コッド (USS Cod, SS/AGSS/IXSS-224) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の13番艦。艦名は北大西洋及び北太平洋に生息するタラに因む。コッドは1942年7月21日にコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で起工する。1943年3月21日にG・M・マホニー夫人によって進水し、艦長ジェームズ・C・デンプシー少佐(アナポリス1931年組)の指揮下1943年6月21日に就役する。コッドは作戦準備のためブリスベンに、次いでダーウィンに回航された。10月14日、コッドは最初の哨戒で南シナ海に向かった。バンダ海、モルッカ海を抜けて、中沙諸島近海の哨戒海域に到着。コッドは敵を求めて海南島、トンキン湾にまで足を伸ばした。11月29日朝、コッドはの地点で輸送船とタンカーで構成された輸送船団を発見し、7,000トン級輸送船に向けて魚雷を4本、4,700トン級輸送船に向けて魚雷を2本発射し、7,000トン級輸送船に2本が命中して撃沈、4,700トン級輸送船に1本が命中して撃破したと判定される。コッドはモルッカ海を通ってダーウィンに寄港。12月16日、コッドは63日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。1944年1月11日、コッドは2回目の哨戒でハルマヘラ島、ジャワ島、南シナ海方面に向かった。哨戒期間の前半は南シナ海で行動し、1月29日にはの地点で輸送船団に接触したが、よい攻撃位置を占めることが出来なかった。2月9日夕刻、コッドはの地点で単独で航行する5,000トン級輸送船を発見し、深夜に入ってから魚雷を4本発射したが命中しなかった。2月16日にはのミンドロ海峡でサンパンを発見し、4インチ砲と20ミリ機銃の射撃で破壊した。コッドは南に下り、サンギヘ諸島近海に到着。2月23日朝、コッドはのハルマヘラ島北東海域で輸送船団を発見。夜まで追跡の上、タンカーに向けて魚雷を4本、護衛艦に向けて魚雷を2本それぞれ発射し、魚雷は特設運送船(給油)第三小倉丸(共同企業、7,350トン)に2本命中して撃沈した。4日後の2月27日には、の地点で輸送船大速丸(大阪商船、2,473トン)を発見し、魚雷を4本発射して2本を命中させて撃沈した。2月29日午後にもの地点で輸送船を発見して魚雷を3本発射したが、「千鳥型水雷艇」と「照月型駆逐艦」からの爆雷攻撃に遭い、深深度潜航を余儀なくされた。3月13日、コッドは62日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。4月6日、コッドは3回目の哨戒でスールー海、南シナ海、ルソン島方面に向かった。5月10日朝、コッドはのマニラ湾口北西海域で、レーダーで輸送船団の接近を探知。観測し続け、ほどなく輸送船と護衛艦総計32隻にも及ぶミ03船団の姿を発見。コッドは船団の中に割って入り、の地点に至った所で前部と後部の発射管から魚雷を計9本発射。後部からの3本の魚雷のうち2本が駆逐艦刈萱に命中して撃沈。前部からの6本の魚雷は笠戸丸級輸送船、阿蘇山丸級輸送船、ぶりすべん丸級輸送船に向けられ、1本が阿蘇山丸級輸送船、すなわち特設運送船昌平丸(三井船舶、7,255トン)に命中してこれを撃沈。他の目標にも1本ずつ命中したと判断された。6月1日、コッドは56日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がジェームズ・A・"キャディ" アドキンス少佐(アナポリス1926年組)に代わった。7月3日、コッドは4回目の哨戒で南シナ海、ルソン、ジャワ方面に向かった。7月16日朝、コッドはのカラミアン諸島近海で3隻の輸送船団を発見。の地点に至り、2,000トン級輸送船に対してまず艦首発射管から魚雷を6本発射したが命中せず、艦尾発射管からも魚雷を4本発射したがこれも命中せず、逆に反撃を食らって2基のエンジンに軽度のダメージがあった。コッドは一度はこの船団との接触を失うが、夜に入って再び発見し、日付が7月17日になった直後にの地点で三度目の攻撃を仕掛ける。この攻撃では魚雷を3本発射したが命中せず、近在のレイポン ("USS Lapon, SS-260") にこの船団の始末を委ねて攻撃を打ち切った。コッドは西進し、同じ日の夜にの地点で7隻の輸送船団を発見し、魚雷を6本発射して1つの不正確な命中を確認する。近海、マニラ湾口に引き返し、7月20日未明にはの地点で4隻の輸送船団を発見し、5,000トン級輸送船に対して魚雷を4本発射したが、命中しなかった。コッドは早くも魚雷が残り1本となったので、一旦ダーウィンに引き返すこととなった。その途中の7月25日、コッドはのリフマトラ島近海で3隻の輸送船団を発見。夜に入り、の地点にて輸送船団に対して最後の魚雷を発射したが、命中しなかった。コッドは、補給のため7月29日にダーウィンに寄港し、魚雷、燃料、食料品を搭載して8月1日にブルーフィッシュ ("USS Bluefish, SS-222") とともに再出撃した。