類が国の環境基準を超えており、発癌性物質であるベンゼンにいたっては国の基準の1500倍である)が検出されるなど土壌汚染が判明している。また、土壌を入れ替え、アスファルトで被覆する都の対策では不十分との指摘がある。一部の関係者は「生鮮食品を扱う市場の移転先としては論外」とし、築地市場移転反対派の団体「市場を考える会」が中心となって移転反対運動を行っている。石原は「築地は古くて清潔でない。都民や消費者の利益を考えれば、市場を維持するわけにはいかない。ほかに適地はない」と述べて、移転計画に変更は無いとし、移転後の跡地には「2016年東京オリンピック」のメディアセンターを建設する構想を明らかにしている。また、石原は2006年(平成18年)9月8日の定例記者会見において築地市場跡地に「NHKが移転する」と発言したが、NHKは「そんな計画はない」と否定している。2007年(平成19年)10月6日には、東京都は移転予定の豊洲において調査した56カ所のうち14カ所で有害物質のベンゼンが基準値の1000倍の値で検出されたと発表した。2012年(平成24年)4月に、東京都が尖閣諸島を地権者より購入する計画について記者会見し、2012年4月27日より東京都によって東京都尖閣諸島寄附金が募られた。寄附金は2012年10月24日現在で14億7800万円。石原は寄附金を基金化し総選挙後の新政権に託す考えを示している。東京都による尖閣購入計画が持ち上がっていた当時、自民党は所属全議員に対し、賛成しないよう緘口令を敷いたという。衆院選当選時に80歳と高齢でありながら、党を代表して国会での質疑に立っている。国政復帰初の2013年2月12日の国会質疑を「国民への遺言」とした。同年4月17日と12月4日には安倍首相との党首討論に臨んでおり、10月16日には衆議院本会議において代表質問を行った。国政復帰後は、主に自主憲法の制定を強く訴えている。現行憲法は、前文は極めて醜い日本語で、歴史的正当性がなくアメリカが日本の解体統治のために一方的に速成したものだとして、衆議院本会議で質問に立った際に変更を促した。石原は、議員当選後に「体調不良」から入院し、姿を見せない時期がしばらく続いていた。これに対し、2013年3月28日に『週刊新潮』が「菅直人の周辺が石原の脳梗塞発症説を漏らしている」と報じた。その後、3月30日に退院した石原は、復帰に伴う記者会見において「軽い脳梗塞」を発症していたことを認めた。日本維新の会では大阪系の議員らと政策や党運営で対立する局面がたびたびあったが、原子力政策を巡っては2014年3月に石原が会長を務める党エネルギー調査会の初会合で講演中、当時会期中の第186回国会で採決予定だったトルコなどへの原発輸出を可能にする原子力協定について、党が昨年12月の両院議員総会で多数決で原子力協定反対を決めたことを「ばかばかしい。高校の生徒会のやり方だ」と批判。その上で「私は採決のとき賛成する」と明言した。党の方針に背いて独自に行動することを宣言したことに反発した大阪系の浦野靖人衆院議員(当選1回)が「(党の決定に)反対なら党から出ていったらよろしい」と発言、他の複数の大阪系議員も同調したさらに結いの党との合併協議に際しては「結いの党は護憲政党だ」などとして否定的なスタンスをつらぬき、新党の綱領に自主憲法制定を目指すなどの文言を入れることに固執。あくまで意見の隔たりの大きい結いと合流し政界再編を目指す橋下共同代表や松野頼久国会議員団幹事長らとの決裂が決定的となった。2014年5月28日付で日本維新の会からの分党を表明、同6月5日付で「新党準備会」を発足。石原グループの離党ではなく一度解散したうえでの分党(政党助成法上の分割)という手続きを取ることで、維新が受け取るはずだった政党助成金は議員数に比例して橋下グループの新党「日本維新の会」と石原グループ「次世代の党」の両者に按分される。7月30日までに、両者間で政党助成金の分配額など、分党に必要な手続きに関する協議を終え、7月31日総務省への解散届出をもって正式に分党。翌8月1日に平沼赳夫を党首として新党「次世代の党」を発足・総務省へ届け出、石原は党最高顧問に就任した。2014年11月に衆議院解散が確定的となると、石原は高齢を理由とした自らの体調不安から選挙前の引退を示唆した。しかし、党内からの強い希望もあり、比例単独候補(東京ブロック)として出馬を決断。石原本人の希望により「後輩を一人でも多く当選させたい」として比例順位は最下位にあたる9位だった。結果として次世代の党は石原が出馬した東京ブロックを含む全ての比例ブロックで議席を獲得するには至らず、石原は落選。選挙後の2014年12月16日に記者会見を開き、政界引退を表明した。会見で「歴史の十字路に何度か自分の身をさらして立つことができたことは政治家としても物書きとしてもありがたい経験だった」と述べ、わりと晴れ晴れとした気持ちで政界を去れるとの見解を述べた。2015年春の褒章で旭日大綬章受章。政治的には、歯に衣着せぬ発言が支持を得る一方、政治問題化されるケースもある。批判に対しては安易な謝罪や訂正を拒否し、臆することなく堂々と反論を表明するという強気のスタンスを貫き、失言によって辞職に追い込まれたことは一度もなかった。日本の慰安婦について、「日本人が彼女たちを強制連行した証拠はない。生活が苦しい時期、女性が売春をすることは金をもうけるための仕事のひとつだった。彼女たちは自らこの仕事を選んだ」と発言した。また野村秋介について「通夜の席で“なぜ朝日新聞社に乗り込んだ時に相手(時の社長中江利忠)と刺し違えなかった”と言ってやった」、「彼は朝日新聞に対して、命がけで決着をつけるべきだったのです。そうすれば、彼らはもう少しまともな会社になっていたのではないか。朝日が国を売った慰安婦報道をひっくり返した今、なおさらそう思います」、河野一郎邸焼き討ち事件を引いて「野村はそれで12年間、刑務所に入りました。もちろん放火という行為は推奨できないが、命懸けだった。少なくとも昔の言論人は命懸け、最近、そういう志の高い右翼はまったくいなくなりました。今(2014年現在)は、朝日が何をしようと安穏と過ごせる、結局うやむやにして過ごせる時代です」と発言。
出典:wikipedia
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