8月3日未明、コッドはの近海で特設捕獲網艇星光丸(三光汽船、708トン)を発見し、魚雷を4本発射して3本を命中させて撃沈。8月10日午前には、の地点で特設駆潜艇東石丸(日本海洋漁業、89トン)に対して魚雷を4本発射し、うち3本を命中させて撃沈した。夜にはの地点で輸送船第六新生丸(林兼商店、260トン)を発見し、魚雷を4本発射して1本を命中させるが、沈む気配は見せなかった。日付が8月11日に変わってすぐ、のサラヤル海峡近海で再度の攻撃を行い、魚雷を4本発射して1本を命中させ、第六新生丸は2つの爆発を起こした後沈没していった。8月13日昼ごろ、コッドはの地点で船舶を発見し、浮上して4インチ砲と20ミリ機銃で砲撃して1発の不確実な命中を確認する。相手は戦車揚陸艦のようではあったが、味方が得ていた日本海軍艦船情報に戦車揚陸艦に関する情報はなかったため、その姿をスケッチに描いた後、月夜下での攻撃を期して潜航した。日付変わって8月14日未明、コッドはの地点で、未知の戦車揚陸艦、すなわち第129号輸送艦に対して魚雷を4本発射し、3本を命中させて撃沈した。8月18日にもの地点で、レーダーを使って探知した目標に対して魚雷を4本発射したが、いずれも命中しなかった。8月25日、コッドは53日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。9月18日、コッドは5回目の哨戒でブルーギル ("USS Bluegill, SS-242") 、アングラー ("USS Angler, SS-240") とウルフパックを構成し、ルソン島、ミンダナオ島方面に向かった。ダーウィンに寄港の後、哨区に到着。10月5日午後、コッドはのミンドロ島近海でマミ11船団を発見し、最初の攻撃で魚雷を6本発射。うち3本が2隻のタンカーに命中したと判断される。2時間後の二度目の攻撃では、最初の攻撃で速力が落ちた輸送船辰城丸(辰馬汽船、6,886トン)に対して魚雷を4本発射し、全て命中させて辰城丸を撃沈した。10月7日未明には僚艦レイ ("USS Ray, SS-271") からの情報に基づいて目標に接近し、のマニラ北西方で特務艦知床を発見して魚雷を4本発射、うち2本を命中させて撃破した。翌10月8日にもレイの情報に基づき、の地点で1,500トン級輸送船に対して魚雷を6本発射したが、目標が推定18ノットで走り回っていたためか命中しなかった。10月22日朝、コッドはの地点で100トン級海上トラックを発見し、浮上して4インチ砲の射撃と機銃掃射を行ったが、命中弾を与えたものの取り逃がす。10月23日から25日のレイテ沖海戦では引き続きルソン島西岸部で待機。10月25日にはマニラに接近しつつある輸送船団の情報が入り、その輸送船団、フィリピンの戦いに投入される第一師団(片岡董中将)の将兵、軍需品を満載したモマ04船団には浅間丸(日本郵船、16,975トン)の名前もあった。コッドは浮上したままレーダーを使用してモマ04船団に接近していき、の地点にて浅間丸に対して魚雷を4本発射したが命中しなかった。10月30日からはサイパン島からの指令を受けるようになり、フィリピン東方海上で行動する。11月20日、コッドは59日間の行動を終えて真珠湾に帰投。メア・アイランド海軍造船所に回航されてオーバーホールに入った。オーバーホールを終えたコッドは、1945年3月7日に真珠湾に戻った。3月24日、コッドは6回目の哨戒で東シナ海に向かった。この哨戒では主に救助活動を担当することとなった。3人のパイロットを救助した後、4月17日にはの地点で浮上砲戦でタグボートと木造のタンカーを撃沈した。コッドは生存者を救助し、タグボートの名は "Choyo Maru" と言い、下関の船でコールサインは "JUVJ" であることが分かった。木造のタンカーの生存者の方は、船の名前を "Baishi Maru" あるいは "Banshi Maru" と言った。4月24日深夜、コッドはの基隆港外で2隻の船を発見し、そのうちの1隻に対して魚雷を4本発射するがこの攻撃は失敗し、コッドは旋回して後部発射管から魚雷を3本発射してうち1本が命中して目標は沈没した。攻撃後、コッドは1人の下士官を救助し尋問した。尋問の結果、彼の名前は恐らく「アリマ」と思われ、今しがた撃沈した、彼の乗っていた艦船は第41号掃海艇だろうということが分かった。4月25日朝には、の地点で小型警備艇に対して魚雷を6本発射したが命中しなかった。4月26日夜、コッドは浮上中に後部魚雷発射管室で火災を起こし、その復旧に努めた。魚雷の誘爆を防ぐため、コッドの後部発射管に搭載された魚雷は手動発射で放棄されることとなった。コッドの乗組員は火災を冒して消火と放棄に務めたが、その作業中に魚雷積み込み用のハッチから L・E・フォーリーとアンドリュー・G・ジョンソンが海中に転落した。フォーリーは翌朝救助されたが、ジョンソンはそのまま行方不明となった。5月29日、コッドは65日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投、コッドの艦長はエドウィン・M・ウエストブルック・ジュニア少佐(アナポリス1938年組)に代わった。6月26日、コッドは7回目の哨戒で南シナ海、タイランド湾方面に向かった。7月7日にカムラン湾を偵察した後、コッドはスービック湾に向かう予定だった。その翌日、コッドはの南沙諸島日積礁 "Ladd Reef" に乗り上げたオランダ海軍の潜水艦 ("HNLMS O-19")の救援のため現場に急行した。同日夜に現場に到着したコッドはO-19の引き降ろし作業に取りかかった。しかしO-19はびくともせず作業は無駄に終わり、 O-19の引き降ろしを断念して処分することとなった。7月10日、コッドはO-19の乗組員全員を収容した後に5インチ砲弾16発と魚雷を2本撃ちこんでO-19を処分した。コッドはO-19の乗組員を乗せてスービック湾に向かい、7月13日に彼らを上陸させた後、翌日に再出撃した。7月19日、コッドは行きの輸送船団攻撃の際に護衛の駆逐艦神風の反撃で損傷したホークビル ("USS Hawkbill, SS-366") に代わって船団を追跡、の地点で船団に追いついて魚雷を3本発射したが攻撃に失敗した。コッドは船団情報を発信し、それに基づいてバンパー ("USS Bumper, SS-333") が船団に食いついた。7月21日から8月1日までの間、コッドはマレー半島テンゴール岬沖で小物狩りに勤しんだ。この期間に友好的な現地住民を助けた上で臨検して破壊した総計23隻ものモーターサンパンやスクーナー、ジャンク、はしけはシンガポール方面の日本軍勢力に対するこの時期に唯一残された補給路であった。コッドの攻撃により、小船集団とともに米、砂糖、ガソリンなど各種油類、紙、コーヒーなどの物資は海中に消え失せた。8月1日の攻撃の際に哨戒機に発見されたためコッドは潜航し、サンパンの乗組員は後日、ブレニー ("USS Blenny, SS-324") に救助された。8月13日、コッドは47日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。この時、 O-19 乗組員一同が帰投したコッドを出迎え、コッドの乗組員のためにパーティーを開くこととなった。2人の乗組員は日本の降伏を知っていた。この忘れがたい記念として、コッドのバトルフラッグと艦橋には "O-19" の文字とマティーニが描かれた。コッドは8月31日にフリーマントルを出港し、帰途にマイアミとフィラデルフィアに寄港した後、11月3日にニューロンドンに到着。その後、1946年6月22日に予備役艦となった。コッドはフランシス・E・リッチ艦長の指揮下1951年に再就役し、NATOの対潜水艦訓練演習に参加する。冷戦下における航海はニューファンドランド島沖で行われた。演習「"LANTFLEX'52"」でコッドはアメリカ軍の空母を撃沈し賞賛された。コッドは1954年に予備役となり保管された。1959年にはオハイオ州クリーブランドで予備役訓練艦として使用するため、新たに作られたセント・ローレンス水路を通って曳航された。歴戦の武勲艦は遠足で訪れた児童達によって見学された。コッドは1962年12月1日に AGSS-224 (実験潜水艦)へ艦種変更され、1971年6月30日には IXSS-224 (非分類雑役潜水艦)へ再変更され、同年に除籍された。コッドは12隻以上の敵艦を沈め、その総トン数は37,000トン以上になる。さらに36,000トンにおよぶ敵艦を破壊した。7回の哨戒は成功し、その戦功で7個の従軍星章を受章した。一部のクリーブランド市民がコッドの船体を湖畔上の記念碑として保存するため、コッド保存委員会を組織した。1976年1月に海軍は委員会に潜水艦の後見の権利を与えた。1976年5月にコッドは浮かぶ記念碑としての経歴が始まり、間もなく観光名所としての地位を確立した。1986年には内務省がコッドをアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定した。コッドは現在もクリーブランドで博物館船として、アメリカ海軍潜水艦部隊100年の歴史において殉職した3,900名以上の乗組員の記念碑として公開されている。また、毎年5月1日から9月30日の間に艦を訪れるよう宣伝が行われる。コッドは非常に良く復元され、唯一公開展示のためドアや船体を切断したり階段を設置されなかった潜水艦である。コッドを訪れた見学者は乗組員が使用したのと同じ垂直梯子やハッチを使って艦内に入る。コッドの4基のディーゼルエンジンはゼネラル・モーターズのクリーブランド工場によって生産されたため、クリーブランドは艦の生誕地の一部であると主張することができる。コッドの記念碑は最近スティングレイ ("USS Stingray, SS-186") で使用された2基のGMクリーブランド・モデル248エンジンを取得した。2基のエンジンはコッドの復元のために使用された。
出典:wikipedia
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